(引き続きネタバレご注意)
「秋の終わり、えり子さんが死んだ。
気の狂った男につけまわされて、殺されたのだ。」(p65)
「優しさの共同体」での幸せは、えり子さんの死というショッキングな出来事によって突然崩壊する。
いかにも唐突な印象を受けるが、実は必然の展開だった。
「竜馬がゆく」における竜馬の行動原理が「だって竜馬なんだもの」としか説明出来ないのと同様に、この展開は、「だってみかげなんだもの」としか説明のしようがない。
というのは、「アンチ英雄譚」という基本構造からして、exploit (功績)を得て姫や名声を獲得する英雄とは反対に、みかげとその双子のきょうだいとも言うべき雄一は、次々と自分のものを失っていく運命にあるからだ。
「打ちのめされた彼をみつめて「どうも私たちのまわりは。」私の口をついて出たのはそんな言葉だった。「いつも死でいっぱいね。私の両親、おじいちゃん、おばあちゃん・・・・・・雄一を生んだお母さん、その上、えり子さんなんて、すごいね。宇宙広しといえどもこんな二人はいないわね。私たちが仲がいいのは偶然としたらすごいわね。・・・・・・死ぬわ、死ぬわ。」」(p72~73)
ここでみかげは、キッチンに立ち戻ると同時に、彼女の不健全な側面が再び顔を出す。
「どうして私はこんなにも台所関係を愛しているのだろう、不思議だ。魂の記憶に刻まれた遠いあこがれのように愛しい。ここに立つとすべてが振り出しに戻り、なにかが戻ってくる。」(p79~80)
またしても彼女の「胎内回帰志向」が蘇る。
さらにそこを遡って、「生前(=死後)の世界」への「遠いあこがれ」まで出てきてしまった。
これは分かりやすい希死念慮である。
危ないことこの上ない。
「秋の終わり、えり子さんが死んだ。
気の狂った男につけまわされて、殺されたのだ。」(p65)
「優しさの共同体」での幸せは、えり子さんの死というショッキングな出来事によって突然崩壊する。
いかにも唐突な印象を受けるが、実は必然の展開だった。
「竜馬がゆく」における竜馬の行動原理が「だって竜馬なんだもの」としか説明出来ないのと同様に、この展開は、「だってみかげなんだもの」としか説明のしようがない。
というのは、「アンチ英雄譚」という基本構造からして、exploit (功績)を得て姫や名声を獲得する英雄とは反対に、みかげとその双子のきょうだいとも言うべき雄一は、次々と自分のものを失っていく運命にあるからだ。
「打ちのめされた彼をみつめて「どうも私たちのまわりは。」私の口をついて出たのはそんな言葉だった。「いつも死でいっぱいね。私の両親、おじいちゃん、おばあちゃん・・・・・・雄一を生んだお母さん、その上、えり子さんなんて、すごいね。宇宙広しといえどもこんな二人はいないわね。私たちが仲がいいのは偶然としたらすごいわね。・・・・・・死ぬわ、死ぬわ。」」(p72~73)
ここでみかげは、キッチンに立ち戻ると同時に、彼女の不健全な側面が再び顔を出す。
「どうして私はこんなにも台所関係を愛しているのだろう、不思議だ。魂の記憶に刻まれた遠いあこがれのように愛しい。ここに立つとすべてが振り出しに戻り、なにかが戻ってくる。」(p79~80)
またしても彼女の「胎内回帰志向」が蘇る。
さらにそこを遡って、「生前(=死後)の世界」への「遠いあこがれ」まで出てきてしまった。
これは分かりやすい希死念慮である。
危ないことこの上ない。