おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「指扇」駅~「鴻巣」駅。その7。麦畑。荒川ビオトープ。城ヶ谷堤(桜土手)。荒井橋。(「荒川」を遡る。第3日目。)

2021-04-14 20:51:22 | 荒川を遡る

                         耕作を待つ畑。      

麦畑が一面に。

 

遊歩道。

しばらく進むと、右手が小高い丘になってきます。満開のサクラの古木も。

左手は「荒川ビオトープ」事業地区。

荒川ビオトープ

荒川ビオトープ

荒川の中流部、川を挟んで北本市と川島町の河川敷につくられています。
野生動植物の生息空間を守り、創出するものとしては国内最大規模を誇ります。北本市側に隣接する「北本自然観察公園」とあわせて60ha以上の土地が確保されています。「荒川ビオトープ」は、かつて平坦な麦畑が広がっていた河川敷に、荒川が本来持っていた豊かな生態系を取り戻そうという試み。生態系の頂点に立つサシバの繁殖をみることを成功の目安にしています。もともとあった水路やその岸辺の林など、よい自然環境はそのまま残して守ります。

整備前の荒川左岸の様子かつての様子(麦畑)。その後。

                   注:写真は、右岸(対岸)のもの。

(この項、「」HPより)

「天神下公園」。

その先、駐車場には車がいっぱい、移動販売車もいくつか。賑やかな雰囲気に。「城ヶ谷堤(桜土手)」に。

城ヶ谷堤(じょうがやつつみ)の桜並木は、北本市の天然記念物「エドヒガンザクラ」で知られている北本自然観察公園の西側の荒川沿いにある古くから親しまれている桜の名所です。土手沿いに約60本ものソメイヨシノが植えられていて、桜のシーズンには満開の桜がトンネルとなってとても綺麗な空間を演出してくれています。

このトンネルは、河川敷の道路に沿って作り出されるため、車でも通ることが出来ますが、それよりもぜひ歩いて通って見られることをお勧めします。また、春には菜の花が黄色い花を咲かせ、桜のピンクとのコントラストがとても綺麗でとても心地いい場所です。例年シーズンには多くの花見客が訪れます。屋台も出ていますし、近隣にも花見スポットが多いため、桜巡りをする人たちでにぎわいます。

もよりの駅からは、JR高崎線の北本駅から、川越観光自動車のバスで「北里研究所メディカル病院」行き、または「石戸蒲ザクラ入口」行きのバスに乗り、自然観察公園前バス停下車し、北本自然観察公園園内を通り、徒歩で約15分のところにあります。
駐車場は、土手を降りたところに無料駐車場がありますが、桜のシーズンには大変混雑しますので公共機関のご利用をお勧めします。

(この項、「」HPより)

けっこうな人出。

サクラの下にレジャーシートを敷き、飲食を楽しむ。

「石戸城跡」がこの堤の東側にあります。

「横田薬師堂」脇から再び河川敷へ。

          

右手にはサクラが点在。一本ごとに番号が。

         「河川区域」の標識。

続いて「荒井橋」にさしかかります。

    

荒井橋が開通する以前は「荒井の渡し」と呼ばれる荒井村と江和井村を結ぶ村道に属する渡船であった。また、渡船場には河岸場である「荒井河岸」が併設され、河岸場はいつから開設されていたか定かではないが、1685年貞享2年)の史料に年貢米を江戸に送った記録が残されていたことからその頃までには存在したとされる。この渡しは「世戸井渡」とも呼ばれ渡船二艘を有する私設の渡船であった。渡船料は1878年明治11年)1月当時は徒歩は1人で二、荷馬は1で六厘であった。また渡船場には荒井河岸が併設されている他、石戸河岸、高尾河岸もあり水運の一役を担っていた[9]。1933年に荒井橋が架設されたことにより渡船は廃止された

1933年昭和8年)3月15日に石戸村東吉見村の間を流れる荒川に初代の荒井橋が木製の冠水橋(かんすいきょう)として架橋された「冠水橋」時代。

・・・橋長90メートル、幅員4メートルで工費は9000円だった。道幅が狭いことから交互通行であった。また、河川改修により直線化される前の旧川に架けられていた。開通当時は村道だったが1939年(昭和14年)4月に県道に編入されている。 橋は荒井地区の人が管理していて、橋が洪水で流失した際は荒川地区が橋の部材を調達し、橋を復旧する作業をしていた。 また、地区の話し合いより船頭を抜擢し、橋が流失するなどして通行不能となった際に臨時で渡船を出していた。 この橋は1938年(昭和13年)9月1日の大洪水で橋が流失したが、その際の架け替えの際の費用として当時の石戸村長が私財を投じたという。その時の状況は1940年に建てられた「荒井橋記念碑」の碑文に記されている。この後も洪水によって橋が度々流失、もしくは一部損壊するなどして長期にわたって通行不能となった。度重なる洪水を鎮めるために人柱を捧げた伝承も残されている。・・・

(この項、「Wikipedia」参照)

「荒井橋」際にある「土地改良記念碑」。右手には、昭和15年(1940)に建てられた「荒井橋記念碑」がある。

「荒井橋」付近の今昔。

1880年代のようす。現在の西側河川敷内を蛇行して流れていた。渡船場がある。

2010年代のようす。荒川が直線化、現在、長い直線の橋になっている。一方で、今も田畑が広がる。

こうして歩いてみると、「荒川」は、その名の如く「荒」川であったことが分かります。

一方で、船運による繁栄。橋を架けることで両岸の人々の行き来、物資や人的交流・・・。

その一端を垣間見ることができます。

改めて「橋」の持つ、大きな役割、意義、重要性を感じます。

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