百年の誤読 岡野 宏文 著 , 豊崎 由美 著 ”展開がスピーディ、『竜馬がゆく』”
豊崎:そうそう、小学生が読んでも楽しい小説ですからね。ただ、読まれ方っていうのは、『徳川家康』と同じ現代投影型だと思うんです。藩の意識を超え、さらには国の意識をも超えて雄飛する壮大な構想を抱いた竜馬に、我が身を重ねる高度成長期の日本のサラリーマンみたいな。
岡野:学生運動している連中なんかも読んだんだろうね。竜馬の自由奔放さに憧れてさ。だって、黒船を一人で、<生けどり>に行こうとするんだぜ。
豊崎:奔放すぎ(笑)。
岡野:そういう竜馬の生きかたなり、行動なり、その根底にある美学や思想みたいなものは、少なくとも第一巻ではあまり明らかにしてないんだよね。じゃあ、どうして竜馬はそういう行為を選んだのかというと、「だって竜馬なんだもの」、そんな書き方になってる。そこが今のベストセラーと一脈通じるところだと思ったんだけど。
豊崎:たしかに、竜馬は生まれつき魂の中に備わった”天の意志”みたいなものに突き動かされて疾走してるってイメージを、司馬さんは最初から提示してますからね。
岡野:なんせ、背中にたてがみが生えてる男だから(笑)。
昭和43年(1968年)のベストセラーは、司馬遼太郎「竜馬がゆく」である。
問題は、この小説の内容というよりも、その読まれ方である。
加藤周一氏のような論者は、これが「モーレツ社員」のエートスとして機能したことを指摘している(愛情なき辛口)。
(断っておくと、私は司馬氏の小説は決して嫌いではないし、この種の系譜に属しない司馬氏の小説もある。)
岡野・豊崎コンビが指摘する通り、多くの司馬作品には確かにそういった側面があり、司馬先生には気の毒だが、「読むテストステロン」として誤読(誤用)されてしまったという気がする。
ちなみに、昭和50年(1975年)のベストセラーも司馬氏の「播磨灘物語」(私は未読)であり、かなり長期にわたって誤読(誤用)が続いてきたのではないかと思われる。
豊崎:そうそう、小学生が読んでも楽しい小説ですからね。ただ、読まれ方っていうのは、『徳川家康』と同じ現代投影型だと思うんです。藩の意識を超え、さらには国の意識をも超えて雄飛する壮大な構想を抱いた竜馬に、我が身を重ねる高度成長期の日本のサラリーマンみたいな。
岡野:学生運動している連中なんかも読んだんだろうね。竜馬の自由奔放さに憧れてさ。だって、黒船を一人で、<生けどり>に行こうとするんだぜ。
豊崎:奔放すぎ(笑)。
岡野:そういう竜馬の生きかたなり、行動なり、その根底にある美学や思想みたいなものは、少なくとも第一巻ではあまり明らかにしてないんだよね。じゃあ、どうして竜馬はそういう行為を選んだのかというと、「だって竜馬なんだもの」、そんな書き方になってる。そこが今のベストセラーと一脈通じるところだと思ったんだけど。
豊崎:たしかに、竜馬は生まれつき魂の中に備わった”天の意志”みたいなものに突き動かされて疾走してるってイメージを、司馬さんは最初から提示してますからね。
岡野:なんせ、背中にたてがみが生えてる男だから(笑)。
昭和43年(1968年)のベストセラーは、司馬遼太郎「竜馬がゆく」である。
問題は、この小説の内容というよりも、その読まれ方である。
加藤周一氏のような論者は、これが「モーレツ社員」のエートスとして機能したことを指摘している(愛情なき辛口)。
(断っておくと、私は司馬氏の小説は決して嫌いではないし、この種の系譜に属しない司馬氏の小説もある。)
岡野・豊崎コンビが指摘する通り、多くの司馬作品には確かにそういった側面があり、司馬先生には気の毒だが、「読むテストステロン」として誤読(誤用)されてしまったという気がする。
ちなみに、昭和50年(1975年)のベストセラーも司馬氏の「播磨灘物語」(私は未読)であり、かなり長期にわたって誤読(誤用)が続いてきたのではないかと思われる。