「荒川」が広大な河川敷を有することを実感。
一方でいったん大型台風や集中豪雨に見舞われると流域一帯全てが水没する、というのも現実のこと。
長い年月を費やしての種々の流路変更、開削、護岸工事、復旧工事の労苦はむろんのこと、自然の驚異とその復元力にも目を見張ります。
「サイクリングロード」に沿って歩きます。
対岸には「ホンダエアポート」の駐機場。
正面は「泉福寺」。サクラが見事。
銀杏並木も見事。秋にはギンナンが頭上に降ってくるらしい。
駐車場から河川敷に。
遠くに「太郎右衛門橋」。
一本だけ巨木が。
今頃の日差しだと何とか大丈夫ですが、炎天下だと、歩くのは危険! まったく木陰がありません。
「泉福寺」境内とさっきの大木が頼み?
やっと橋に近づいてきます。
ホンダエアポートに向かう飛行機。
太郎右衛門橋
この場所には橋ができる前には私設の渡し場があり、その運営者の名前が後の木製の橋(板橋)の名前となった。この渡しについては人渡し馬渡しそれぞれ一艘で渡船二艘を有する中山道の桶川宿と川越を結ぶ川越道に属する交通路で、渡船料は1889年(明治22年)当時は徒歩は1人で三厘、荷馬は1疋で八厘であった。また渡船場には江戸時代の末から大正時代にかけて太郎右衛門河岸(川田谷河岸とも呼ばれた)が併設されていた。1764年(明和元年)に発生した中山道伝馬騒動(明和の伝馬騒動)の際には三保谷村にて結集した一揆勢が桶川宿へ向かう際にこの渡船場付近で荒川を渡った。 最初にこの場所に橋が架けられた年代は定かではないが明治末期には既に架けられていたもので、大水によって橋が度々流失する被害にあったと言われている。橋は木造板橋で、通行料を徴収する賃銭橋であった。なお、渡しはこの板橋が架けられた後も使用は継続され、1940年(昭和15年)頃に冠水橋が架けられた後に廃止された。
冠水橋時代。
(この項、「Wikipedia」より)
この橋も含め、かつて「荒川」には木製の冠水橋がたくさん架かっていました。現存する冠水橋は、少なくなりましたが。
来た道を振り返る。
橋の先は、「桶川総合運動場」になっています。右手の木陰で一休み。
行く手に「圏央道」の橋脚が見えてきます。
その手前、右手が「原山古墳群」。
「まむしに注意」の看板。
「原山古墳群」解説板。かすれて見えず。
「原山古墳群」は「川田谷古墳群」の一つ。
川田谷地区の荒川東部、川沿いには多数の古墳が確認されてきた。江戸時代から確認されているものもあったが、明治維新以降の開発により破壊されたものも多い。調査によって6世紀前半から7世紀後半頃に造られたものが多いことが判明した。この古墳群はさらに4つの支群に分かれ、それぞれ西台支群、原山支群、柏原支群、樋詰支群という。
・西台支群に残る古墳は1基のみ。
・柏原支群は埴輪等の出土品があるものの古墳そのものはほぼ全てが削平を受けている。
・樋詰支群の古墳もほとんど全滅に近い状態であるが、埼玉県指定史跡として「熊野神社古墳」が残っている。熊野神社古墳出土品は重要文化財に指定されている。
・原山支群のうち、特に9基の古墳は「原山古墳群」と呼ばれていて、桶川市指定の文化財となっている。原山支群は9基以外にも広がるが、消滅してしまったものもある。(この項、「Wikipedia」参照)
サイクリングロード案内図。「圏央道」が出来る前の図。
「圏央道」。
振り返って望む。
先に進みます。
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