おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR鴻巣駅~熊谷駅。その5。元荒川。「決壊の跡」碑。一里塚。新川村。緊急事態宣言。(「荒川」を遡る。第4日目。)

2021-04-23 19:58:35 | 荒川を遡る

                 「元荒川」が眼下に。

熊谷市市街地を遠望。

「中山道」歩きの時に見たおうちが健在。

河川敷は農地。

熊谷駅方向を望む。

中山道歩きに通過した「ライオンズマンション」がようやく目の前に。 

この手前に「決壊の跡」碑。

                

            日ごとの洪水地域の拡大図。

昭和22年(1947)9月のカスリーン台風による洪水のため、河口から71km付近久下地先のこの碑がある場所で濁流が堤防を越え決壊しました。
流れ出た洪水は埼玉県北部の村を次々と襲い、おりしも利根川の決壊による濁流と合流してはるか東京まで達し、付近一帯に甚大な被害を与えました。
下の画像は洪水から約一ヶ月後の昭和22年10月に米軍が空撮したものですが、破堤している様子がわかります。

(この項、「」HPより)

「洪水の 怖さ伝える 決壊碑」。

1947(昭和22)年9月、カスリーン(キャサリン)台風による大洪水の発端となったのは、埼玉県東村(現在の埼玉県大利根町付近)での利根川堤防の破堤。この地点は、利根川の水は全て集中する上、下流の栗橋付近には鉄橋があり、そこに漂流物が引っかかって流れを悪くしていたほか、渡良瀬川との合流点もあるため、増水時には水の流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていた。
 こうした要因によって、9月15日午後9時ごろには堤防の上から水が溢れはじめ、16日午前0時過ぎに大音響とともに、東村の利根川右岸提が340㍍にわたって決壊。濁流は南に向かい、午前3時には栗橋町、午前8時には鷲宮町、午前10時には幸手町(現在の幸手市)、午後1時には久喜町(現在の久喜市)に到達する。
 一方、荒川では15日夜に熊谷市付近で堤防が決壊しており、洪水は16日の午前中には、笠原村(現在の鴻巣市)に到達し、元荒川沿いに流下していく。
 利根川の濁流は庄内古川、古利根川周辺を中心にいくつも決壊を引き起こしながら、17日未明には春日部町(現在の春日部市)、同日夜には元荒川からの水をあわせて吉川町(現在の吉川市)に達し、現在の中川付近と江戸川に挟まれた地域を流下しながら、18日の夕方には埼玉県と東京都の境界付近である大場川の「櫻堤」(現在の水元公園付近)まで達した。19日未明ついに「櫻堤」が崩壊。その日のうちに金町、柴又、小岩付近は水没した。・・・
 同じころ、八条村(現在の八潮市)で中川の右岸が決壊、綾瀬川の東側も水没する。そして20日午前3時に亀有付近でも堤防が決壊し、夕方には四ツ木付近まで浸水する。金町方面に流れた水は、20日夕方には船堀付近に到達し、そこから荒川や旧江戸川を経て東京湾へと注ぎはじめた。
 なお、この2年後に大型で強い台風、キティ台風が上陸。高潮のために、今度は下町の江東区や墨田区などを襲って、浸水などの大きな被害を受けた。わずか2年足らずの大型台風の被害だったので、この台風と混同している人もいる。
 最近の研究では、超大型の台風(大きな集中豪雨)が襲った場合には、この時とほぼ同じように利根川の堤防が決壊する可能性が指摘され、その場合の想像以上の大きな被害予測が報告されている。

(この項、「Wikipedia」参照)

 ちなみに我が家付近では、濁流は、3㍍の高さに達すると予測されています。

2019年(令和元年)10月の台風19号によって、荒川流域は録的な大雨となり、甚大な被害をもたらしました。治水との戦いはまだまだ続きます。

下流方向を望む。

堤防下の住宅地。

「旧中山道」沿いにあたる「ライオンズマンション」2棟。

 

馬頭観音(↓)                   中山道一里塚跡(↓)

「中山道」歩きの時の記録を再掲。

・・・

草むらには、ぽつんと「馬頭観音」。たしかに旧街道筋だという実感が。



(12:15)そのまま草地を下って行くと、小さな祠が「一里塚」跡。日本橋から15里目のもの。

    

一里塚跡(久下新田)
 江戸の日本橋を起点とする中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久保長安らに命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方4間(9米四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり、憩いの場所にもなった。
 柳樽には
 くたびれた奴が見つける一里塚
という句もある。

 昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 

・・・

「旧中山道」はこの先で、堤防から離れて行きます。

輪型の碑」(↓)。

分かれ道のところにある輪型の碑(久下堤の碑)」。
 明治45年(1912)に建立。この付近の堤防は、もともと旧荒川(元荒川)を締め切る堤防として築かれたもの。江戸時代初頭から存在する堤防(近年になって大改修されてはいるが)。碑文には約4Kmにわたり、久下堤を修復したと記されている。
 「後の世までも 修堤記録 輪型の碑」。

「輪型」とは敷き石にある車輪用の溝のこと。もともとこの坂道に設置されていたのでしょうか? 頻繁に行き来する大八車などの轍が深く残っていた、ということでしょうか?

さて、左手の河川敷にはかつて集落がありました

「熊谷市役所久下出張所」にある絵入り解説板。

荒川の河川敷にあり、荒川の近代改修によって分断され、その後廃村になった旧・新川村(しんかわむら)の当時のようすが記されています。


         
        左手に広がる河川敷あたりか? 畑は耕され、遠くには屋敷林なども。



 1880年代の「新川村」のようす。河岸には集落や船着場もあります。右上をかすめているのが、「中山道」(久下の長土手)。荒川に沿ってもう少し東北方向に家並みが広がっていました。現在残っている「三島神社」そのはずれにあたります。



2010年代のようす。すっかり河川敷内に。屋敷林など集落があった当時の面影も残されているようです。

 新川村は人口は約550人、家数94戸、舟の数49艘(明治20年)でした。「新川」とは江戸時代初頭におこなわれた荒川の瀬替え(流路を西へ変更)によって、新たに開削された荒川を指しています。
 当時の村では、男は養蚕、農業のあいまに舟や筏に乗って新川と江戸(東京)を往復。女は蚕仕事がない時は、糸を紡ぎ機を織った。村内には鵜づかい漁ををする者もいました。
 「新川」河岸は荒川の河岸場としては最上流に位置していますが、明治時代の初期でも、かなりの規模があったようです。
 江戸時代には新川河岸は、忍藩の御用河岸として、年貢米の積み出しも行われていました。また、新川河岸には、筏に組まれて荒川を下って来た木材を、一時的に保管する係留場もあり、筏の組み替え作業なども行なわれたうた、といいます。絵図を見ると、賑わいを見せていたことがわかります。

 荒川の右岸、左岸の河川敷には、旧・新川村(しんかわ)の墓地が残ていて、今もご先祖の供養に訪れる人が多いという。また、河川敷には墓地以外にも、新川村上分(かみぶん)の屋敷森と土砂に半分埋まった三島神社の鳥居が残っているそうです。

 

今日、「緊急事態宣言」の発出が決定。対象は東京都と大阪府、京都府、兵庫県。期間は4月25日から5月11日まで。飲食店の営業時間の短縮を求めるだけでなく、酒類を提供する飲食店、カラオケ、大型施設を含め、映画館、劇場などにも休業を要請する(東京都)。Jリーグやプロ野球などのイベントも原則無観客に。

今年に入って2回目(通算3回目)。しかし、5月11日まで、という期限付き。IOCバッハ会長が17日頃、来日する、とか。それまでに何とか解除し、オリンピックに向けて、という魂胆がミエミエ。さすがに専門会委員からは無条件の解除はありえない、と。

実際、たった2週間で事態はよくなるのか?

 何が何でもオリンピックを! しかし、「笛吹けど踊らず」。いよいよ強権発動。夜8時以降は街灯以外は店の灯りを消すように、とも。飲食店だけで済むのか。街中、灯火管制をするつもり。

「欲しがりません、勝つまでは」、「撃ちてしやまん」、「贅沢は敵だ」・・・。暗い世相になりそうです。

司馬遼太郎さんが『この国のかたち』で憂えた日本。

コロナ禍を奇貨として、次々と繰り出される施策。特に、憲法に「緊急事態」条項を入れよう、と。ナチスばりの政策に喜々としてとしてはしゃぐ自公政権。

これから、いったいどうなるのでしょうか? 国民一人ひとりが深刻に考え、行動しなければならないときになっているようです。

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