和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『徒然草』に、モーツァルトを聴く人。

2022-06-16 | 古典
ガイドの島内裕子さんは、語りが伸びやかで、よく響く。
徒然草と絵画だったり、徒然草とモーツァルトだったり、
そのときどきでの比喩に、読者はワクワクさせられます。

ある本では、画家の全作品にたとえます。

「徒然草を『随筆』とする先入観を、まず捨てる必要がある。
 徒然草は、いわば、兼好という文学者が生み出した、
 多数の作品の集合体であり、たとえば、

 画家の全作品を網羅した『カタログ・レゾネ』のようなもの
 ではないだろうか。それを見れば、画家の生涯にわたる作風の
 変化やテーマの変遷を、一望の下に見渡すことができる。

 同様に、徒然草を通読すれば、著者兼好の関心の所在・表現の変化・
 思索の深化などを読み取ることができる。」
     ( p81~82 「徒然草の内幕」放送大学教材 )


はい。ここには徒然草の随筆全体を評して
「画家の全作品を網羅した『カタログ・レゾネ』のようなもの」
としておりました。
それが違う本では、こうなります。

「それにしても、『つれづれなるままに』という序段の季節感は、 
 青葉が揺れる夏の日とも、蜩が鳴く秋の日とも、
 雪が降り積む冬の日とも思えないのだ。
 春以外の季節では、『つれづれ』という語感が生きてこない。
  ・・・・・・・・・

 繰り返して言おう。心の底に本人さえも気づかぬほど微かな
 執筆意欲の蠢動(しゅんどう)が始まる瞬間が、
 春の季節以外では生きてこない。その蠢動のさまは、

 たとえばモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』の序曲の
 一番初めの、まるで小さな羽虫たちが一斉に翅(はね)を
 動かして空に飛び立つような、絃楽器の弓のごくごく細やかな
 すばやい動きを思い浮かべたら、最も近いだろう。

 この無比の清新さが、モーツァルトと兼好の身上である。
 徒然草を読んでいると、いつもモーツァルトが聴こえてくる。

 そのような読み方が、現代の私たちに許されている特権である。」

     ( p162~163 島内裕子著「兼好」ミネルヴァ書房 )


はい。徒然草をガイドしてゆく島内裕子さんの、
その楽しみが、すぐそばで響き渡る気がします。

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つれづれと雨降りくらす。

2022-06-15 | 古典
天気予報では、今日はほぼ雨。
ということだったのですが、午前中は小雨になり、
今は外が明るくなっております。

「つれづれ」の季節については、
ガイド・島内裕子さんの声に耳をすますことに。

枕草子、堤中納言物語、和泉式部日記をとりあげたあとでした。

「同じ『つれづれ』ということばが使われていても、
 かなりニュアンスには違いがあった。けれども、
 『つれづれ』が雨と結びついている点は共通している
 と言ってよいだろう。・・・」(p75)

「『万葉集』には『つれづれ』の用例はない。」(p76)

「勅撰集の中で『つれづれ』の用例を見てゆくと、
 兼好の時代前後の勅撰集、特に『玉葉和歌集』と
 『風雅和歌集』に多いことが気づかされる。  」(p76)

うん。せっかく和歌が6首引用されているので、
そのままに引用してみます。

 つれづれと雨降りくらす春の日はつねより長きものにぞありける
         ( 『玉葉和歌集』 春上・101・章義門院 )

 ながめするみどりの空もかきくもりつれづれまさる春雨ぞ降る
         ( 『玉葉和歌集』 春上・102・藤原俊成 )

 つれづれと空ぞみらるるおもふ人あまくだりこむものならなくに
         ( 『玉葉和歌集』 恋二・1467・和泉式部 )

 つれづれとながむるころの恋しさはなぐさめがたきものにぞありける     
         ( 『玉葉和歌集』 恋三・1498・藤原定頼 )

 つれづれとながめながめてくるる日の入りあひの鐘の声ぞ寂しき
         ( 『風雅和歌集』 雑中・1664・祝子内親王 )

 つれづれと山かげすごき夕暮れのこころにむかふ松のひともと
         ( 『風雅和歌集』 雑中・1734・従三位親子 )


はい。ついついつられて和歌を引用しちゃいました。
次に、兼好法師集から引用がある。こちらはカット。

では、ガイド・島内裕子さんの指摘を引用して終わります。

「『つれづれ』ということばの系譜を概観したことによって、
 これが王朝時代の和歌や散文作品によく使われることばであること、
 そこでは雨と結びつき、主として恋愛の感情を意識することによって
 起こる欠落感や寂しさ・つらさなどを含むことばであることがわかった。

 その一方で、恋愛とは結びつかぬ、
 自分自身の心のあり方としての所在なさを意味する
 『つれづれ』もあり、徒然草序段もこの意味で使われている。」
                    ( ~p79 )

こうして、ガイドさんは徒然草への旅のはじまりに際して、
まずは、読み手の心構えと、順序コースとを語っています。

「・・すでに出来上がり、評価の定まった作品として
 徒然草を読むのではなく、

 徒然草をまさに今執筆しつつある兼好とともに、
 読み進めてゆくことができるなら、おそらく従来の
 イメージとはまた違った新たな徒然草像が、眼前に
 刻々と繰り広げられてゆく光景を見ることができるだろう。」

「 序段で兼好が、
 『書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ』と書いているのは、
 まさに執筆しつつある過程で、その書かれたものを最初の読者として
 改めて読んだ時、自分自身の新たな姿が紙の上に定着していることへ
 の驚きのことばではないだろうか。

 そのような観点から徒然草を読むということは、
 どうしても徒然草を序段から順に読んでゆくことが必要となる。

 後世の読者にとって、ある作品をどこから読むかは
 全くその人に任されており、物語文学などと違って・・・

 随筆の場合、どこから読んでも、どこで止めても大差ない
 と思われがちだが、徒然草を最初から最後まで通読すると、
 多彩な内容の背後に、著者兼好の精神の変貌を垣間見ることができる。
 ・・・・     」 ( ~p80 )

 
以上は、島内裕子著「徒然草の内景」(放送大学教材・1994年)
 発行所は、財団法人放送大学教育振興会とあります。

はい。道順は示されました。
これからも、ガイドさんの声に導かれて。


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『ええ、まだあります』と

2022-06-14 | 先達たち
徒然草を読むのに、シロウトの私には文庫一冊あればよし。
島内裕子校訂・訳「徒然草」(ちくま学芸文庫・2010年)。

島内裕子さんが、徒然草へ旅のツアーコンダクター。
くだけて言うなら、修学旅行のバスガイド(古い)。

はい。どんなガイドさんなのか?
ガイドさんの自己紹介が聞きたい。

はい。そんな我儘を聞き届けてくれました。
島内裕子著「兼好 露もわが身も置きどころなし」
(ミネルヴァ書房・2005年)日本評伝選の一冊。
その本の「あとがき」での自己紹介。

「多くの人がそうであるように、
 徒然草との最初の出会いは、中学の終わりか高校の始め
 頃の国語の授業だった。

 その時、この作品の清新さに、まず心打たれた。
 これが六百年以上も前の時代に書かれたものとは、思えなかった。
  ・・・・
 それ以前の『若草物語』や『赤毛のアン』や『秘密の花園』の
 世界から、いつのまにか読書の好みも変化していた。

 教科書に出てくる徒然草は、簡潔で多彩ないくつもの短い章段からなり、
 『パンセ』や『侏儒の言葉』のような断章形式が何とも魅力的だった。

 『この作品を、一生研究してゆきたい』と、
  十代の半ばで思い定めたのは、今振り返れば不思議な気もする。

 けれども幸いこの気持ちは揺らぐことなく、こうして兼好の評伝を
 書き終えるまでの長い歳月を、いつも徒然草は私の傍らにあった。 」


はい。この後も肝心な場面がありますので、
もう1ページ分を引用してしまうことに。

「だから、十代の終わり頃から読み始めた小林秀雄経由で、
 モーツァルトやランボオに出会い、大学生になってから
 美術展や音楽会に出掛けて、ヴァトーやショパンを好きになっても、
 それらのすべてが、時代も場所も越えて徒然草の世界と響き合い、
 徒然草はますますみずみずしい姿で絶え間なく生成してゆく、
 一つの生命体であった。」

うん。この次には、大学院の口頭試問がひかえておりました。
そこも引用しなくちゃ終わりにできません(笑)。

「ところが、いざ専門的な研究に取り組み始めると、
 徒然草と兼好がかなり固定化した捉え方をされていることに、
 違和感を感じずにはいられなかった。・・・・・・・

 それならどのような観点と方法で徒然草の研究をすればよいのか。
 
 忘れることができないのは、大学院の口頭試問で、秋山虔先生が、
 『研究者として、ずっとやってゆく決心はありますか』とお聞きになり、
 
 それを承ける形で今は亡き三好行雄先生が、
 『徒然草って、まだ研究することがあるの』と質問なさったことだ。
 
 一瞬、『不合格かしら』という不安が心をよぎり、
 返答に窮していた時、

 『ええ、まだあります』と久保田淳先生が一言おっしゃって、
 急にその場の雰囲気が和らいだ。

 ほんの一、二分の出来事だったが、この時の先生方の、
 厳しくも暖かい励ましが、ずっと研究の支えとなっている。 」
 
                   ( p299~300 )

はい。こうして格別の案内人を得たのですから、
ここでは旅をガイドさんと一緒に楽しまなきゃ。


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四冊の文庫本。

2022-06-13 | 本棚並べ
杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店・1993年)に、
外国に持っていった文庫本に触れた箇所があります。
こういうちょっとした箇所は、どの本にあったのか、
すぐ忘れるので、備忘録がてら引用しておくことに。

杉山秀太郎氏は、1982年秋から翌年春にかけて外国にいたそうです。

「私は毎朝、天窓から光の射すあかるい浴槽に横たわって、いずれも
 文庫本の『徒然草』『芭蕉七部集』『春雨物語』『古事記』を
 しばらく読むという暮し方をつづけたのであった。

 日本の古い書物を読むのに最も適している場所は、
 日本のなかにあるわけではなく、わが身を流謫の身に
 なぞらえながら暮すことのできるような外国の都市にある。

 それはまさに『徒然草』第五段にいう
 『配所の月、罪なくて見ん事』が可能な場所ということになるだろう。」
                    ( p90~91 )

うん。外国には行ったこともないのですが、
その際持ってゆく文庫というのが気になる。
以前雑誌のテーマによくあった気がします。
『孤島にもってゆくとしたら、どんな本を
あなたは持ってゆきますか?』という質問。

うん。『春雨物語』は、名前も知らないので
気にしたら、同じ本に2㌻の解説がありました。
「隣りは何をする人ぞ――上田秋成のこと」(p166~167)

はい。ここもすぐに忘れそうで、どの本にあったのか
想い出せなさそうなのでまたまた引用しておくことに。

「 癇癪、八当りによって儒の教訓臭をはねとばし、
  煎茶の晴朗心によって仏の因循を濾過し、
  そうするうちに発明した書法によって、
  秋成は小説のなかに魂を解放し、
  まことに人たるにふさわしい自由というものに形をあたえた。

  『雨月』『春雨』の諸篇は、この解放の美しい証跡である。

  各篇それぞれの読後に揺曳する言いようのない悲哀の気味は、
  美しく晴れた一日のおわり、西空にかかっている弦月を見た
  ときに私たちがおぼえる感情と異なるものではないだろう。

  ・・・およそ二百年前に死んだ人とは思えない。
  秋成は、私たちの最も身近な隣人である。       」


う~ん。もってゆく文庫本四冊。
とりあえず、身近に『徒然草』。本棚に『芭蕉七部集』。
少年少女読本でしか、読んだことのない『古事記』。
まるっきり読んだことのない『雨月』『春雨』なのでした。

そういえば、と思い浮かんだのは「サザエさんうちあけ話」。
その29章『思いでの人 矢内原忠雄先生』の最後の一コマに

廊下で、メガネの町子さんが、足を両手で組んで座って、
庭の鉢植えの菊を見てる。縁側の町子さんのそばにネコ。
枯葉が三枚降りそそぐ図柄。そこには、こうありました。

「 私は矢内原先生を思いだすたびに
  雨月物語の『菊花のちぎり』が頭にうかんでくるのです。」


はい。とりあえずは、読まないだろうけど、
視野の片隅に入れておくことにします(笑)。



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いつか一葉(かずは)も。

2022-06-12 | 本棚並べ
ブログのコメント欄で、お二人の方が取り上げておられた、
ほしおさなえ著「言葉の園のお菓子番」(だいわ文庫)を、
ちょうど読み終わったところです。
主人公一葉(かずは)と亡くなった祖母とのつながりが、
連句会でむすびつきひろやかに浮き彫りされてゆく物語。

それはそうとウェッジ選書『西行と兼好』(2001年)。
西行のことを4人が、そして兼好を4人が書いてる一冊。
そのなか島内裕子さんが兼好を取り上げた26㌻の文を、
「言葉の園のお菓子番」の読後に、思い浮かべました。
島内裕子さんの文の、最後から引用したくなりました。

「 『徒然草』第30段には、
  『人のなきあとばかり悲しきはなし』という書き出しで、
  臨終から四十九日を経て、山に葬られた人の墓が次第に
  縁者たちの訪れも絶え、ついには鋤き返されて跡形もな
  くなってしまうことが描かれている。

  『その形だになくなりぬるぞ悲しき』と結ばれるこの段は、
  人間の生と死の様相をリアルに描き切り、
  『徒然草』の中でも忘れ難い段のひとつである。
    ・・・・・・・

  まさに兼好自身もこの段に描かれた通りなのであって、
  彼の墓がどこにあったか全く不明である。・・・

  兼好に子孫はいなかったし、墓も残らなかった。
  しかし今、わたしたちには『徒然草』がある。
       残るのは言葉。その言葉に託された心。

       作者の心を生かすのは読者。それを思えば、兼好にとって
       現代を生きるわたしたちこそが、彼にとっての『見ぬ世の友』であり、
   同時にわたしたちにとっては、兼好が『見ぬ世の友』なのである。   」

                         ( p128 )


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八歳の少年兼好は。

2022-06-11 | 古典
徒然草は第243段でおわります。その最終段で、
兼好は幼少の自分と父親のことを語るのでした。

8歳の私の質問に、父親は答えます。
再び私は質問する、また父親は答える。
三度私は質問する。四度私は質問する。
そして最後に答える父親の態度は・・。
ここは原文から

「・・・父、『空よりや降りけん。土よりや湧きけん』と言ひて、笑ふ。
 『問ひ詰められて、え答へず成り侍(はべ)りつ』と、
 諸人に語りて、興じき。 」

ここを島内裕子訳では

「・・四度、私は問うた。・・・父は、
 『さあて、空から降ってきたのだろうか。
   土から湧いて出てきたのだろうか』と言って笑った。

 『息子に問い詰められて、とうとう
  答えることができなくなりました』と、
 父はいろいろな人にこのことを語っては、面白がった。 」


島内裕子の『評』からも、その箇所を引用。

「それにしても、何という素晴らしい擱筆であろうか。
 究極の答えは、とうとうなかった。

 しかし、それでよいのだ。
 父が楽しそうに人に語るのを、
 幼い兼好は、その場にいて聞いたのだ。

 八歳の少年兼好は、
 大人たちの笑い声を聞いて、
 畏(かしこ)まってその場に居たではあろうが、

 おそらくは、心が伸びやかになってゆく思いがしただろう。
 幼い兼好の疑問に何度も父が答えてくれたように、

 大人になった兼好は、
 今度は自分で自分の問いに答えなくてはならない。
 その問いかけが続く限りは。・・・       」
  ( ~p472 島内裕子校訂・訳「徒然草」ちくま学芸文庫  )


  
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『徒然草』不信任案と、儒学者の世界。

2022-06-10 | 古典
島内裕子著「徒然草文化圏の生成と展開」(笠間書院)を
ひらいているのですが、遅読で、なかなかすすまない。
うん。いいや、とりあえず第一部だけでも引用。
徒然草の『テーマ読み』の箇所が、今回引用したくなりました。

「徒然草は、正徹が現れるまで誰も深く分け入ることができないほど、
 複雑で陰翳に富んだ一種の閉ざされた作品で、
  内部に通じる入口は荊棘に覆われていたが、
 正徹や心敬たちによってようやく細々とした通路が見出されたのだった。

 ところが、近世の儒学者たちは、自分たちの学理を盾に取って、
 徒然草という閉ざされた庭園の中にいともやすやすと闖入し、
 あっという間に平坦な道を切り開いてしまった。

 儒学者たちが薙ぎ倒したのは老荘思想や仏教だけではなかった。
 色好みや女性論も同時に摘み取られ、刈り取られてしまった。」(p63)

こうして一人一人登場させております。

「儒学者の林羅山が著した徒然草の注釈書『野槌』(1621年)は、
 物語草子と比べて徒然草を評価しているが、自分の価値に合致しない
 箇所は、容赦なく批判した。

 さらに、近世には徒然草を教訓書として読む傾向があった。
 『教訓読み』が端的に現れている二書として、

 佐藤直方(1650~1719)の『しののめ』(1685年刊)と
 藤井懶斎(1618~1705)の『徒然草摘議』(1688年成立)がある。

 どちらも山崎闇斎門下の儒学者による、徒然草からの抽出書である。

 『しののめ』が訓戒となる部分を抜き出したのに対して、
 『徒然草摘議』は、初学者が読むと害になる29の章段を抽出している。
 そこで抜き出されているのが、仏教的・老荘的な章段と並んで、
 色好みや女性に関する章段だった。・・・・・

 ・・・近世初頭以来、儒学者たちは徒然草と兼好に対して、
 型に嵌った批判を繰り返した。」(~p65)


はい。ここだけ引用してはつまらないなあ。
もうちょい比較する意味で引用しなきゃね。


「徒然草は、『心にうつりゆくよしなしごと』を書き留めた
 ものであるから、内容が多彩になることは当然であって、
 むしろ兼好が目指したのは、想念の自在な運動と展開のさまを、
 みずから見極めることにあったのではないだろうか。

 ある時は緊密に、またある時はゆるやかに伸びてゆく
 兼好の思索の自由な広がりが、徒然草の特徴であり魅力だろう。

 ・・・何か特定の観点に力点を置いて徒然草を読むのは、
 この作品の読み方として最適であるかどうか疑問であるが、

 古来徒然草は、その全体像を捉えようとするよりも、
 多彩な内容の中からテーマを絞り込んで読まれる傾向が顕著であった。

 室町時代の正徹によって、
 『花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは』という
 下巻冒頭の引用されて以来、徒然草のどこに
 この作品の眼目があるかを問題にする読み方である。

 正徹は、『日本の古来の文化伝統を愛惜している章段』に
 最も感銘を受けたのであって、
『けっして人生をいかに生くべきかなんて議論している
 ところに感心しているのではない』という久保田淳の発言は、
 徒然草の読まれ方の出発点を言い据えた重要な指摘である。 」(p62)


うん。徒然草の章段の間の問題は、芭蕉の歌仙へと
そのままつながってゆく稜線のひろがりをもちます。
ということで、最後はこの箇所も引用しておきます。

「徒然草は、ある章段をそこだけ独立して読むことができるが、
 前後と連続して読むと意味合いが変わってくるものもある
 
 徒然草の章段の繋がりについては、すでに江戸時代に加藤磐斎が
 『来意』という言葉で捉えている。

 『来意』とは、一言で言えば、連想ということである。

 似たような話題で繋がっている場合には、この考え方はよく当てはまる。
 ただしここでは、単なる関係付けではなく、
 前の章段を視野に入れることによって、ある章段に書かれている内容が、
 より深みを持ってくる箇所を取り上げてみたい。・・・」(p20)


こうして、島内裕子さんは、各章段のつながりの例を
鮮やかに繰り広げてみせてくれるのですが、そのまま
芭蕉の歌仙のつながり具合の説明をうけているような
そんな気がしてくるのでした。うん。歌仙より明快に、
島内裕子さんによる各断章間のつながりが楽しめます。


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徒然草の連続読みの旋律。

2022-06-09 | 古典
徒然草の『連続読み』を、島内裕子さんは語っております。
もどって、沼波瓊音氏は、どのように語られておられたか?

「おのずからその文に旋律があると云うだけのことである」(p36)

はい。こう語る沼波さんの『旋律』を、拾ってみることに。


「一体この徒然草は、始めから終りまで、一つの事を書いて、
 その事からふと他の事を思ひついて、次に書くと云風に出来て居るので、
 
 厳格に云へば、段を切ると云事は、不自然な事になるのです。
 ・・・・・・・・

 しかしよく文を論ずる人が、解剖的のことばかり云ひたがるために、
 聞く人が、作者がそう云手段を意識してやってると思ひ易いが、
 必ずしもそうで無い。手段を意識した文には碌なものは無い。

 作者はただ感の儘を書き流して行ったのが、調べて見ると、
 自から其の文に旋律があると云だけのことである。・・  」(p36)

うん。ちょっと寄り道して、小林秀雄が思い浮かびました。
小林秀雄に『徒然草』と題する文があります
( 分かっても分からなくても短いのですぐ読めます )。

小林秀雄年譜をひらくと、
昭和17年(1942) 8月『徒然草』を「文学界」に発表。
         9月『バッハ』を「文学界」発表。胃潰瘍のため入院。
     この年、『モオツァルト』を計画。

そして戦後の
昭和21年 9月『無常といふ事』(ここに「徒然草」がはいる)創元社刊行
昭和22年 7月『モオツァルト』を創元社より刊行。

かってな連想をしたくなるのですが、この時期に、
徒然草も、バッハも、モオツァルトも、
小林秀雄の頭の中では『旋律』というテーマが鳴り響いていたかも。

ということで、もどって、沼波氏の旋律の箇所を
沼波瓊音著「徒然草講話」のなかから、もう少し拾ってみます。

「 自然の出来事には、自ら、韻律がある。
  古欧人流に考へると、日々の人事は大も小も
  悉(ことごと)く音楽だとも云へよう。

  その音楽は、写す者のわざでは無いが、
  その音楽を其の儘写すと云ことは、実に難事である。
  兼好の文才につくづく感服する。

  西洋の古今の文豪の誰彼と考へて、これだけの事を、
  どの人が、これだけに、かう云ふ工合に、書き得るかと
  考へて見給へ、長々と書く人はいくらもあるが、
  こういう工合に書き得る者は・・・・・・
  やがて日本の、否、東洋の芸術の優なるものの骨を得ることである。」
                  ( p247 )

第137段の「花はさかりに、月は隈なきをのみ見るものかは・・」
の中では、沼波の訳には
「そもそも月花によらず、どんな事でも、盛りの時よりは、
 その事の始めと終りが味ひがあるのでる。」(p371)

この第137段の評でも
「 じつにこの思の波が、美しく色々に光って、
  韻律を成して居るでは無いか。      」(p376)

では、その旋律に、どのような豊饒さを載せているのか?

第175段の沼波の『評』には
「 この書はほとんど全部矛盾をもって成立して居るが、
  ここ程明著な、矛盾の場所は無い。・・・     」(p453)

「 兼好の真の人たる所は、実にこの両面を見る点である。
  その心に起る矛盾を平気で書いて、普通の人のやるやうに、
  そのどちらかを殺すと云事をしなかった所にある。
  矛盾に安住してる所にある。

  真を書いた書には必ず矛盾があるものである。
  たとへば、右の頬を打たれたらば更に左の頬を出して打たせよ、
  と書いてある聖書の、他の部分に、我は平和をもたらす為に
  生れて来たのでは無い、戦をもたらす為に生れて来たのだ、
  と云ってる。これも矛盾である。
  云ふ言に、書く文に、矛盾の認められぬ人は、
  確かに偽ってる人であるのだ。・・・・   」(p454)


はい。はじめにもどることに、

「 実際徒然草は、若い時国文のぞきに一通り読んで、
  それで棄てておく、と云類の書では無いのである。 」(p145)

「 徒然草を読む人は、
  一度は段切りして解をしたものによって読んで、
  次には、何段何段と云ふことを、全く見ないで、
  本文だけ、通して読んで見なくてはいかぬ。   」(p228)


はい。打ち棄ててあった徒然草と、まためぐり会うチャンスの到来。 
引用のページは、沼波瓊音著「徒然草講話」(東京修文館)でした。
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先達(せんだち)は、あらまほしき。

2022-06-06 | 道しるべ
徒然草を通読しようと、今回私が
指名した水先案内人は島内裕子氏。

まず古本で手にしたのが、
島内裕子・校訂訳『徒然草』(ちくま学芸文庫・2010年)。

では、案内人による「はじめに」での口上から

「本書が目指すのは『通読できる徒然草』である。
 徒然草こそは、自己の内界と外界をふたつながら
 手中に収めた、日本最初の批評文学であり、

 表現の背後に、生身の兼好の、孤独も苦悩も、
 秘めやに織り込まれている。兼好は、決して
 最初から人生の達人ではなかった。

 徒然草を執筆することによって、
 成熟していった人間である。
 ここに徒然草の独自性があり、
 全く新しい清新な文学作品となっているのである。」( p12 )


こんなふうな口上をする、水先案内人にも興味があります(笑)。
うん。文庫を読んでゆく前に、島内さんのことも知りたくなる。

島内裕子さんは、1953年東京に生まれる。とあります。
別の本ですが、「おわりに」の最後にこうありました。

「わたくしが最初の論文集『徒然草の変貌』を上梓したのは、
 平成4年だった。放送大学に着任し・・・・・・

 ここ10数年間の歩みを振り返っていると、いつのまにか
 論文の数も増え、研究の関心分野も自然に広がっていた。
 けれどもそれらはすべて、徒然草から発生し、生成し、
 展開していったものである。

 徒然草に最初に出会った十代の半ばからのことを思えば、
 改めてわたくしの人生の大部分の時間を徒然草とともに
 過ごしてきたことに感慨を催す。

 その間、家族の理解と協力に恵まれたことは幸いであった。
 つねにわたくしを見守り支えてくれた家族に、本書を捧げたい。
   ・・・・・
        平成20年6月       島内裕子    」

 ( p532 島内裕子著「徒然草文化圏の生成と展開」笠間書院  )


はい。これは一筋縄ではいかなそう、腰をすえて。
ここは古本で島内裕子さんの本数冊注文しました。
水先案内人のお喋りを聴きながらなら徒然草通読
も苦にはならなそうです。これなら今から楽しみ。

では、「徒然草文化圏の生成と展開」の「はじめに」
から引用。島内さんが指し示す先を望見してみます。

「あまりにも有名で身近な存在であるが故に、徒然草は、
 誰でもよく知っている『入門書扱い』をされて久しい。

 換言するならば、徒然草の真の文学的な達成と、
 文化史的な重要性が、いまだ十分には認識されていない
 ということである。しかしながら

 徒然草こそは、日本文化の隅々まで浸潤し、
 日本人の思考形成の支柱とも言える作品なのである。

 そのことが従来それほど強調されて来なかったのは、
 逆に徒然草の存在が、あらゆる面で日本文化の血肉となって、
 普段はそれと意識せずに暮らしていることの証左とも言えよう。

  ・・・・・・・・四百年にわたる徒然草研究史は、
  徒然草という作品そのものの研究が中心になってきた。

  徒然草が日本文化の中でどのような役割を演じ、
  何を生み出し、人々の心の襞にどのように深く入り込んだかという、

  徒然草が日本文化史に及ぼした影響力を解明する総合的な研究視点が、
  ややもすれば忘れがちだったように思われてならない。

  今、この時代にこそ、トータルな問題意識に支えられた、
  新たな徒然草認識が必要であろう。・・・・        」


何だか、私に思い浮かぶのは、徒然草・第52段でした。
ここは、島内裕子さんの訳のはじまりとさいごと引用。

「 仁和寺(にんなじ)法師が、年を取るまで、
  石清水八幡宮にお詣りしたことがなかったので、
  そのことを残念に思い、ある時、
  思い立って、ただ一人で、徒歩でお詣りした。 」

うん。真ん中は思い切ってカットし、最後の一行。

「 少しのことにも、先達はありたいものである。 」(p112・文庫)

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『ここだ ここだ』と通った声で。

2022-06-05 | 古典
沼波瓊音の『徒然草講話』(東京修文館)から引用。
はい。短い箇所にも重要な視点が隠れているので、
こういう場合は、箇条書きにして引用することに。

① 正徹物語が聞く、兼好の声。
② 兼好と、芭蕉の俳諧。
③ 徳川時代の徒然草と、
    今の教科書の徒然草。

①「 正徹物語には、

  『花はさかりに月はくまなきをのみ見るものかは
    と兼好が書きたるやうなる心根持ちたる者は、
    世間にただ一人ならでは無きなり  』

  と尊重して居る。・・・・・
  兼好は稀である。しかし兼好は唯一人では無い。
  この趣味(趣味の点のみで云ってみても)は
  
  兼好が創立して鼓吹したものとは云へないが、
  『ここだ ここだ』と古今にわたる通った声で
  呼号した人として、どうしても兼好を、
  我々は重んずる。敬ふ。親しむ。愛する。   」

②「 徒然之讃には、
   『 枕草紙は和歌の夜話ともいふべく、
     徒然草は和歌の法語なり     』と云ってゐる。

  ただ形式の上のみならず、枕草紙と徒然草とには、
  断つべからざる一条の連鎖がある。

  そうしてこの同じ連鎖が、
  徒然草と俳諧とをも繋いでゐる。

  西鶴は如何に兼好に刺激されたか。
  芭蕉は如何に兼好を慕うたか。

  その各の作品と、徒然草とを読比べると、
  誰でも其程度が直ぐ解る。

  西鶴と芭蕉は、実に兼好の門弟子の高足なるものであったのだ。

  支考は、芭蕉庵で師翁と徒然草を論じたことを書いている。
  このやうな事は屢(しばしば)あったのであろう。   」


③「 徳川時代の文学と云ふものを考へると、誰も、
   その指導者の著しき一人として兼好を認めぬ訳には行かぬ。
   徒然草の言い方の模倣形式の模倣のみのものでも
   随分沢山出来てゐる・・・・・・・・・・・
    ・・・・・

   かう云流行は無意味のやうであるが、
   こんな無意味な流行を五百歳の後にも見るほど、
   徒然草の勢力は永く大きいのである。 

   所謂道学先生から見ると、
   危険極まるべき徒然草を、
   せめて其の差障りの無い所を選抜しても、
   
   これを教科書中に入れねばならぬほど、
   今も徒然草は行はれてゐるのである。

   しかし徒然草の深みは、
   教科書に入れられない部分に多くあるのである。

   教科書中に入れられてゐる部分の味も、
   実は中学時代の人には、迚も迚も(とてもとても) 
   本当には味はれぬ底のものである。        」


はい。『とてもとても本当には味はれぬ底』を、
いよいよ味わう年齢になったと思うことしきり。 
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『祭の終りの光景』

2022-06-04 | 古典
島内裕子校訂・訳『徒然草』(ちくま学芸文庫・2010年)。
はい。手にしました。パラリと、まずは第137段をひらく

「 花は盛りに、月は隈なきをのみ見る物かは。
  雨に向かひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、
  なお、哀れに情け深し。
  咲きぬべき程の梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。
  ・・・・・・    」  (p267)

はい。これがはじまり。第137段のおわりは、どうだったか?

「 兵(つはもの)の、軍(いくさ)に出づるは、
  死に近き事を知りて、家をも忘れ、身をも忘る。

  世を背(そむ)ける草の庵には、
  静かに水石(すいせき)を翫(もてあそ)びて、
  これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。

  静かなる山の奥、無常の敵(かたき)、競ひ来らざらんや。
  その死に臨める事、軍(いくさ)の陣に進めるに同じ。 」
                      (p269)

この文庫は各段の原文・訳・評と並びます。
島内裕子さんの訳と評とを引用してみます。

「 桜の花は満開の時、月は満月だけが、見るに価すると
  決め込んでしまってよいものだろうか。そうではあるまい。

  雨が降っている時に、ああ、月を見たいと恋しく思い、
  病気で部屋に閉じ籠もって外出ができず、
  春景色の移ろいもわからない、といった状態でも

  月や花に憧れるその心持ちがかえって情趣深いのだ。
  だから、もうすぐ花が咲きそうになった梢、
  桜の花が散り敷いている庭などこそが、むしろ
  見所が多いと言ってもよいくらいだ。         」


はい。さいごの箇所も訳してあります。

「 武士が戦場に向かう時は、死が近いことを知って、
  自分の家のことも忘れ、自分自身のことも忘れる。

  それでは、遁世者はどうだろうか。
  俗世間を背いて、草庵で静かに水石を弄んで、
  自分だけが死の到来から遠く離れているような
  気になっているとしたら、たいそうはかないことだ。

  閑静な山奥にも、
  死という最強の敵がやってこないことがあろうか。
  死というものは、人間がどこに暮らしていようと、
  確実に襲いかかってくるのであって、
  山奥の草庵暮らしといえども、死に直面している点では、
  武士が戦場を突き進んでゆくのと同じであって、
  変わることはないのだ。    」( ~p275 )


うん。島内裕子さんの『評』も、忘れずに引用しなくちゃ。

「 徒然草の全体を通して、最大・最高の章段である。 」

島内さんは『評』を、この言葉からはじめてるのでした。
そのあとは、ところどころ抜き出して引用しておきます。

「 さて、兼好の時代からようやく百年後、室町時代の
  歌人・正徹(しょうてつ・1381~1459)が、

  はじめて徒然草から原文の一部を引用して、
  徒然草という作品の存在を文学史に刻印した時、
  正徹が引用したのが、この第137段の冒頭の一文だった。 」

うん。島内さんの『評』は、ここでカットするのが惜しいので、
この章だけで終りますが、もう少し引用を続けさせてください。

「 ここで兼好は、花や月の美しさ、恋愛の情趣は
  どのように賞玩したらよいのか、という問題提起を行っている。

  そして何ごとであれ『良き人』たる教養人は、
  対象と距離を置くことによって、むしろその本質や
  価値に肉薄していることに注意を喚起し、
  逆に対象に近づけば近づくほど、そのものを
  損なうことを述べて、その解答としている。
  花見や雪の足跡、葵祭見物などの具体例の提示が鮮やかである。

   ・・・・・・・・
  賀茂祭では、行列だけを見るのではなく、
  祭当日の明け方から夕暮れに到る一日の情景の変化を
  『余所(よそ)ながら見る』べきであるという趣味判断から、
  この世の無常の認識へと、思索が飛翔するのである。

   ・・・・・・・・・
   ・・・・・・・・・
  兼好は、実にさまざまなことを、さまざまな観点から描き出す。
  テーマを絞らないという、最初の方針がいかに賢明であったか、
  徒然草を読み進めるにつれてよくわかってくる。なぜなら、

  一旦ある思索から離れて、その思索が再び心にもどってくるまでの
  自由な時間を与えることによって、さらなるおのずからの思索の
  広がりと深まりが付加されてくるからである。・・・」
                        (~p277)

ここまで引用してくると、この同じ章を、
沼波瓊音はどう評していたのか気になる。
この章を評した最後でした。

「 祭の終りの光景、よく其の感じが出て居る。
  私は幼少の折『物のあはれ』と云のをも感じたのは
  全く、東照宮の祭禮の終る頃の心持であった。

  これは誰でも経験があろう。
  其土地の祭の終りのあはれさは、
  幼き者をして、泣く以上の悲哀を覚えさせるものだ。

  兼好はこの心から無常観を強められて来た。
  『世の人かずもさのみは多からぬにこそ』と
  云事を観じたところは、必ずしも合理的では無いが面白い。」

   ( p378 沼波瓊音著「徒然草講話」東京修文館・大正14年 )
   ( ちなみに、私が買った古本は、昭和25年発行のものです。)


コメント (4)
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歌仙のルール。

2022-06-03 | 古典
芭蕉の歌仙を読みはじめると、
歌仙にはルールがあるらしい。

うん。ただ読む私のようなものには、
そのルールはできるだけ飛ばし読み
をしてゆきます。それでも気になる。

そんなことを思っていたら、徒然草との
関連でルールを思いうかべると楽しめる。
そう思えてきました。まずは徒然草から。

「『徒然草』は、名文・名句の宝庫である。
『折節(おりふし)の移り変はるこそものごとにあはれなれ』(第19段)とか
『少しのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしきことなり』(第52段)、
『花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは』(第137段)や
『よろづのことは頼むべからず』(第211段)などといった

簡潔で明快な文章は、読者の心に丸ごと深く刻印される。
もっと短いほんの一言にさえ、それを聞いただけで、
『ああ、これは「徒然草」だ』と思わずにはいられない、
紛うことなき独自の魅力がある。・・・・・

言葉のリアリティこそが文学作品の生命である。 」

  ( p106 「西行と兼好」ウェッジ選書の中の島内裕子の文 )

徒然草と、歌仙のルールとが密接につながるような気がします。
たとえば、花と月です。
徒然草の、『花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは』が
歌仙では、そのルール範囲で、どのように組み込まれているのか。

「『月』は、春の『花』とともに四季の景物を代表するものとされ
 したがって連句においては、それらが一巻をひきしめるものとして
 ほどよく出てくるようにという配慮から、その数と配置とが
 定められていまして、それを定座(じょうざ)と申します。
  ・・・・・・・               」
       ( p35 尾形仂著「歌仙の世界」講談社学術文庫 )


ルールというと、もう最初からして思考停止状態になる私ですから、
こうして、歴史的な流れのなかで、徒然草と歌仙とを比べてゆけば、
何となく、身近な裾野の広がりとして、理解できそうな気がします。

もう一箇所引用。
徒然草の、『折節(おりふし)の移り変はるこそものごとにあはれなれ』は
歌仙では、どうルール化されゆくのか。

「句を付ける場合、前の句のもう一つ前の句を打越(うちこし)といい、
 打越の世界は切り捨てて、もうそこへは戻らないというのが、
 連句の鉄則になっていまして、

 付句が前句を軸に打越と同じような内容や
 気分の繰り返しになることを≪観音開き≫とか≪扉≫といって
 きびしく戒めています。

 特に第三の場合には、新しく一巻全体の変化を喚び起こす意味で、
 前句である脇の句に対してもベッタリと付けず、ある距離を置き
 離れて付けるのがよい、というのです。・・・ 」 
           ( p33 尾形仂著「歌仙の世界」同上 )            


「一句のうちにあえて趣向を凝らすことなく、
 ただ連句の運びが渋滞したような場合、
 気分を軽くくつろげてあっさりと先へ付け
 進めるだけの句を、遣句(やりく)といい、
 通常はとかく軽視されがちですが、

 『三冊子』には、芭蕉が『三十六句、みな遣句』と言って、
 歌仙全巻をすべて遣句の心得をもって付け進めるべきことを
 説いたことが伝えられています。

 四句目への腐心といい、遣句の尊重といい、
 蕉風の連句にとって、凝滞なき詩心の流動展開
 ということが、いかに重要視されたかを物語る
 ものといっていいでしょう。  」( p39 「歌仙の世界」同上 )


うん。こうして尾形氏の文を引用していると、
ルールといっても、ある程度流動的でいいような
そんな気がして、読むだけでも気が楽になってきます。

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手紙と、贈答句。

2022-06-02 | 詩歌
今日は日差しが眩しく、風はなく、よい天気。

古本で、高浜虚子著「贈答句集」(菁柿堂・昭和21年)届く。
さっそく、序のはじまりを引用。

「 贈答句といふのは手紙の端などに書いて
  人に贈った句が多いのであるから、
  
  その場限りの句として
  書きとめて置くことが少い。

  また書きとめて置いてもそれほどの
  価値のない句も少なくない。

  この集にあつめたものは、たまたま
  何等かの機会に記憶にとどまってゐた句とか・・・
  あとからわざわざ知らしてもらって、
  そういふ句があったのかと気づいて
  書きとめたものなどである。

  贈答の句、慶弔の句の如きものは
  他の意の加はったものであるから
  純粋の俳句といふことは出来ないかも知れない。

  然し、それでゐて平凡な句であってはならない。

  他の意味も十分に運び而も、俳句としてみても
  なほ存立の価値があるといふやうなものでなくてはならぬ。

  そこが普通の俳句よりもむづかしいと
  言へば言へぬこともないのである。・・・・・・・・・    
   
          昭和21年4月29日   高山虚子    」


はい。1ページに1句。
余白が涼しく好都合。
ちょこっと3句引用。

   明治29年 人に寄す   ( p32 )

 衣替へて八字の眉も可愛ゆらし 


   明治31年6月8日 暫く音信を絶ちたる東西俳人を思ふ ( p67 )

 霽月といひ漱石といひ風薫る


   明治33年5月26日 山口花笠来訪  ( p80 )

 あつき日にやけてげんきな男かな




追記:
古本は、居ながらにしてネット注文できるので、
あとは、どんな古本を注文するかと、迷うだけ。
そして、かんじんな、値段との相談になります。


今回は、気になった高浜虚子著「贈答句集」
これは、丸谷才一大岡信対談「唱和と即興」
で触れられていたのでした。

日本の古本屋にて検索すると、
810円+送料370円=1180円。
北海道函館市駒場町浪月堂書店。
『古書浪月堂(ロウゲツドウ)』

1ページ1句で、全280ページ。
戦後1年目の本で、それなりに汚いのですが、
当時の装丁ではしっかりした感じを受けます。
うん。私に読めてよかった一冊となりました。


  
  

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手紙と、文化の触覚。

2022-06-01 | 手紙
佐藤忠良氏の対談の言葉に、

「 彫刻って触覚が何より大事な仕事なんです。
  コンピューター全盛の時代でも我々彫刻家は、

  先人が腰蓑(こしみの)つけていたのが、
  背広にネクタイつけるようになっただけの違いで、

  相変わらず粘土をこねているーーでも、
  文化って、そういう触覚感が大事なんですよ。 」

       ( p22 「ねがいは『普通』」文化出版局 )
       ( p26 「若き芸術家たちへ」中公文庫  )

この言葉のすぐ前に、佐藤忠良氏は、安野光雅氏に語っています。

「 我々若いとき、一生懸命、手紙書いたでしょう?・・・ 」

うん。この箇所が気になっておりました。
粘土をこねるように、手紙を書いていた。

ということで、手紙が思い浮かびました。
安かったので購入して、昨日届いた古本に
矢野誠一著「昭和の東京 記憶のかげから」(日本経済新聞出版社・2012年)
がありました。矢野誠一氏の本ははじめてです。
ひらくと、この方は「東京やなぎ句会」の一員とあります。
それはそうと、パラリとひらくと、
『諸先輩からの手紙』(2010年7月)という2ページの文がある。
そこから、端折って引用することに。

「 パソコンも使わないから、
  原稿は万年筆で原稿用紙に書くし、
  電話で意の通じにくい連絡、
  献本や贈答品のお礼は、もっぱら郵便を利用する。
  これで、日本国憲法で保障されている。健康で文化的な
  最低限度の生活を営むにあたって痛痒を感じたことはまったくない。」

うん。短い文を、さらにブツ切りにしてゆくと、
つながりが、つかみにくいでしょうが続けます。

「 文豪と呼ばれる作家の日記や書簡を読むのが好きで、
  その『日記・書簡集』というのがほしさに、
  全集全巻購入してしまうなんてことがあったが、
  
  世のなかからこう手紙を書く習慣が失われては、
  そんな楽しみも日記だけになりそうだ。

  古書展などで見かける著名人の葉書や書簡の文面に、
  単純な用件しか記されていないのが意外に多いのは、
  ケータイはおろか電話そのものがそれほど普及して
  いなかった時代を物語るものだろう。       」


「 筆まめだった戸坂康二、中村伸郎、木下順二などの
  諸先輩からはずいぶんとお手紙を頂戴したが、いま
  思いかえして大切な用件の記されたものはほとんどなかった。

  中村伸郎さんからは、胸うたれるような書簡をいただく一方で
  『 グレースケリーが女優をやめるのを、
    しつこく反対したのはヒチコックだそうだ  』
  とだけ記した葉書も受け取っている。

  師戸坂康二は、封筒のあて名のわきに『閑信』と記し、
  『シラノ・ド・ベルジュラック』の『シラノの週報』の
  ような手紙をくださった。・・・・・         」
                   ( p134~135 )


はい。粘土をこねるようにして、『閑信』を書いている。






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