和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

神社神輿(みこし)。

2008-07-18 | Weblog
明日。7月19日は神輿をかつぐのですが、私は臨時会計ということで、寄付をもらう係。残念かつげません。地方の神輿なので、重い。重い。のんびりと担ぎながら、歌をうたってゆきます。こちらでは、キタ節というのですが、フシをつけて、ゆっくりと歌いながらゆきます。最近は歌い手が多くてなかなか、歌いたくても、歌えなかったりします。

   咲いた桜に なぜ駒つなぐ 駒が勇めば 花が散る 花が散る

   今日は嬉しや 皆様と一座 明日はどなたと 一座やら 一座やら

   揃った揃ったよ 若衆が揃った 稲の出穂より まだ揃った まだ揃った

   入れておくれよ かゆくてならぬ 私一人が 蚊帳の外 蚊帳の外

   何と皆様 唄おじゃないか 唄でご器量は 下りゃせぬ 下りゃせぬ

   今宵一夜は 浦島太郎 明けて悔しい 玉手箱 玉手箱


などと、歌いながら、囃しながら、ゆきます。明日は暑そうだなあ。ちなみに昨年は台風接近で取止めになっておりました。

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草田男の夏。

2008-07-16 | Weblog
中村弓子著「わが父草田男」(みすず書房)に、こうはじまる文がありました。

「  毒消し飲むやわが詩多産の夏来る
夏こそは父の季節であった。父は7月24日に生まれ、8月5日に亡くなった。暑い季節がやってくると家族は全員げんなりしている中で、『瀬戸内海の凪(なぎ)の暑さなんてこんなもんじゃありませんよ』などと言いながら、まるで夏の暑さと光をエネルギーにしているかのように、大汗をかきながらも毎日嬉々として句作に出かけていた。その父が亡くなってから5年目の夏が来ようとしている。・・・」(p57)


そういえば、去年の夏は、私はたしか伊東静雄をはじめて読んだのでした。伊東静雄の詩も夏が鮮やかでした。

いろいろと考えさせられる箇所があるのですが、
ちょいと、とりとめなくなりそうなので省略。
でも、この箇所は雑学としても引用しておいてもよいでしょう。

「父親の死後、一家を支えるべき長男であるのに神経衰弱で休学などして愚図々々している父のことを日ごろから徹底的に蔑視していたある親戚が、ある機会に父に向かって『お前は腐った男だ』と思いきり面罵した。父はそのとき『俺はたしかに腐った男かもしれん。だが、そう出ん男なのだぞ』と内心思い、受けた侮辱とそれに対抗する自負心の双方を訓読みと音読みで表わす『草田男』の名を俳号としたのである。これが『草田男』の本当の由来であり、二葉亭四迷の筆名の由来を若干想起させるこのことが起こったのは、句帳の中の『草田男』の俳号の現れる位置から推測した、昭和三年の前半のことであろうと思われる。」(p74)
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武部利男の贈り物。

2008-07-15 | Weblog
山村修著「もっと、狐の書評」に取り上げられていた、武部利男編訳「白楽天詩集」はというと、平凡社ライブラリーでした。ネットの古本で買うのに、その平凡社ライブラリーはなかったのでした。さてどうしましょうと、検索画面を眺めていると、

白楽天詩集
・武部利男 吉川幸次郎/富士正晴/帯文 富士正晴/装画 光風社書店
・◆状態:普通 函背ヤケ ◆346頁 ◆定評ある武部口語訳による楽天詩を集成。
・昭56
・1
・2,000
・A5 初版 函帯付 六興出版

というのが、あったわけです。
正確には、古本2000円。送料340円。振込み料120円。
以上合計2460円なり。
これを注文しました。
箱と、両方の見返りに富士正晴の装画。
そして帯の言葉も引用しておきしょう。

「・・・・
誰にでもわかる言葉で詩をつづることに努力した。
詩ができあがると、女中のばあやに読んできかせ、
意見をもとめたともいう。この武部訳は、
原詩のそうした方向を有効に生かすべく、
ぜんぶカナガキである。カナガキの日本語というものは、
読みにくいのがふつうなのに、武部君のはふしぎにそうでない。
・・・・」(帯:吉川幸次郎)

帯のもう片方には富士正晴が書いております。

「・・・・・
その表現はあくまで平易で、誰にでもよく理解出来るが、
これまでの訳し方では変に裃(かみしも)をつけたような
もったい臭いものになり勝ちであった。
今度の武部利男の訳は仮名ばかりで子供にでも読める。
白楽天を日本人に贈ったと言えよう。」


本の最後には、
 白楽天小伝 武部利男
 『白楽天詩集』解説 筧文生
そして1980年8月8日の武部利男「あとがき」が印象に残ります。
訳詩を、ここで引用したいところではありますが、
ここでは、「あとがき」をすこし引用してみます。

何でも白楽天の訳は、途中空白期間があったと書いております。
「第二の時期の翻訳をはじめたきっかけについて書いておこう。
1974年秋、東京の九段にある大学で開かれた学会に出席した時のことである。
休憩時間になって、友人や知人とはぐれてしまったわたしは、いつしかひとり、会場の近くの靖国神社のあたりをさまようていた。もう、むかし、といってもいいだろう。学徒兵として召集されたわたしは、敗戦の前年すなわち1944年の秋、入隊の前日、ここへ詣りにきた。自分たちが花と散って帰ってくるはずの場所を一目見たかったからである。あれからちょうど30年たっていた。戦争で多くの人びとが非業の死をとげ、戦後の食糧難でも多くの人が病気に倒れた。わたしは幸いに、生きのこった。戦争でも死にぞこない、病気にも死にぞこなって、今なお細々ながら生きながらえている。学会から帰ると、急にわたしは何かを求めた。そして白楽天の閑適詩や感傷詩のなかに生死の境をうたったものが多く、自分の気持にぴったりとくるのを発見した。これが翻訳を再会した動機である。」

そしてもうすこし、何げない箇所なのですが、引用しておきたくなります。

「『VIKING』に連載中は、毎月の例会で富士正晴氏はじめ同人や読者のみなさんから、暖い励ましの言葉や適切な批評を得た。時たま未知の方からも愛読しているというはがきを、いただいたこともある。それらのことがどれだけわたしを喜ばしたことか。訳者冥利につきるという思いを重ねつつ、気のむくままに仕事を進めたが、おかげでともかくこれだけの分量の詩を訳すことが出来た。みなさんにここで深くお礼を申しあがる。」

古本で購入したのは、箱の背が黄ばんでおりましたが、
ページはきれい。初版で、箱に印刷された定価は3800円となっておりました。
こうして、山村修氏のおかげで、武部利男訳「白楽天詩集」という贈り物を手にして、読むことが出来ますこと。自分だけでは決して探し当てられない。自分だけでは、到底あり得ない。そんな本との出会いがありまして、有り難いことと思っております。



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ホワイト楽天?

2008-07-14 | Weblog
どうでしょう。わかりましたか?
ホワイト楽天。つまり、白楽天。
う~ん。むかしの中国の詩人。


武部利男訳の「白楽天詩集」に、こんなのがあります。

   めしの あと

 めしの あと ちょっと いねむり
 めが さめて にはい おちゃ のむ
 あたま あげ ひあしを みれば
 にしみなみ いつか かたむく
 たのしけりゃ ひが みじかいし
 くるしけりゃ いちねん ながい
 くるしみも たのしみも なく
 ながみじか いのちに まかす


うん。今日。注文した古本が届いたのです。
ぱらぱらと、めくっていたら目についた詩でした。


この本は、
山村修著「もっと、狐の書評」(ちくま文庫)を読んで
気になって買い求めました。
ここはひとつ、山村修氏の書評を引用しておきます。

「地名や人名など固有名詞はカタカナで、ほかのすべてはひらがなで書き表す。」
「読んでじつに分かりやすいのである。読む速度で内容が頭に入って来る。」
「分かりやすければよいというのではない。また学問的に厳密なことはもちろん必要だろうが、それだけでよいわけでもない。武部訳の分かりやすさと厳密さには、ときに鬼気迫るような思いを味わわされるのだ。」


以上の言葉を読んだら、古本を買うのに、何で躊躇などしていられるでしょう。
いや、いられませんよね(笑)。すぐに注文したというわけです。
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サザエさん。

2008-07-13 | Weblog
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」(朝日出版社)についての感想。
まずは、雑学から。
「町子姉は、翌昭和21年4月から夕刊フクニチに連載を始めた。愛読していた志賀直哉氏の『赤西蠣太(あかにしかきた)』に登場する御殿女中が、〈小江(さざえ)〉という名前であったことと、私達の住まいが海岸の側にあったことから、姉は主人公の名前を『サザエさん』と決め、家族の名前も、すべて海にちなんだものから選んだ。毎日、海岸に散歩に出ては砂浜に座って、思いつく限りの名をいくつも砂の上に書いたり消したりしていた。後に朝日新聞の全国版で読まれるようになるとは夢にも思わず、ごく気楽に執筆を始めたのだった。」(p62)


つぎは、私の雑念。
本棚を整理するのは、数年に一回あるかないか。そんな私です。
整理しても、だからって読まないしなあ。という気持ちが、ついつい何年も整理をおくらせます。それでも、整理する時は、決して読まないだろう本を、本棚から取り出して、段ボール箱へと収めます。そんな整理の隙間をぬって、毎回本棚に残る本の一冊に、姉妹社の「サザエさん うちあけ話」があるのでした。ちょいと、身近において置きたくなる本。何というか、私にとって本棚の整理のたびに思い出すような本なのであります。
まあ、表紙カバー(そんなのあったけ)はとれ、だいぶ黄ばみも出てきております。
そうするとですね。面白いことに、ここに出てくる登場人物はいまどうしているのだろうか。などと思うような身近さを感じるわけですよ。たとえば、こんな箇所。

「母の病がおこりました。妹の作文を、ひそかにひろい集め、菊地寛先生におめにかけてみてくれと申します。病人には逆らえないから姉が持参しました(姉はケッコンしても、仕事のつごう上、一緒に暮らしていました)。『いま、どこにいってるの?』『ハ。東京女子大でございます』『やめさせなさい、ボクが育ててあげる』妹はすぐ退学届を出して、ご近所の先生宅にかよいだしました。名もない女学生のために、西鶴『諸国はなし』の講義をして下さるのです。・・・」

こういう絵文字を眺めてボンヤリとしている。すると、この妹さんは、いまどうしているのだろうなあ。などと、思うでもなく、浮かぶ雑念としてあるのでした。大学をやめて菊地寛の講義を聞いた人っていうのは、何よりもどんな文章をかかれるのだろう。というのも興味があります。それもこれもピントが合わない写真のようなボンヤリとした、何とも見当がつかない雑念だったってわけです。

なんとも、それが一冊の本として読める。うん。読めたのでした。
ハハハハハ。
ここまで、長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」の内容を書かずに、私の雑念を書いて終わりです。毎度バカバカしい、ブログ書きこみになりました。急いで書き加えておきますが、こうした雑念に焦点が定まり、ピントがあって視界がひらけると、この長谷川洋子氏の本がずっしりとした重みある読後感とともに迫ってくるのでした。

ということで、これからは、私の本棚に「サザエさん うちあけ話」と「サザエさんの東京物語」とが、いっしょに並ぶことになります。
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どこのどなたか。

2008-07-12 | Weblog
山村修著「もっと、狐の書評」(ちくま文庫)に
「書評者に『名前』なんか要るでしょうか」という文があり。読後に印象深く浮かび上がる感慨がありました。それについて、書いてみたいと思います。

まあ、私のことですから、ちょっと寄り道。
2008年6月号の『諸君!』(コラム「紳士と淑女」)と『文藝春秋』(「蓋棺録」)の両方で、なくなった川内康範(かわうちこうはん)氏をとりあげておりました。
ここには「諸君!」の文を引用してみます。こうはじまっています。
「『どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている』この単純で直截なメッセージが、ドキドキするようなメロディに乗って始まる。そんな人っているの?それは誰?それは『正義の味方、月光仮面!』。おとなも子供も疾風のごとく去っていくその背を目で追う。『月光仮面は誰でしょう』のリフレーンで歌は終わる。」

これを読んでから、しばらくして私は、時代劇の人情話に出てくるだろう。言葉を思い浮べておりました。「どこのどなたかは存じませんが、このご恩は一生わすれません。」と思いもかけずに助けられた時のセリフです。

「どこのどなたかは存じませんが」と
「どこの誰だか知らないけれど」とが、私には共鳴して感じられたわけです。

さて、それでは、山村修の文についてです。
山村さんの文「書評者に『名前』なんか要るでしょうか」です。
途中から書評コラム『風』を語っておりました。
「とくに国文関係はやたらにつよい。書評の姿勢にはついに共感できませんでしたが、私は『風』の書評からたくさんのことを教えられました」とあります。そしてその長所を上げたあとにですね、西村寿行氏の小説を料理する『風』のことに言及するのでした。「もちろん読んでもいいのですが、西村寿行『犬笛』の主人公を『頭が空っぽ』と書き、『主人公の頭の悪い小説というのは、読んでいてやりきれないものだ』などと評することに、どんな意味があるのか、私にはさっぱり分かりません。もしも西村寿行の主人公からみれば『風』(あるいは百目鬼恭三郎)など、からっきし軟弱なくせに口ばかり達者な文化人のひとりとしか映らないはずです。そういう視点が『風』には決定的に欠けています。・・・ここに書評家がはまりやすい陥穽が、暗くて陰湿な穴があると私は思うのです。この穴のなかで書かれる書評は、けっして読者に向かって本を差し出そうというものではありません。逆に、本を閉ざそうとするものです。本を閉ざして、なにを語るのかといえば、自分のことです。自分の教養、自分の眼力のことです。」

さて、ここから本題に入るのです。

「私は匿名で書いています。しかし、それは有名人が名を伏せる装置としての匿名とはちがいます。本名を記したところで、知っているひとは私の生活圏のなかにしかいません。いや、それこそ『自分のこと』を語っていることになりそうです。しかし私は、そもそも書評には評者の名など要らないと考えているのです。」

「私は書評者を採点者とは、そして本を採点対象とは考えません。書評について考えるとき、点が『甘い』とか『辛い』とか、あるいは『賞める』とか『貶(けな)す』とかいったことばを思いうかべることはありません。書評者は伝達者だと思う。肝心なのは、本を閉ざして自己主張することではなく、本を開いて、そこに書かれていることを伝えることのはずです。伝える。じつに単純なことです。しかし書かれていることをどうとらえ、どう伝えるか、それが思いのほかにむずかしい。もしも伝えるべきことがうまく、十全に、いきいきと読者のもとに届いたならば、それが書評者にとっての幸せというものでしょう。」


このあとの最後の言葉で、私は月光仮面の主題歌の『どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている』という言葉を思い浮かべたのでした。では山村氏の文の最後。こう終っておりました。

「そしてそのとき、書評文からは評者の名前などきれいに消えて、どこを探してもみあたらないはずなのです。それで、それだけで、いいのです。」


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もっと、狐の書評。

2008-07-11 | Weblog
ちくま文庫から山村修著「もっと、狐の書評」が出ております。
さっそく、ぱらぱら眺めております。
何でも文庫版のためのオリジナル編集とのこと。
そして、第9章の「もっと、狐」は、「すべて初収録」とあります。

どこからよんでも、狐。
それも、編集の成果。切れ味あり。
まるで、寅さんが街頭で叩き売りしている、口上を聞くような、そんな感じを私は受けました。御用とお急ぎでない方は、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。こうして、勤め帰りの電車の中で、『日刊ゲンダイ』をひらいては、その切れ味のいい口上で、本を叩き売るような威勢でもって、短い活字で、端的に、内容をグサリと表現してひきつけます。寅さんの語りが古くならないように、狐さんの書評が、まるで、獲り立てのバナナを叩き売りしているような、臨場感をもって、迫ってきます。まさか。と思うでしょう。それが、まさかなんです。
さあさあ、寄ってらっしゃい。本屋で見てらっしゃい。買ってらっしゃい。

「それは可笑しい、狸さん。」と語りかけながら、書評の眼目を、ゆったりと丁寧に解いてみせる「書評者に『名前』なんか要るでしょうか」が、今回私は読後感あり。

ひとつだけ、書評を引用するとしたら、山口昌男著「『敗者』の精神史」を取り上げた最初の導入部を私は取り上げたいなあ。

「読めども読めども読み切れない。山口昌男「『敗者』の精神史」は二段組み五百七十ページ余りの大冊である。ただならぬ厚さにあきれながら、毒づきながら、ヤケをおこしながら、それでも著者のすえたテーマの魅力に逆らえなくととうとう読了してしまう。本書を多かれ少なかれ、そんなふうにして読み上げた読者は、本欄の仲間である。」(p182)

そして、私は、いまだ「本欄の仲間」には、いれてもらえないのでした。



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嘘なし地震予言。

2008-07-10 | 地震
地震予言といえば、阪神大震災の後に、オウムの麻原某が、それを予言していたのどうのこうの。というゴタゴタがありました。何でも、それをソビエトとかの外国向け放送で流したとか、どうとか言っていたのだそうでした。まあ、それはそうと。

ちょいと、地震予言でふたつの本が思い浮かびましたので、引用しておきます。
ひとつは、渡部昇一著「パスカル『冥想録』に学ぶ生き方の研究」(到知出版社・平成18年4月)。そこにこうあります。
冥想録の一節を引用したあとに
「予言者は日蝕とか月蝕にしばしば不幸の予兆を見る。しかし、よくよく考えてみれば、悪いことはしばしば起こるものである。ゆえに、彼らの不幸な予言はよく当たる。反対に、幸福の予兆を予言しても、幸福はめったに起こらないからだいたいが嘘になる。したがって、予言者は悪い予言をする。そうすれば当たるからである。たとえば『日本で近いうちに地震が起こりますよ』と予言すれば、まず間違いなく当たるのである。」(p117~118)


次は、日垣隆著「知的ストレッチ入門」(大和書房・平成18年10月)
そこに「疑わしきは罰するマスコミの罠」というのがありました。
「研究者であっても、メディアであっても、『危険だ!』と言っていたほうが、彼らにとってのリスクが少ないのです。例えば、鳥インフルエンザが日本に上陸した折にも、マスコミが一斉に、何百万人規模の死亡者が出るだろう、と警鐘を鳴らしました。こういうのを、私は『狼少年』と呼んでいます。マスコミの人々は、自分たちこそ社会の木鐸であり、世の中に警鐘を鳴らすのは使命だというテーゼで動いていますが、そのテーゼを真面目に実践すると、どんな局面でも『とりあえず危ないと言っておけ』ということになりかねません。しかも、それは、常に絶対的な『善』になれる思考停止なのです。なぜかというと、『地震が起きても大丈夫』と言っておいて、実際には死者が出た場合には、マスコミは完全に責任を問われる立場になります。しかし『どうも危なそうだ』と言っておけば、実際に何も起きなかった場合には『警告の成果だ』と言うことができます。仮に、起きてしまったとしたら、『私どもが言ったとおりでしょう』と言えるわけです。こうして、危険を煽っておけば、どっちに転んでもマスコミは責任を問われることがない。これがマスコミの思考回路の実態です。」(p181~182)

こう引用してくると、麻原某とマスコミの罠と、何だか五十歩百歩ですね。
ところで、6月14日におきた宮城内陸地震についてです。
読売新聞6月15日に「国は、活断層が引き起こす全国の地震の発生確率を順次公表してきた。震源付近は近い将来、大地震が発生する確率は低いとされていた地域だっただけに、このタイプの地震はどこでも起き得ることを改めて示した。」とあり震源域の大地震確率は0.1~3%だったのだそうです。
常に、こうした困難さを地震予測は秘めていて、もう片方には、思考停止のマスコミの回路の存在。
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銭形!?

2008-07-09 | Weblog
ルパン三世シリーズに登場する、銭形警部は、銭形平次の子孫ということになっております。その銭形平次こと、銭形平次捕物帳の生みの親は、野村胡堂。
捕物帳では、銭形平次が、ここぞというところで銭を投げます。
私などは、子供のころにテレビで見ていたのでした。
主題歌が舟木一夫。
では、その銭は何と言うのでしょうか?

野村胡堂の対談で語っておりました。
「ただ銭をほふることをちょっと考えた。これは案外武器になりはしないかと考えた。『水滸伝』の豪傑に没羽箭張清(ぼつうぜんちょうせい)というのが腰に錦の袋を下げて石を投げる。これが非常に強くて黒旋風李逵(りき)から花和尚魯智深(ろちしん)までやられる、非常な武器なんです。これを石じゃおもしろくないからなんかないかというので寛永通宝の波形銭、四文銭というのです、あれはかなり重い、あれをほふると三間や五間は飛んでいって、眼にあたると大変だが鼻の頭にでも当たれば一寸痛手になる。銭をほふるというので考えついたら銭形という名前になった。」


ちょっと気になるのに、鎌倉の大仏があります。
今日もBSで小津安二郎監督の「麦秋」を何気なく見ていたら、
この映画の主人公の家庭が鎌倉。鎌倉大仏の前のカットもありました。
気になるので、ちょっとした記事でも取っておきます。
朝日新聞2008年6月21日の文化欄に「鎌倉の大仏様『素材は中国銭』」。
はじまりは、じつに明解でした。

「国家事業だった奈良の大仏と違い、民間主導の鎌倉の大仏は建立の過程でわからないことが多い。その中でも大きななぞ。国産銅でまかなえた奈良大仏とは違い、鎌倉時代は銅が不足していたからだ。」

そして、「経筒が語る中世の世界」(思文閣出版)。
別府大(大分県別府市)のグループの研究で明らかになったこととして、
「中国銭は貨幣ではなく、銅製品の原料として輸入されるようになったというのだ」。その背景を語って「銭鋳造はコストが高く、中国は国外持ち出しを禁じてきた。12世紀の半ば、南宋では紙幣の流通が安定したので、銭を持ち出しやすくなったのだろう・・・『日本の交易船は銭ばかりほしがる』との中国の記録を見つけた。中国でも銅は不足し、インゴット(金属の塊)を輸入するのは銭以上に難しいこともわかった」「『銭を鋳造できないほど国産銅が不足していた平安末以降、多量に輸入できる銅としては中国銭のほかに見あたらない。科学分析も一致する。鎌倉大仏は中国銭で造ったとしか考えられない』と平尾(良光)さんと飯沼(賢治)さんは結論づけた。」
以上の興味深い記事がありました。

そういえば、「京の大仏は銅製でしたが、1662年の地震で大仏がわずかに破損し、木造で作り直されることになり、このとき出た銅は寛永通宝に使われています。」というのがネットで調べられました。

鎌倉の大仏が中国銭から出来ていて、
京の大仏から、寛永通宝が出来たらしいのです。

寛永通宝というのは、いろいろな素材で作られたようですが、
さて、銭形平次が使ったのは、大仏の銅でつくった波形銅銭じゃなかったのか?

ちなみに、明治以降も、寛永通宝は使われていたそうですが、
さすがに、銭形警部は、もう使っていなかったですよネ。
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酒宴の席。

2008-07-08 | Weblog
酒に弱い癖して、夏はビール。と、ついつい飲んでしまいます(笑)。
こういうときは、開き直って、酒にまつわる文ということで、たまたま目についた個所を引用。


窪田空穂全集第10巻に「平安朝の歌と実際生活との関係」(p35)という文がありました。まず御撰集の巻の三の引用をしておりました。そして

「・・・当時の習慣として、酒宴の席には、作歌は付きものとなっていた。貫之はいうまでもなく歌人として当時の権威である。主人の兼輔は、右大臣という珍客をもてなす為に、歌人にして且つ懇意なる貫之を、いはゆる接待役として陪せしめたのではないか。貫之の歌から見るとそう察しられる。次に、歌を詠み合った場合である。今日から見れば、酒を飲みながら、そこに、庭に咲いている藤の花を材料として歌を詠み合うというようなことは、極めてしゃれた、面白い、即ち特別のことのような気のされることであるが、当時としては極めて普通なことで、久しい習慣の、いつから初められたか知ろうとしてもおそらくは知られなかったろうと思われることを、旧い習慣を重んじる廷臣の心からしていたのである。
酒宴の席には作歌は付きものになっていた。人に杯を勧めるには、先ず歌を詠まなくてはならないことになっていたのは久しいことである。日本書紀の崇神天皇の巻の、クズが天皇に酒を献ずる時の歌、又古事記の神功皇后の摂政の御代、皇后か太子であらせられた応神天皇に酒を献られる時の御歌など、その古いものである。近くは、このすぐ前の時代である延喜年間、貫之らが古今集の撰をする為に宮中のかんなりのつぼに召されていた時、兼覧(かねみ)王がたづねて来られた際、貫之や躬恒が杯を取って詠んだ歌と、王の返しとが古今集の巻八に載せられている。今の場合もそれである。彼らは、その当時としては、習慣上、しなくてはならないことをしたので、何も特別なことをしたのではない。・・・」

この論文の最後の方には、こうありました。

「・・狭い宮廷を唯一の生活の場として、そこに官吏生活を送っている以上、利害関係から、つとめて意思の疎通を計らなければならなかったろう。むしろその必要に駆られてもいたろう。しかしそういう世界では、露骨と直截とは全然封じなければならなかった。封じられつつも猶、且つ言はなければならないとすると、隠約と婉曲との外はない。嗜みというのも、この風から馴致されたものであろう。これが社交でなくて恋愛の場合としても、その用意は同一である。平安朝の歌が隠喩ばかりであるのも、掛詞と縁語の繋がりばかりであるのも、又機知ばかりであるのも、彼らとしては余儀ないことである。彼らの歌の大半は、それでなければならなかったのである。・・・」


ここから、
高島俊男著「本が好き、悪口言うのはもっと好き」(文春文庫)にある
「ネアカ李白とネクラ杜甫 ・・ 高校生諸君に」の
「李白は旅をして宴会に出るのがしごとであるが、一番多い宴会は送別会である。役人の転勤か何かの送別会に招かれ、もしくは押しかけて、詩を作る。」(p198)という、この前後の文章もついでに引用しておきたいのですが、ここまで。

あとは吉田健一のエピソードも思い浮かびます。
最近ではドナルド・キーン著「私の20世紀クロニクル」だったかにも登場しておりましたが、ドナルド・キーン著「声の残り 私の文壇交遊録」(朝日新聞社)。


ということで、夏はビール。ということから、
時たま思い出したように読んでいる窪田空穂全集から紀貫之。そして李白・吉田健一と、酒にまつわる三人三様。

最後に、ドナルド・キーン氏の後悔。

「またある晩、評論家で巨漢の篠田一士が、はち巻岡田で私たちと一緒になったことがあった。いよいよ帰る段になって、三人でタクシーに乗り込んだ。しばらく走ると、吉田(健一)が大声で叫んだ。『止まれ!』。タクシーが止まった。すると吉田は外に出ていった。あとを追って、篠田が出ていった。そして両腕に吉田を抱え上げると、タクシーの席にストンと落とすのだった。それからそのあと、これとまったく同じことが、数回繰り返された。吉田はきっと毎晩、この調子で飲んでいるのだろう、と私は思っていた。ところが、本当はそうではなかったのだ。吉田が親切にも、彼の家に転がり込んで来なさいと言ってくれたのに、私がそれを断ったのも、毎晩あれに付き合わされたらかなわない、と思ったからであった。何年もあとになって、彼が飲むのは、週に一、二回くらいだということを、誰かに聞いた。・・・・」



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水恋鳥・雨乞鳥。

2008-07-07 | Weblog
とぎれとぎれに、雨が降っています。
こういうときは、いろいろな雨の歌。
ということで、短歌と俳句から。
最近の新聞より引用

 指先に雨音あつめレース編む   さいたま市 鈴木さよ里

読売俳壇6月16日の正木ゆう子選の最初にありました。
その選評はというと
「それほど全神経を指先に集中している。雨音から普通に『聞く』という動詞へ行かず、『あつめ』としたことで、屈折が生まれた。指先がアンテナのよう。」

同じ日の読売歌壇では、というと
俵万智選の最初。所沢市の鈴木照興さんの歌。

 春雨はドレッシングの如くふる玉なすレタスの畑を濡らして


昨日(7月6日)の東京新聞。東京歌壇の岡野弘彦選には、雨が多かったのでした。
板橋区の松下正樹さんの歌

 降れふれと聞けばきこゆる奥山に赤翡翠の雨をよぶ声

【評】アカショウビンは極めて美しい色彩と、キョロローと鳴く声が印象的。水恋鳥、雨乞鳥と言われるのも、その声と赤い体色からきていよう。


桶川市の木下英雄さんの歌

  梅雨寒に一人し居れば亡き母のやさしきしぐさ思い出すなり

八王子市の斎賀勇さん

  乗鞍は雨に煙れり水芭蕉さく湿地帯ふみしめ歩む

川崎市の後藤不二子さん

  とりどりの傘つらねゆく登校の子らをし見れば梅雨も楽しき


この日の岡野弘彦選には、ほかにも雨が出てくる短歌があったのですョ。こうして、さまざまな雨を読んでいると、湿りがちな雨の中、なんだかホッとしてきます。

  
            
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書評好き。

2008-07-06 | Weblog
え~。私は、小説嫌いの書評好き人間。
日曜日の新聞には、読書欄が並んでおりまして、
それを読むのが何よりも好きなのです。
それで、読みたくなるような書評に出会うとですね。
なんとも、その一日が楽しくなるような人間です。
今日も、今日とて、毎日新聞の書評欄で、
丸谷才一氏の書評を読んで、楽しくなりました。
困ることは、楽しい書評を読むと、買いたくなること。
困った。困った。と楽しんでいたりします。

さてっと。
丸谷才一評は
五味文彦、本郷和人編「現代語訳 吾妻鏡」全16巻。
既刊3巻の書評なのです。
すこし引用。
「『吾妻鏡』が徳川家康の愛読書だったことは有名だが」
へ~。そうなんだ。なんか興味が湧きますよね。こう語られると。
その次には、こうあります。
「『吾妻鏡』以前の史書は『古事記』『日本書紀』以来みな西国の朝廷中心の歴史だったが、『吾妻鏡』は東国に生れた武家政権の歴史で、『武家政権は武士たちの日常の動きのなかから形成されてきたが、頼朝はその武士たちをまとめて、いかに朝廷に自立した政権を築いていったのか、その腐心した様子をそこからは知ることができ、さらに鎌倉を中心とした東国に生れた社会や文化のあり方もうかがえる」と。」

これが書評の出だしでして。中ほどの引用もキレがあり。
後半には「とにかく『吾妻鏡』はおもしろい。」などと、
さりげなく、のたまう丸谷才一氏であります。

他に、堀江敏幸評や藤森昭信評、そして渡辺保評と書評で満腹。
うん。満腹したことにしておきます。
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渡部・七平。

2008-07-05 | Weblog
雑誌「Voice」2007年5月号に特集「『日本人らしさ』を読む」。
そこに渡部昇一・谷沢永一対談「究極の日本人論10冊」が載っております。
すっかり忘れていたのですが、PHP研究所の「日本人とは何か 『和の心』が見つかる名著」の内容説明に、こうあったのでした「三宅雪嶺から山本七平までを、谷沢永一、渡部昇一が語りつくす。和の心が見つかる名著も識者20人が紹介。『Voice』平成19年5月号の「特集Ⅱ「日本人らしさ」を読む」を再編集して書籍化」。
それで、思い出して雑誌を引っ張り出してきたというわけです。
せっかくですから、10冊列挙

 三宅雪嶺著「真善美日本人」
 新渡戸稲造著「武士道」
 ラフカディオ・ハーン著「神国日本」
 和辻哲郎著「風土」
 矢代幸雄著「世界に於ける日本美術の位置」
 ルース・ベネディクト著「菊と刀」
 星新一著「人民は弱し 官吏は強し」
 中根千枝著「タテ社会の人間関係」
 土居健郎著「『甘え』の構造」
 
そして、最後に渡部昇一氏が語ります。
「土居先生の次には、山本七平先生に行きましょうか。山本さんの著作のなかで古典として残るものを一つ挙げるとすると、『一下級将校の見た帝国陸軍』。あれほど日本軍のあり方をよく描いたものはない。日本人の独特なところ、たとえば員数合わせなどをカチッと見ている。・・山本七平さんは、プロテスタントで育っているところが大きいと思います。戦前にはキリスト教徒は少なかった。しかも、七平さんは良心というものを重視して聖書ばかり読んでいるようなプロテスタントでした。これがまた重要です。そういう七平さんが、もっとも日本的な組織である陸軍に入ると、その視点『外国人の目』だった。だからよく見えたのだと思います。・・・
『「空気」の研究』も天才的な斬り込みでした。あのようなパンチの出し方は、これからはなかなか難しいかもしれませんね。」

そういえば、最近の渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得』(到知出版社)を思うと、山本七平著「帝王学 『貞観政要』の読み方」を読みたくなります。お二人の対談も山本七平氏のこの本を踏まえて語られているのだろうなあ。などと思うのでした。
この機会に山本七平の数冊を読みたいなあと、ちっとも読まずに、気持ちだけの先走り。
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路地の記憶。

2008-07-04 | Weblog
佐藤秀明の写真集「路地の記憶」(小学館・¥2415)。
この写真集をひらいて、ボンヤリとしていると、あれこれと浮かんできたりします。ということで、何となく浮かんできたことを並べてみます。

今年は、東山魁夷の生誕100年。ちなみに、私は読売新聞を購読しているのですが、購読者に無料で頂ける額絵シリーズが、今年は東山魁夷でした。最初の配布は御存知の「道」でした。そっけなくも道がまっすぐに描かれている、あの絵です。その配布された絵を見ているのですが、構図は、道の真中から、その先の方を見る視点で描かれていますね。今度気づいたことには、絵の左側が丘の盛り上がりとなっているようで、道をはさんで絵の右側へとなだらかに、傾斜していっているように見えます。以前は私、気づきませんでした。そしてどうやら少し上り坂にでもなっているのでしょう。ちょっと登りきったところで、道が消え、背景の丘陵が、その先に望めて、そのまた上が坂の上の空というしごく単純な絵柄でして、いやおうなしに、道の真ん中に立つ自分の姿をそこに思い描かしめる風景となっているのでした。というか、そうしないと絵がこれから、どうにも始まらないような、そんなのっぴきならない、静かな、余白の緊張感をたたえてでもいるようです。その道に旅人を描けばよいのでしょうが、その旅人は、絵の鑑賞者である、あなたですよ。というような暗黙の了解を覚醒させるようでもあります。何を描いたか。というよりも、何を描かなかったのか。そんな饒舌さをぬぐい去って、その口をつぐむような。そんな逆転の地点に佇むような絵ですね。

おいおい。私は何を語ろうとしているのでしょう。
そうでした。写真集「路地の記憶」にも、ちょうど路地道の真ん中にたって、その先を写した、そんなアングルの写真が並んでいます。路地ですから、両側が木造の家並みだったりします。この写真集で思い浮かんだのは、絵でした。谷内六郎の火の見櫓の上の海であったり、横尾忠則のY字路。つげ義春。水木しげる。と連想がつづきます。

あっ。そうそう。
梅田望夫著「ウェブ時代をゆく」(ちくま新書)の第三章。
その題は「『高速道路』と『けものみち』」でした。
その文章を、あらためて読み返していたりするのでした。

おっと。ボーとするのはこれくらいにして、
写真集にある佐藤秀明の短いエッセイも引用しておきましょう。


「尾道に初めて行ったのが30年ほど前で、それから10回ほど訪れているが、この街の路地も行く度に姿を変えている。人の住まない古い民家が増えていて、路地に人の気配がしなくなってしまった。これは、坂の多い路地を登り下りするのがつらい年寄りが下の街へ移ってしまったからだ。それでも昔ながらの路地がまだ少しは残っているので春になったら訪ねることにしている。」

こうして、何回も訪れる路地が、みせる雰囲気を、写真はうまく掬い取っており。それだから、私は写真の前でぼんやりと、まるで石の坂道の階段に腰かけてでもいる気分になれるのかもしれません。
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今日は飲み会。

2008-07-03 | Weblog
ハハハハハッ。今日は飲み会。
午後七時より会なのですが、やはり七時をまわります。
ということで、いちおう、生ビール4~5杯。
楽しみは、いろいろなお話を聞けること。
二次会は、ちょっとキャンセル。
私は、すぐに寝るタイプ。
ということで、他の方はいなくなりました。
いま、帰ってここに書き込みしているところ。
ということです。

気になるのは、養老孟司さんが書評していた
「地球最後のオイルショック」(新潮選書)。
とりあえず、購入。いつになったら読むのでしょう。
ハハハハハハッ。
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