Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

台所からキッチンへ(15)

2022年03月08日 06時30分03秒 | Weblog
 70年代から80年代の動きについても、架空の高校をモデルにして考えると分かりやすいと思う。

 「昭和42年(1972年)、例の乱闘事件以来交流が途絶えていたお隣の「チャイナ学園」との交流が復活した。
 チャイナ学園は、生徒たちが多数の「カイシャ」と呼ばれるグループに分かれていた日本高校とは違い、全生徒を「党」という一つの組織が束ねていて(また、みんなが「偉大な父」を称えていて)、生徒数も日本高校の10倍近くいた。
 チャイナ学園にも「富国」科と「強兵」科があったが、この頃は「強兵」科はあまり目立たない一方で、「富国」科には勢いがあり、次第に全世界に勢力を広げていった。
 日本高校も世界に経済活動を展開していたが、「ノーキョー」のような振る舞いがあちこちで顰蹙を買ったため(現実と向かい合うための避難所としての読書‐青春の一冊 筒井康隆「農協月へ行く」‐)、昭和60年(1985年)理事長サイドから、「これからは学内での活動を中心にして、余り外部の人たちに迷惑をかけないようにしなさい」という指導(プラザ合意)がなされ、日本高校は、当面はインターハイなどへの出場を控え、学内の活動に専念することになった。
 対外活動の制限により予算が余った日本高校は、「富国」科の中に「不動産」専科や「株」専科などを新設し、生徒たちは学内で「土地転がし」や株式投資による「財テク」などのゲームに明け暮れるようになった。
 その間もチャイナ学園の勢いは止まらず、GNPコンクールでは日本高校と肩を並べそうなレベルにまで達していた。
 他方、日本高校は、大松先生は退職し、かつての志げのような生徒も少なくなった。
 それどころか、入学する生徒数も減少に転じ、クラブ活動を引退した高学年の生徒の方が多くなって、かつての勢いはなくなってきた。
 それでも生徒たちは、日夜学内でゲームに明け暮れ、その様子は「バブル」と呼ばれるようになった。


 うんと単純化してあるが、おおむねこんな感じだったと思う。
 さて、日本が「バブル」に浮かれている間、世界では何が起こっていたか?
 「自由貿易」や「グローバリゼーション」と言えば聞こえは良いが、端的に言えば、「資源獲得競争」が起きていたと思われる。
 例えば、中国の一次エネルギー消費量の推移を見るとよい(中国エネルギー関連データ)。
 データによれば、1980年から2006年にかけて、中国の石油消費量は4倍以上に激増している。
 ちなみに、日本の石油輸入供給量は、上記2時点間で比べると、ほぼ同じである(【第213-1-2】国産と輸入原油供給量の推移)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする