(引き続きネタバレご注意)
「母を失った双子のきょうだい(みかげと雄一)」がどうやって生きていくのかを描くのは、23歳のばなな氏にとっては荷が重い仕事だったようだ。
えり子さんが死んでからのストーリー展開は、明らかにだれてしまっている。
ちょっともったいないところだが、みかげと雄一が「結ばれない」というポイントだけはきちんと押さえてある。
「二人の気持ちは死に囲まれた闇の中で、ゆるやかなカーブをぴったり寄り添ってまわっているところだった。しかし、ここを越した別々の道に別れ始めてしまう。今、ここを過ぎてしまえば、二人は今度こそ永遠のフレンドになる。」(p123)
この二人、いわば「きょうだい神」は、イザナギとイザナミというよりは、ジークムントとジークリンデに近い(『ワルキューレ』あらすじと解説(ワーグナー))。
もっとも、この二人が「国を生む」ことはないし、ジークフリートのような英雄の親になることもない。
そんなことをすれば、「部族形成神話」、つまり「大いなる父の物語」になってしまう。
この小説は、あくまで「部族解体」の物語でなければならないのである。
だが、人間は、もちろん「優しさ」だけで生きていくことは出来ない。
「「うまいものたくさん食べた?」
「うん、さしみでしょ、えびでしょ、いのししの肉でしょ、今日はフランス料理。少し太っちゃった。あ、そういえば私、わさび漬とうなぎパイとお茶のぎっしり入った箱を宅急便で私の部屋へ送ったのよね。取りに行ってくれてもいいわよ。」
「どうして、えびやさしみじゃないんだよ。」
と雄一が言い、
「送りようがないからよ。」
と私は笑って言った。
「よし、明日駅まで迎えに行ってやるから、買って手で持ってきな。何時に着くって?」
雄一は明るく言った。」(p141~142)
英雄は一人もおらず、世界が創造されることもないこの小説の世界には、「血と土」の代わりに、「食べ物とキッチン」があった。
このエンディングは、(ここに至る過程は違うけれども)筒井康隆先生の「聖痕」を彷彿とさせる。
人間は、最低限、食い物があれば生きていけるのだ。
「母を失った双子のきょうだい(みかげと雄一)」がどうやって生きていくのかを描くのは、23歳のばなな氏にとっては荷が重い仕事だったようだ。
えり子さんが死んでからのストーリー展開は、明らかにだれてしまっている。
ちょっともったいないところだが、みかげと雄一が「結ばれない」というポイントだけはきちんと押さえてある。
「二人の気持ちは死に囲まれた闇の中で、ゆるやかなカーブをぴったり寄り添ってまわっているところだった。しかし、ここを越した別々の道に別れ始めてしまう。今、ここを過ぎてしまえば、二人は今度こそ永遠のフレンドになる。」(p123)
この二人、いわば「きょうだい神」は、イザナギとイザナミというよりは、ジークムントとジークリンデに近い(『ワルキューレ』あらすじと解説(ワーグナー))。
もっとも、この二人が「国を生む」ことはないし、ジークフリートのような英雄の親になることもない。
そんなことをすれば、「部族形成神話」、つまり「大いなる父の物語」になってしまう。
この小説は、あくまで「部族解体」の物語でなければならないのである。
だが、人間は、もちろん「優しさ」だけで生きていくことは出来ない。
「「うまいものたくさん食べた?」
「うん、さしみでしょ、えびでしょ、いのししの肉でしょ、今日はフランス料理。少し太っちゃった。あ、そういえば私、わさび漬とうなぎパイとお茶のぎっしり入った箱を宅急便で私の部屋へ送ったのよね。取りに行ってくれてもいいわよ。」
「どうして、えびやさしみじゃないんだよ。」
と雄一が言い、
「送りようがないからよ。」
と私は笑って言った。
「よし、明日駅まで迎えに行ってやるから、買って手で持ってきな。何時に着くって?」
雄一は明るく言った。」(p141~142)
英雄は一人もおらず、世界が創造されることもないこの小説の世界には、「血と土」の代わりに、「食べ物とキッチン」があった。
このエンディングは、(ここに至る過程は違うけれども)筒井康隆先生の「聖痕」を彷彿とさせる。
人間は、最低限、食い物があれば生きていけるのだ。