5月20日(金)。
このところ、「日光道中」にご執心。何しろ関東平野をまっしぐらということで、ほとんどここまで高低差がなく、平らな道をひたすら。ならば、かせげるだけかせいでおこう、という次第。
今日もそんな気分で、9時45分過ぎから2時10分頃まで。約12㎞の道のり。ところで、春日部市は「彫刻のある街づくり」を提唱していて、駅東口から旧道へ出るまで沿道には素敵な彫刻があちこちに。
上の作品は、「春 大地からこんこんと湧きあがる水」という作品。
他にも など。
街のポイント、ポイントに展示されています。機会があったらじっくりと。(以上、写真は「かすかべ遊学」HPより)
(9:55)旧道に戻って再開。
埼玉県信用金庫春日部支店前の解説板。
日光道中粕壁宿
日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし正徳6年(1716)に五街道に名称についての御触れが出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。
粕壁宿は、江戸時代元和2年(1616年)に日光道中千住宿から数えて第4の宿場に定められたとされています。寛永13年(1636)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録よると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。
注:「三枚橋」は、「春日部市民会館」付近にあった橋のようです。
1880年代のようす。
現在のようす。(いずれも「歴史的農業環境閲覧システム」より)東武線「春日部」駅は下方。
シャッターに粕壁宿の絵。
その先に「問屋場跡」の解説板。
日光道中粕壁宿 問屋場跡
問屋場は、公用の旅人や荷物を運ぶ人馬を手配した施設である。粕壁宿では、輸送に必要な人足35人、馬35疋の常備が課せられていた。この辺りは上宿(上町)と呼ばれ、人夫が集まることから、飲食店も多く、月に6度の市が立った。なお、問屋場は文政9年(1826)に三枚橋に移転した。向かいの神明通りは、名主や本陣を勤めた見川家の屋敷内の通路であった。通り沿いの神明社には、道化の屋敷神といわれる見川稲荷が残っている。
平成27年7月 春日部市教育委員会
その先右手には、「永嶋庄兵衛商店」。創業は「慶長年間」とか。「慶長」は、天下分け目の関ヶ原の合戦、豊臣の滅亡、徳川幕府の成立など日本史の上では激動の時代。お米などを扱うお店のようで、けっこう人の出入りがありました。。
「無洗米専門店 伝統のお米屋「十九代目庄兵衛」 - Rakuten.ne.jp」(www.rakuten.ne.jp/gold/naga-shou)
残念ながらこの浮世絵は実は東海道の大津宿のものです。
東海道五十三次 大津 走井茶屋 絵師 安藤広重
蔵造りの建物。裏手に長く家屋が続きます。
中央奥に「最勝院」。
その手前の交差点を右に折れ、「新町橋」を渡ります。
その交差点のところに黒光りした蔵造りのおうち。
高札場跡 浜島家住宅土蔵
この十字路は、明治22年(1889)の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だった。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用された。
「新町橋 上喜蔵河岸跡」。
新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。長さ16間(約29㍍)、横幅3間((約5㍍)の板橋で、高欄が付いていた。架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように板橋が架けられた。新町橋の上流には上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり、石垣の一部が現存している。江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い6月中旬~8月中旬(旧暦)には、小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬した。
「新町橋」と「大落古利根川」の流れ。
このところ、「日光道中」にご執心。何しろ関東平野をまっしぐらということで、ほとんどここまで高低差がなく、平らな道をひたすら。ならば、かせげるだけかせいでおこう、という次第。
今日もそんな気分で、9時45分過ぎから2時10分頃まで。約12㎞の道のり。ところで、春日部市は「彫刻のある街づくり」を提唱していて、駅東口から旧道へ出るまで沿道には素敵な彫刻があちこちに。
上の作品は、「春 大地からこんこんと湧きあがる水」という作品。
他にも など。
街のポイント、ポイントに展示されています。機会があったらじっくりと。(以上、写真は「かすかべ遊学」HPより)
(9:55)旧道に戻って再開。
埼玉県信用金庫春日部支店前の解説板。
日光道中粕壁宿
日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし正徳6年(1716)に五街道に名称についての御触れが出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。
粕壁宿は、江戸時代元和2年(1616年)に日光道中千住宿から数えて第4の宿場に定められたとされています。寛永13年(1636)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録よると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。
注:「三枚橋」は、「春日部市民会館」付近にあった橋のようです。
1880年代のようす。
現在のようす。(いずれも「歴史的農業環境閲覧システム」より)東武線「春日部」駅は下方。
シャッターに粕壁宿の絵。
その先に「問屋場跡」の解説板。
日光道中粕壁宿 問屋場跡
問屋場は、公用の旅人や荷物を運ぶ人馬を手配した施設である。粕壁宿では、輸送に必要な人足35人、馬35疋の常備が課せられていた。この辺りは上宿(上町)と呼ばれ、人夫が集まることから、飲食店も多く、月に6度の市が立った。なお、問屋場は文政9年(1826)に三枚橋に移転した。向かいの神明通りは、名主や本陣を勤めた見川家の屋敷内の通路であった。通り沿いの神明社には、道化の屋敷神といわれる見川稲荷が残っている。
平成27年7月 春日部市教育委員会
その先右手には、「永嶋庄兵衛商店」。創業は「慶長年間」とか。「慶長」は、天下分け目の関ヶ原の合戦、豊臣の滅亡、徳川幕府の成立など日本史の上では激動の時代。お米などを扱うお店のようで、けっこう人の出入りがありました。。
「無洗米専門店 伝統のお米屋「十九代目庄兵衛」 - Rakuten.ne.jp」(www.rakuten.ne.jp/gold/naga-shou)
残念ながらこの浮世絵は実は東海道の大津宿のものです。
東海道五十三次 大津 走井茶屋 絵師 安藤広重
蔵造りの建物。裏手に長く家屋が続きます。
中央奥に「最勝院」。
その手前の交差点を右に折れ、「新町橋」を渡ります。
その交差点のところに黒光りした蔵造りのおうち。
高札場跡 浜島家住宅土蔵
この十字路は、明治22年(1889)の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だった。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用された。
「新町橋 上喜蔵河岸跡」。
新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。長さ16間(約29㍍)、横幅3間((約5㍍)の板橋で、高欄が付いていた。架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように板橋が架けられた。新町橋の上流には上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり、石垣の一部が現存している。江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い6月中旬~8月中旬(旧暦)には、小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬した。
「新町橋」と「大落古利根川」の流れ。
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