「久下(くげ)橋」が見えてきます。
かつての新川村跡?
久下の集落方向。旧中山道はこの地域を進みます。
「海まで73.0㎞」ポスト。
「久下橋」。
橋を越えて上流へ。
左手、荒川の流れが間近に。
「久下橋」方向。
上流方向。
右手の土手下に解説板が。
ここに「思いやり橋」と呼ばれた久下冠水橋がありました。
春は菜の花、秋にはススキを見ながら、人も自転車も車ものどかに渡りました。
車一台やっと通れる橋、車は対岸を確かめ、あうんの呼吸で渡りました
幅2.7㍍長さ282.4㍍3㌧。中央部99.4㍍の区間は幅4.5㍍の待避所あり。4種類不揃いな44本の橋脚。ムカデに似た貴重な冠水橋でした。
昭和30年県道・冑山熊谷線として大里と久下を結んで架設され、48年間、地元の志画かつ道路として利用されました。平成15年6月の新久下橋完成とともにその役目を終えました。
《周辺の歴史》
この地は鎌倉時代には熊谷直実の叔父の久下氏の良一で、やや下流には館もあったおいわれる。
江戸の頃、幕府の施策でこの一帯は荒川の付け替え大工事が行われ現在の荒川になった。
以後、明治の鉄道開設まで江戸との舟運の起点、久下新川河岸として「栄え、帆を張った草船や中山道の旅人で賑わった。
舟運が廃れたあと、渡しが対岸との交通手段となっていたが、昭和30年頃県道の一部として久下冠水橋が架けられた。
もう少し詳しく「Wikipedia」を参照して。
開通は1955年(昭和30年)7月19日。開通当時は市町村道の橋梁だったが、地元住民の埼玉県への陳情により1966年(昭和41年)4月に県道(埼玉県道257号冑山熊谷線)に昇格されている。
橋脚が鋼製(一部コンクリート製)、橋桁が木製の冠水橋であった。欄干は初めは付けられていなかったが住民の要望に応じ、1968年(昭和43年)6月頃に鉄パイプを立ててワイヤーを張った簡素な欄干が設置された。この欄干は洪水の際に着脱が可能なものである。元々は中洲を挟み熊谷側と大里側にそれぞれ橋が架けられていたが、洪水などで中洲が消失した他、橋の破損の補修を繰り返しているうちに1本の橋に繋がったものである。橋の中央部の幅員がやや広くなっているのはその名残である。
1970年代から永久橋に架け替える計画が存在しており、1977年(昭和52年)10月11日に久下・佐谷田地区内関係者を対象に地元公民館で説明会が行われたが、生活に密着した身近な橋であったことや騒音問題を危惧したことなどから、地元住民によって「久下橋かけかえ反対期成同盟会」が結成され、住民と行政にて長期に亘る協議・交渉が行われた。
珍しい構造の橋であることから文化的意味合いもあって、地元では撤去を惜しむ声が強く「久下橋を残す会」が結成され署名運動が行われ約四千名の署名が集まったことで保存も検討されたが、老朽化が著しく、河川の管理上や財政上の問題もあり、各種方面との協議の結果、最終的に撤去する結論に至った。
埼玉県道最後の冠水橋であった旧橋は、現行橋の開通に伴い、2003年(平成15年)6月15日午後5時をもって通行止となり50年近い歴史に幕を閉じ、同年度中に撤去された。
2004年(平成16年)9月4日に左岸側の旧橋跡付近に記念碑・説明板と旧橋主桁部の廃材で作製されたベンチが有志による募金にて設置された。
冠水時のようす。
(HPより)
この付近に「旧久下橋(冠水橋)」があったか?
この付近の今昔。
1880年代のようす。
現在の久下橋よりも上流の地点。「旧久下橋」が出来る前の対岸への渡し場があります。中山道沿いに集落を形成しています。
2010年代のようす。 右下に現在の「久下橋」。旧中山道の道筋が残っています。
この解説板がある付近は、旧中山道沿いになっているようです。土手下には「権八地蔵」や「道標」があります。
元禄11年(1698)に造立された地蔵。江戸時代に平井権八が罪を犯し、お地蔵様に向かって「誰にも言うな」と明かしたところ、「我は言わぬが、汝こそ言うな。」と答えたという逸話で知られています。
その前の久下権八公園には、「熊谷堤碑」。篆額は伊藤博文、とのことです。
(元は明治12年建立)
「中山道」の道標。 「右 熊谷道 左 松山道」。
「中山道」はこの先、すぐに土手を下って「みかりや」(中山道を往来する旅人相手の茶店で、「しがらきごぼうに久下ゆべし」のことばがある通り、「柚餅子」が名物だったのだろう。また、忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので、「御狩屋」と呼ばれたという)跡を過ぎ、「熊谷宿」の方へ進んで行きます。
「旧中山道」道とはここまで。
荒川の堤を先に進みます。
(「今昔マップ」より)
→が「中山道」。荒川の堤は現在の熊谷駅付近まで。河川敷は桑畑。右図で「河原町」という地名がある。