60年代と70年代という時代は、余りに多くの出来事が起こったために、おそらく歴史家にとっても分析が難しい時代の部類に入るだろう。
また、「日本株式会社」や、そこにおける「企業戦士」や「モーレツ社員」の発生メカニズムも、決して単純なものではないだろう。
だが、第二次大戦を経験した世代、つまり「民族的トラウマ」を抱えた世代を、個人のレべルに置き換えて考えるならば、アンナ・フロイトが言うところの「衝動目的の昇華、あるいは置き換え」という説明がしっくり来るように思う。
自我と防衛
「しかし、この少年の場合は、自我の能力をスポーツの面で制限するだけで万事がかたづいたのではなかった。彼はスポーツをやめたとき、突然に全く別の能力を発揮した。文学に対して以前からもっていた趣味、作文をつくる趣味を発展させた。彼はよく私に詩を読んできかせた。その詩のいくつかは、彼自身が創作したものであった。彼がやっと7歳にすぎなかった頃に書いた短篇の物語を私のところにもってきた。そして、小説家として生活しようという計画をも企てていたのである。フットボール選手は小説家に変わった。
・・・わずかの時日に、一種の合理化によって、意識的な価値評価が不安によって影響されるさまを観察することは意義の深いことである。この頃の彼の文学的成果にはたしかに、驚くべきものがあった。スポーツをやめたとき、彼の自我の機能には空白が生じたも同然であったが、この空白は文学の面で多くの創作をつくりだしてうめられた。」(p125)
この少年は、フットボールが得意だったのだが、ボールに対する(妄想的な)不安と恐怖のためにフットボールをやめざるを得なくなり、その代わり、詩や小説の創作に没頭するようになった。
この少年の姿は、敗戦によるトラウマと自我の空白を克服すべく、一致団結して経済活動に邁進していた頃の日本人とよく似ている。
しかも、彼ら/彼女ら(の一部)は、「強い父」の復権を求めていたのである。
また、「日本株式会社」や、そこにおける「企業戦士」や「モーレツ社員」の発生メカニズムも、決して単純なものではないだろう。
だが、第二次大戦を経験した世代、つまり「民族的トラウマ」を抱えた世代を、個人のレべルに置き換えて考えるならば、アンナ・フロイトが言うところの「衝動目的の昇華、あるいは置き換え」という説明がしっくり来るように思う。
自我と防衛
「しかし、この少年の場合は、自我の能力をスポーツの面で制限するだけで万事がかたづいたのではなかった。彼はスポーツをやめたとき、突然に全く別の能力を発揮した。文学に対して以前からもっていた趣味、作文をつくる趣味を発展させた。彼はよく私に詩を読んできかせた。その詩のいくつかは、彼自身が創作したものであった。彼がやっと7歳にすぎなかった頃に書いた短篇の物語を私のところにもってきた。そして、小説家として生活しようという計画をも企てていたのである。フットボール選手は小説家に変わった。
・・・わずかの時日に、一種の合理化によって、意識的な価値評価が不安によって影響されるさまを観察することは意義の深いことである。この頃の彼の文学的成果にはたしかに、驚くべきものがあった。スポーツをやめたとき、彼の自我の機能には空白が生じたも同然であったが、この空白は文学の面で多くの創作をつくりだしてうめられた。」(p125)
この少年は、フットボールが得意だったのだが、ボールに対する(妄想的な)不安と恐怖のためにフットボールをやめざるを得なくなり、その代わり、詩や小説の創作に没頭するようになった。
この少年の姿は、敗戦によるトラウマと自我の空白を克服すべく、一致団結して経済活動に邁進していた頃の日本人とよく似ている。
しかも、彼ら/彼女ら(の一部)は、「強い父」の復権を求めていたのである。