パラグライダーの姿が。
対岸、中央に見える水門は、「和田吉野川」の「玉作水門」。
右手の林の中に長い「ローラー滑り台」。
「荒川パノラマ公園」。
トイレもあるし、自販機もあるので、ちょっと立ち寄ろうと思いましたが、こちら側からは入れないようです。
横目で眺めるだけ。残念!
遠くに「荒川水管橋」を望む。
晴れた日には富士山も見えるそうです。(「Googleマップ」より)
「荒川コスモス街道」。
先に進みます。
「海まで70k」ポスト。
右手遠く、「旧中山道」のときのマンションが見えてきます。
まもなく鴻巣・吹上を通ってきた「旧中山道」が右手から近づいてきます。
土手下に「権八地蔵」(↓)。右手奥から来る道が「旧中山道」。
・・・
鴻巣市指定民俗資料 権八地蔵とその物語
権八は、姓を平井といい鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸に逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し、大金を奪い取った。あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。
良心が咎め己の罪の深さに、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が冒した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾は言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。
この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はそのご捕らえられ、延宝8年(1680)に鈴ヶ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔の刑に処せられた。
平成24年2月 鴻巣市教育委員会
「Wikipedia」によって、少し補足します。
権八は新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となりますが、やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ってしまいます。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあった普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れますが、すでに父母が死去していたことから、自首。1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死しました。享年25。
小紫は権八の刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害。同寺に「(権八と小紫との)比翼塚」がつくられましたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺に現存しています。
歌舞伎の世界では、「白井権八」として登場。幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られますが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがあるようです。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存じ鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名です。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソード。
「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等があります。
吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」があります。(注:この地蔵が久下の「物言い地蔵」のこと)
(「Wikipedia」より)
「中山道」はこの地蔵堂の先で荒川土手にさしかかり、「久下の長土手」を経て、熊谷宿に至ります。その間は景色の良さと共に追い剥ぎの名所だったとも伝えられます。上の解説板にあるような、平井権八の強盗殺人事件もこの土手で起きた、ということです。
今は、のどかな土手道になっていますが。
中山道は下の道になります。
現在の土手は改修され、かさ上げされています。おそらく旧中山道はかつての土手の高さ。