和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

興味の持久力。

2012-01-12 | 詩歌
しばらく、茨木のり子への興味から、楽しめました。
たいてい、このくらいで、興味がしぼまってくる。
というのが、私の時間感覚としてあります(笑)。
なにぶん、移り気な私の感触としては、
興味の持久力は、このくらいで、
他の興味へと鞍替えしてしまいやすい頃です。

ということで、ここまでのおさらい。
はじまりは、
KAWADE夢ムック「花森安治」に掲載されていた
茨木のり子の「『暮しの手帖』の発想と方法」でした。
そこから、
ひろげた風呂敷を、ここらで、本棚へともどします。

 KAWADE夢ムック「花森安治」
 「茨木のり子の家」(平凡社)
 花神ブックス1「茨木のり子」
 茨木のり子詩集「歳月」(花神社)
 後藤正治著「清冽 詩人茨木のり子の肖像」(中央公論新社)
 茨木のり子・長谷川宏著「思索の淵にて 詩と哲学のデュオ」(近代出版)
 茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)
 「詩集1946~1976 田村隆一」(河出書房新社)
 田村隆一詩集「新年の手紙」(青土社)
 現代詩手帖特集版「石垣りん」(思潮社)
 石垣りん著「詩の中の風景」(婦人之友社)
 現代詩文庫「石垣りん詩集」(思潮社)


また、読み直すために、この本のかたまりを
備忘録がてら、索引がわりに、こうして載せておきます。

さてっと、現代詩文庫「石垣りん詩集」に
詩集「表札など」の全編が入っておりましたが、
今日、あらためて詩集「表札など」を古本屋へと注文しました。

ここまで、書き込みをして、
思い浮かんだのは、清水幾太郎著「私の文章作法」でした。
ちょっと、関係ないかもしれないけれど、
思い浮かんだので引用しておきます。それは第18話にありました。
小見出しは「厭になったら終る」という箇所でした。

「・・・最近の諸雑誌に載っている論文・・・最初の部分に『はじめに』という見出しがあり、また、最後の部分に『おわりに』という見出しがついていることが多いようです。いつか、一つの型が出来てしまったのでしょう。私は、あれが大嫌いなのです。特に調べたことはありませんが、例の当用漢字が決定され、それが強制されて行く過程、つまり、幼稚園的民主主義が伸びて行く過程で生まれたパターンのように思われます。・・・・また、これも人によって違いますが、文章が終る時は、もう書くのが厭になったから、または、もう書くことがなくなったから終るのです。・・・」

ちなみに、この「私の文章作法」は1971年10月潮出版社刊と、中公文庫のあとに書き込みがありました。
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石垣さん。

2012-01-11 | 詩歌
写真集「茨木のり子の家」(平凡社)で、
詩人の家の本棚に、無雑作に並ぶ本が見れました。
おそらく本人は、他人に見られることなど、予測しておられなかっただろうなあ。不意を写されたような本棚。そんな気がしました。

その本棚に、現代詩文庫の「茨木のり子詩集」が二冊。
その少し離れて、現代詩手帖特集版「石垣りん」も二冊。
今日になって、そういえばと、思い出したように、
「現代詩手帖特集版 石垣りん」を、本棚からとりだしてみました。
おっと、これは私の本棚ですよ(笑)。
そこには、茨木のり子さんの弔辞があるのでした。
読み飛ばしていた、その弔辞を、あらためて読み直します。
はじまりは、こうでした。

「石垣さん、
とうとうこんな日がやってきてしまいました。
私の方が先、とばかり思っていましたのに。」

その弔辞に「いさぎよいです」とあるのでした。

「いさぎよいです。
詩の世界でも、現代詩の潮流とは無縁で、むしろまったく逸れたところで、御自分の詩を書き継いでこられました。・・・なんと言ってもあなたのピークを成しているのは『表札など』という詩集です。この詩集を頂いたとき、こちらの心臓を鷲づかみされたような、どきどき感がありました。『詩はこうでなくっちゃ・・・』と思った日のことを鮮明に覚えております。」


うん。まだ引用したいのですが、これくらいで。
つぎにいきましょう。
茨木さんの本棚には、石垣りんさんの詩集が並んでおりました。
「表札など」は古い版と、最新のでしょうか新しい版と1冊づつありました。
そうそう、石垣りん著「詩の中の風景」(婦人之友社)もありました。
この「詩の中の風景」は、いろいろな方の詩を引用して、
毎回、石垣りんさんが、その詩にまつわるエッセイを書いております。
たとえば、杉山平一の詩「退屈」を取り上げて、
はじまる石垣さんの文はというと

「一節と二節の字句がほとんど同じで、違う言葉が三つしかない『退屈』。最初に読んだときから仮に十年後として、再び詩集の同じ頁をひらいたとき、やっぱり長谷川君がいた、と読者である私に感じさせてくれる不思議な存在感。・・・・退屈そのものがひとつのかたちとして見えてくる。実際はそれどころではない、毎日のあくせくがあったとしても。・・・」

ちなみに、この「詩の中の風景」には、
茨木のり子さんの詩「花ゲリラ」が取り上げられておりました。
それについて書かれた石垣さんの文を読むと、
詩の中でしっかりと出会っておられた二人のことへ思いが飛翔してゆき、
茨木さんが先に亡くなっていれば、
石垣さんが弔辞を読んだのだろうことを、
思う不思議。
でも、亡くなったのは、きちんと年齢順でした。
石垣りん。1920(大正9)年東京生まれ。2004(平成16)年12月死去。享年84歳。
茨木のり子。1926(大正15)年大阪生まれ。2006(平成18)年2月死去。享年79歳。
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森有正とダメな人。

2012-01-09 | 短文紹介
本棚から取り出しておいた、坪内祐三著「考える人」(新潮社)には、さまざまな方が取り上げられ、並んでいます。たとえば、深代惇郎の前は、森有正でした。
ということで、森有正。
うん。私は森有正を読んだことがない。
読んだことがないから、かってなことを以下書きます。

新聞を読んでいて、時事問題に触れるのが普通なのでしょうが、時に、歴史的な回顧を何気なく読めるのには、驚かされます。たとえば、産経新聞の「正論」欄2011年11月24日に平川祐弘(ちなみに、祐の左は示と書く)の文が掲載されておりました。
それが、机上に置いたままになっておりました。この機会に引用しておきます。

渡辺一夫氏について語られてはじまります。が、ここでは、
平川氏の文の最後から引用していきます。

「女子大生に向かって自衛隊員の嫁になるな、と訓辞した人も渡辺(一夫)の弟子にいた。森(有正)は日本はダメだと言って、フランス礼讃をして評判になったが、これは、日本インテリの発言の一つの類型で、仏文出身の一タイプである。しかし、同胞の劣等感につけこんで、自分を偉く見せかける人、誰がダメかと聞かれるなら、そんな人こそダメな人だと私は答えたい。」

さて、この文の題は「幻想を振りまいた仏文の知的群像」とあります。
文のなかばから森有正について書かれておりました。
うん。貴重だと思えるので、ここに引用。

「10月末から『哲学雑誌』の編集長ブレス教授が来日し、話すうちに思い出が次々に湧いたので、その真贋に触れたい。
ブレス先生は1951年、25歳の若さで来日した。敗戦直後だから実存主義大流行で仏語会話の授業でもサルトルの戯曲を読んだ。先生は教養学科1回生、特に仲沢紀雄の論文はすばらしかった、という。何しろ中村真一郎や加藤周一も落ちた狭き門の留学生試験に仲沢はいち早く合格し、森と同じアベ・ド・レペ街の建物に住んでいた。1年遅れでパリに着いた私もそこで2人に何度か会った。森は、昨日は何ページ読んだと豪語する。私は『読書量を自慢する読み方はよくない』というハーンの読書論を反射的に思い出す。森は平気で見え透いた嘘をつく。『もうじき家内をパリに呼びます』もその一つだ。デカルトについて博士論文を書いているというのも嘘だな、と私は直覚した。
ブレス氏は、日仏会館で戦後60年余を回顧し日本人のフランス哲学研究ではパリ大学でパスカルを講義した前田陽一先生の名はあげたが、森には一言も触れない。知らないのではない。かつて学生だった私に、『デカルトのような有名人を森のようにルネ・デカルトなどといってはいけないよ』と注意してくれたこともあったからである。森の名前が出なかったのも無理もない。森の国家博士論文は大成するどころではなかった。辻邦生が森のデカルト研究の草稿が死後、何も残されてないと驚いたが、あれは驚く方がかまととで、間違いだ。・・・それなのに、森有正に感心するフランス哲学の教授はまだ東大にいるらしい。だがそんな人は森と同じでフランス語で論文を出すでもなく生涯を終えるに相違ない。」


何も読んでいないし、知らない私ですが、
とりあえず森有正は、敬して遠ざけることにいたします。
ところで、坪内祐三著「考える人」に、入っている森有正の文は、
こうはじまっておりました。

「ここ数日、私は、一冊の文庫本をずっと探しているのですが、見つかりません。それは、森有正の『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫)です。1976年に出たこの文庫本を、私は、その翌々年、大学に入学した年の春に入手し、熱心に読みました。本当に熱心に読みました。・・・そうだ、森有正もまた、『考える人』にふさわしい人物だと思い、いつか彼が登場する時のために、取り置きしていたはずなのですが、・・・どこかに消えてしまいました(時間というものはそうやって経過して行くものです)。・・・」


うん。数日探している本が、「どこかに消えてしまいました」というのですが、何やら象徴的な感じにも読めるのでした。象徴的といえば、この森有正への文の最後を
坪内祐三は、こうしめくくっておりました。

「しかし、実は私は、『思索と経験をめぐって』を、体験しただけだったのかもしれません。」

坪内祐三の文も、何やら、こうして見ると、
微妙な読み巧者の表現ではありました。
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人と栖(すみか)と。

2012-01-08 | 短文紹介
堀田善衛著「方丈記私記」を読みました。
私には圧倒される読書となりました。
読んでよかった。
さてっと、どうそれを語れるのか。
そんな大それた事は、あとまわしにしましょう(笑)。

そういえば、田村隆一の詩集「新年の手紙」に

「 わたしは四十八歳 権利金と敷金を払って
  海の近くに小さな家を借りたのだが    」

詩「空耳」に、こういう2行があったのでした。
うん。詩集「新年の手紙」は、この2行から読むと「家」というイメージがつかめそうな気がします。

ところで、堀田善衛著「方丈記私記」のはじまりは

「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨長明『方丈記』の鑑賞でも、また解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ。」でした。

そのつぎに、昭和20年3月9日の汐留の話になります。
その汐留サロンに集まった人が列挙されるなかに、あれ、田村隆一の名前もあります。

うん。「方丈記私記」の第一章だけでも
紹介しておきましょう。
堀田善衛は、この章で、東京大空襲のことを語っております。

「3月10日の大空襲を期とし、また機ともして、方丈記を読みかえしてみて、私はそれが心に深く突き刺さって来ることをいたく感じた。・・ここに記録されている安元3年4月28日の京の大火災は、年代記的には治承元年であり、長明23歳の時のことである。方丈記が書き下されたのは58歳の時であったから、ほぼ35年前の事件について書いているわけであるが、その記述は、まことに簡潔的確で、火事の模様が眼に見える。」


もちろん、方丈記のその箇所が引用されるのですが、
ここでは、堀田善衛氏の空襲の記述を引用したくなります。


「要するに茫然として真赤な夜空を見上げていたにすぎぬ。近くの、田園調布一、二、三丁目、東玉川町、玉川奥沢町などへ投下された焼夷弾は、あたかもトタン屋根を雪が滑り落ちるような、異様に濁った音をたてて落下して来、あるものは落下途中ですでに火を噴出しているものであった。真赤な夜空に、その広範な合流大火災の火に映えて、下腹を銀色に光らせた、空中の巨大な魚類にも似たB29機は、くりかえしまきかえし、超低空を、たちのぼる火焔の只中へとゆっくりと泳ぎ込んで行くかに見上げられ、終始私は、火のなかを泳ぐ鮫か鱶のたぐいの巨魚類を連想していたものであった。・・・・鮫か鱶のように無表情に、その白銀の下腹に火の色をうつして入れかわりたちかわり八方からゆっくりと泳ぎ込んで来ては大いなる火のかたまりを火の中に投げ込んで行く巨大な魚類を見上げていて、ふと頭に飛び込んで来た方丈記の一節を口の端に浮べてみ、その中の人、現し心あらむや、何を言ってやがる、などとぶつぶつ独語をしていて、しかし、卒然としてその節の全文を思い浮かべてみると、それが都市に起る大火災についての、意外に・・・精確にして徹底的な観察に基づいた、事実認識においてもプラグマッティクなまでに卓抜な文章、ルポルタージュとしてもきわめて傑出したものであることに、思いあたったのであった。」

うん。平家物語への言及も、こんなふうです

「同じく、平家物語にもこの火事についての記述があるが、これは方丈記の文章を利用して、というよりはこれに尾ヒレその他のびらびらをくっつけて飾ったものであるにすぎない。他にも辻風や福原遷都についても、方丈記を台にしてびらびらをつけたと推(すい)されるものが平家物語にはある。・・・・平家物語の作者が、どうじたばたしてみても、長明観察の外へは出られないのである。ひとたび表現されてしまったものの勁(つよ)さというものを、平家物語の光りに照して方丈記をかえりみるときに、感じさせられることである。」



さて、がぜん面白く方丈記の内容に踏み込んでゆくのは第三章以降。
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机上。

2012-01-07 | 地域
堀田善衛著「方丈記私記」を、パラパラとめくりはじめた。

机上には、本棚からもってきた数冊。
 司馬遼太郎著「風塵抄二」
 鶴見俊輔著「文章心得帖」
 「深代惇郎の天声人語」

この頃、「『3・11』の本棚」という題が、思い浮かぶ。
昨年から読んだ本のことを、プリントアウトして、
何人か身近に配ってみようって、そんなことを思った。


正月三が日は、箱根駅伝を見ていたので、
1月4日の読売新聞2面の「顔」欄の
柏原竜二君の記事を読む。
ありました。
「僕が苦しいのは1時間ちょっと。
 福島の人に比べたら、全然きつくなかった。」

柏原君は「今春富士通へ入社し・・」とありました。

朝日新聞1月1日の第2部テレビ・ラジオには
満島(みつしま)ひかりさんの全面広告。
「開拓者たち」に主演とあります。
(残念見ておりません)
そこに、こんな箇所

「中国の天津、北海道、栃木・那須。
雄大な自然に包まれるロケが続く。
『どんなに感情をあらわにしても、
自然は何も変わらない。自分がちっぽけな存在に思えた』。
それは戒めでもあった。
原野を駆け、急流を渡る演技はしんどいが、
カットと言われれば終わり。
『開拓者の方々はこれが毎日の生活だった。
わかると思ってはいけない』 」
 
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それが、幸せだったと気づかず。

2012-01-05 | 詩歌
新年くらいは、というので、
1月5日まで、朝日・読売・産経の3紙をとってみました。
1ヶ月ぐらいとればよいのでしょうが(笑)、
とりあえず、今日の5日まで。
すると、5日の「編集手帳」の読後感が味わいあり。
ということで、コラムの話。

まずは、5日の「編集手帳」。
全部引用したいのですが、後半だけにします。

「10年連用の日記帳を使っている。
4年目に入った。去年の、あるいは一昨年の同じ日に
何をしていたかを知るには便利だが、
『あの日』が近づいてくる感触に
ペンを持つ手が止まる夜もある。
地が揺れたとき、津波が襲ってきたとき、
ああしていたら、こうしていたら・・と、
『残念』の一語ではとうてい言い尽くせない痛恨の情に、
身を苛(さいな)んでいる被災地の方もいるだろう。
益体(やくたい)もないコラムを書いてしまった悔いや、
懲りない二日酔いなど、ばかな失敗を綴れる日々の、
何と贅沢なことよ。」

うん。正月三が日をゴロゴロしていた身としては、
最後の数行が、グッと身近にせまってくるような感触。
そして、本棚から
坪内祐三著「考える人」(新潮社)をとってきて、
深代惇郎の箇所を再読。

そこで引用される深代惇郎の「天声人語」から
すこし孫引きしてみます。

「・・・・書くことがなくて・・・
政治の悪口を書くといってはふがいない話だが、
そういう時もある。
本人は、ほかにないから書いているのであって、
そう朝から晩まで悲憤慷慨しているわけでもないのに、
コラムだけは次第に憂国のボルテージが上がって、
自分とはいささかちぐはぐの『書生論』になる。
ジャーナリズムには、
そういう気のひけるところがある。」

ここを引用したあとに、坪内祐三さんは
「これこそまさに『天声人語』です。かつて、これほど正真な心情を吐露する新聞コラムニストが日本にいたでしょうか。・・・そういうレベルの、どきっとするようなリアリティを持ったコラムを、深代惇郎は毎日毎日、読者に提供し続けたのです。」

ちなみに、今日の2012年1月5日朝日新聞「天声人語」はというと、
「気のひける『書生論』」を、述べ立てた、見本みたいです。

ところで、深代惇郎について、
坪内祐三さんが注目した箇所。
それは、一度とりあげた同じネタを再使用しているコラムを並べて比較しながら、引用したあとの指摘でした。

「『天声人語』を担当して一年に満たない最初の一文は、普通のレベルのコラム文です(あくまで客観的な文章です)。しかし、そのあとの文章は、客観の中にさりげなく主観がまじりあい、しかもその主観が独得のユーモアをかもし出しています。この八ヵ月の間に、深代惇郎はコラムニストとしての腕をぐっと上げています。」


ここで、ちょっと休憩して、私は最近身近に置いてある杉山平一詩集「希望」から、詩「待つ」を思い浮かべておりました。


   待つ

 待って
 待っても
 待つものは来ず
 禍福はあざなえる縄というのに
 不幸のつぎは
 また不幸の一撃
 ふたたび一発
 わざわいは重なるものとも
 知らず
 もう疲れきって
 どうでもいいと
 ぼんやりしていた
 それが 
 幸せだったと気づかず


さて、坪内祐三さんは、深代惇郎の『天声人語』への、
少女の相談に注目しており。
そこが、今回再読して、気になりました。
少女が夏休みの宿題として、コラムの要約・感想を
課せられ、その課題が『天声人語』・『社説』だったようです。
少女の手紙には、こうあったというのでした。

「いくら読んでも何が書いてあるのか分からない日がある。一日に二時間以上かかるときがある・・・」

その次の坪内祐三さんの文は
「そして彼(注:深代惇郎)は、少女の相談を誠実に受け止め、『文中で論理が飛躍したところ、発想が転換したところ、問題が急に抽象化されたところでつまずくのではあるまいか』と自問自答しています。まさに、その、『論理の飛躍』や『発想の転換』部分にこそ、深代惇郎の『天声人語』の特別な持ち味があったのです。その意味で、彼以降の『天声人語』の方がよっぽど、手軽るに『要約』できます。・・・」


ちなみに、詩「待つ」の最後の二行
「 それが 
  幸せだったと気づかず 」

で、思い浮かんだのは、この坪内祐三さんの「深代惇郎」を語り始める最初の箇所なのでした。ちょっとくどいかなあ。まあいいや引用しておきます。


「ミスター『天声人語』といえば、かつて、昭和30年代までは荒垣秀雄ですが、そのあと、すなわち二代目ミスター『天声人語』は深代惇郎です。これは常識です。・・・先日、私より18歳年下である編集者のK青年と話していたら、彼が、深代惇郎のことをまったく知らないと言うので、ちょっと驚きました。彼にとって、『天声人語』は、ものごころついた時から、すでに、今のような『天声人語』であって、かつてのそれが輝いていた時代があったことを知らないのです。」

さてっと、もうすこし駄目押しの引用で終ります。

「今の中学、高校の国語(現代国語)の授業方針はどうなっているのか知りませんが、当時、私(注:坪内祐三のこと)の中学、高校生時代には、国語力をつけるために『天声人語』を読むことが奨励されていました。例えば夏休みには、毎日の『天声人語』についての二、三百字程度の要約が課題(宿題ではなく課題だったと思います)で出されました。・・・・その結果、『天声人語』イコール深代惇郎レベルの文章という印象が体に深くしみついてしまったのは不幸なことでした。それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。・・・・」
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勁健(けいけん)なるみなさん。

2012-01-03 | 朝日新聞
1月1日の新聞をひらく。
読まないけれども、ひらくくらいなら(笑)。
さてっと、記事よりも、
新聞広告へと目がいく。
二面の下には、新潮社の広告が掲載されておりました。
朝日・毎日・産経新聞の、いずれもがそうだったのですが、
読売新聞だけには、新潮社の広告がありません。
1月3日の読売新聞を見たのですが、
ここにも、新潮社の広告が見あたりません。
うん。新潮社と読売新聞は、
いま、犬猿の仲なのかなあと、
雑誌にはうとい私ですが、思ったりします。
では、読売新聞を購読されている方のために、
新年の新潮社の広告を紹介いたします。

それは、ドナルド・キーンさんが写真入りで文章を書いておりました。
全文引用したくなるのですが、ここでは、
その文章の最後を引用しておきます。

「私は今年六月で九十歳になります。『卒寿』です。
震災を機に日本人になることを決意し、
昨年、帰化の申請をしました。
晴れて国籍がいただけたら、私も日本人の一員として、
日本の心、日本の文化を
守り育てていくことに微力を尽くします。
新しい作品の執筆に向けて、毎日、勉強を続けています。
勁健(けいけん)なるみなさん、
物事を再開する勇気をもち、
自分や社会のありかたを良い方向に
変えることを恐れず、
勁(つよ)く歩を運び続けようではありませんか。」

ちなみに、朝日新聞の文化欄には
ドナルド・キーン氏の文章が掲載されておりました。
すこしだけ、方丈記を語っているところがあるので、
そこだけ引用してみます。

「・・・ここまで考えて私は、自分の専門である日本文学の中に一体どれほど災害を記録した文学、小説があったかを調べてみる。すると長い歴史の中で、『方丈記』しかないと思えるほど、とても少ないのだ。これは実に不思議な発見だった。なぜ、天災や人災を記した作品がないか、ということにもはっきりとした説明は見当らなかった。
過去の日本では『源氏物語』のような典雅な内容ならともかく、悲惨で恐ろしい出来事は文学の題材に相応(ふさわ)しくないと考えられたのかも知れない」


うん。方丈記を読み直してみよう。
そういえば、玄侑宗久著「無常という力」(新潮社・2011年11月発行)は、副題に「『方丈記』に学ぶ心の在り方」とある本でした。
きちんと、堀田善衛著「方丈記私記」も読まなければ。

方丈記には竜が出てくる箇所がありました。

羽なければ、空をも飛ぶべからず。
  竜(りょう)ならばや、雲にも乗らむ。

この箇所の岩波文庫の注は
「竜だったら、雲にでも乗って難をさけられるだろうか、
 人間だからそれもできない。 」とあるのでした。

竜ならばや、雲にも乗らむ



以上で終わり、
以下は余談。


「雲にも乗らむ」というと、ついつい、
ノンちゃんなら雲にも乗らむ、という連想が働いてしまいます。
こういう連想は、俳諧むきなんでしょうか。
ということを、寺田寅彦の俳句をとおして
この一年考えられればと思っております。

さてっと、池上彰著「伝える力2」(PHPビジネス新書)
というのが出ておりました。
その第一章「東日本大震災と『伝える力』」の
はじまりを引用してみます。

「『ようめんに付着する放射性物質はですね・・・』
 『農作物への放射線の被害は・・ようめんにですね・・・』
突然発せられる『ようめん』という言葉。
私は思わず『ウン!? ようめん?』
と思ってしまいました。
この『ようめん』が何を意味するか、
あなたはわかりますか?
エッ、妖面? それはまぁ、なんと面妖(めんよう)な。
ひょっとして『面妖』って、ナニ?
と思った人もいるでしょうか。
確かに今では使う人がほとんどいなくなりましたね。
『面妖』は不思議な様(さま)、怪しい様を表わす言葉です。
一方の『妖面』は少なくとも国語辞典には載っていない言葉です。
では、この場合の『ようめん』はどう書くかというと・・・
『葉面』と書くのですね。
ピンと来た人はどれぐらいいるでしょうか。
『ようめん』と聞いて、
『葉面』がすぐに思い浮かぶ人はとても
少ないのではないでしょうか。」

ここでの連想は、小林惟司著「寺田寅彦と連句」(勉誠出版)。
ちょっと、うまい引用箇所がみつけられないのですが、たとえば、
こんな箇所

「独立の気力なきものは、国を思うこと親切ならずといったのは福沢諭吉である・・・北畠親房は、国の乱れる初めは言葉の紊(みだ)れにありといましめた。正しい言葉を正しく守ることこそ文化である、との考えに立っていたからである。・・・
寅日子(注:寅彦のこと)も、事にあたっていかに深く、細かに、しかもつつましい態度で考え、そうして感じ行ったかということを、今日のわれわれは深く思うべきである。『科学には国境はないが、科学者には祖国がある』という名句がある。・・」(p234)

うん。私はここまで、「寺田寅彦と連句」はまだ読了してなかった(笑)。
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あけましておめでとうございます。

2012-01-01 | 地域
元旦は、コタツで起きました。
6時に新聞をとりに戸をあけると、ちょうど
お隣の方が、散歩の帰りでした。
傘をさしている。それで
すこし雨がふっているとわかったりしました。
新年の挨拶をしてから、新聞をとる。
年賀はがきは、午前中、
けっこう早く届いたのでした。ありがたい。
年賀はがきを、昨年中は
とうとう出さずじまいだったので、
ゆるゆると、宛名書き。
裏は、昨年読んだ本を並べた写真を送ることに。
何だか、元旦の新聞の書店広告みたいになりました(笑)。

今年がよい年でありますように。
本年もよろしくお願いいたします。

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