行く手の正面に軽飛行機の姿。
路傍には菜の花。
振り返る。
左手を流れる荒川に近づいていきます。
満開のサクラ。
「開平橋」。
橋の下は、すぐ荒川の流れ。
右側は集落になります。
荒川の流れ。久々に近づきます。
「手打うどん 川岸屋」の看板と向こうにお店。
1年前に廃業したようです。自販機も撤去されています。「川岸屋の娘」というTwitter(@FX2ESamjGdzKz6j)があります。その内容・写真を紹介させていただきます。
3月27日投稿の写真。「2021.03.27 桜はまだまだ満開ではありませんが、気持ちの良い日差しでしたね‼︎ 久しぶりに両親、登場です‼︎」
奇しくも同じ日に通りかかったわけです。ビックリ!
1年前の「読売新聞」。「50年続いたお店を閉店する」との記事。
2019年10月の台風19号で大きな被害を受けました。3㍍ほど浸水したようです。その時の写真。
奥が「川岸屋」。翌日のようす。
晴れた日には、富士山も見える、とか。
堤防護岸工事のため、お店もなくなってしまうようです。
「いよいよ本格的に堤防の図面が出来たようです。 堤防の平面図、断面図を見ながら想像してみる…んぅ〜、家全体が堤防の土に中に消えちゃうな…」
サイクリングを楽しむ人たちや川歩きの者にとっては、勿論、地元の方にとっても、食事を楽しめ、飲料水も補給できるお店でした。とても残念です。
Twitteには、これからも訪問させていただきます。
2021年3月27日10時27分撮影。
「荒川」。
「彩湖」のとき以来です。
下流を望む。「開平橋」。
ここには「平方河岸」がありました。「開平橋」の由来を含め、以下、「Wikipedia」より。
後の開平橋の付近には江戸時代から平方河岸があって、渡船場(平方の渡し)を兼ねていた。この渡し場は平方村にあって上尾宿と川越の城下町を結ぶ道にあたっていた。船2艘を有する官渡で、渡船料は徒歩が1人3厘、荷馬が1疋8厘であった。渡船は1883年の橋の開通後に廃止されたが、大水の際に臨時に渡船を運航していた。
明治時代になって地元の飯田甚左衛門らが出願して、はじめて橋が架けられた。1883年(明治18年)12月16日に完成した開平橋は、全長51間(92.7メートル)、幅9尺(2.73メートル)の舟橋で、杭につないだ10艘の舟の上に板を載せたものであった。橋の位置は今より少し川上にあった。建設の材料と費用は近くの神社(現在の橘神社)の木を伐採して得た。橋の一部である左岸側から2番目の船が旋回橋のように上流側に扇形に6間分開閉して、荒川を通る船が通航できるようになっていた。橋名の由来はこの様子による他、平方村の開拓への思いから付けられたと言われている。有料橋で通行料は5厘であった。埼玉県立川の博物館に初代の開平橋の模型があり、橋が開閉する様子が展示されている。
最初の開平橋が損傷したため、1890年(明治23年)7月に修繕願いが提出され、大修繕の末1891年(明治24年)6月に新たに舟4艘と橋脚10組(各2本)で支える橋に架けなおされた。長さ62間(約112.7メートル)、幅2間(約3.6メートル)であった。この橋はもはや船の通航を許さず、荒川舟運は手前の平方河岸までとなった。終着点になった平方河岸は、しだいに鉄道に輸送を奪われつつも、最後の繁栄を迎えた。
1910年(明治43年)の大水で再び壊れた開平橋は、1911年(明治44年)頃に架けなおされた。 このときに舟は廃され、橋脚がある板橋になった。また、この橋の開通によって渡船は完全に廃止された。長さ62間(約112.7メートル)、幅12尺(約3.6メートル)であった。橋は平方村が管理した。大水のときに水面下に沈む冠水橋(かんすいきょう)で、水位が上がると橋の板を取り外さなければならなかった。有料橋で通行料は1銭であった。この橋は1932年-1933年頃に破損したが、日中戦争の戦時下にあって架け替えが認められなかった。 なお、1935年(昭和10年)に通行料が廃止されたといわれている。
1952年(昭和27年)に新しい開平橋がやや下流側に架けられ、2月16日に開通式が行われた。着工は1951年10月で、架設には県費500万円が投じられた。これは長さ91メートル、幅4.5メートルの木橋であった。水位が上がると冠水する冠水橋であることは前と同じであったが、バスやトラックの通行が可能であった。1958年9月に流失した。
・・・以後、1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリートの橋脚に、1977年(昭和52年)4月1日に、今までの橋より川下の位置に総工費14億5655円をかけて現在の永久橋が架けられた。
・・・
この付近の今昔。(「歴史的農業環境システム」より)
1880年代のようす。 2010年代のようす。中央が「開平橋」。