Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

台所からキッチンへ(25)

2022年03月18日 06時30分49秒 | Weblog
(映画「誰も知らない」のネタバレにご注意)
『山の音』こわれゆく家族 理想の教室 著者:ジョルジョ・アミトラーノ
 「『父ありき』とはまったく対極にある家族が、『誰も知らない』という映画には描かれています。・・・実際に起こった事件にもとづいた映画で、母親と暮らすそれぞれ父親のちがう四人の兄妹の話です。
 ある日、母親はわずかな現金を残しただけで、十二歳の息子にきょうだいを預け、新しい恋人と暮らすために家を出ます。お金はしだいに底をつき、食べ物もなくなり、頼れるはずの大人の世話も何も得られず、電気も切られます。すこしずつ子どもたちは堕落してゆき、ついに妹のひとりは死んでしまいます。逃避した母親の責任を肩代わりするのは、その十二歳の息子ですが、それは英雄と言えるほどの行動であっても、社会構造のうえではいかなる制度にも属することを許されず育てられた十二歳の少年の力には限界があり、どんなに優しくて寛大でも、家庭を救えないのです。『誰も知らない』という映画のタイトルが暗示するように、責任を取らないのは母親だけではなく、社会のすべての成員です。後者の映画で描かれた世界では、誰もが誰もを知っている社会に属していた三世代家族は消滅しているのです。
」(p89)

 ジョルジョ氏が指摘するように、人間は「優しさ」だけでは生きていけない。
 では、それ以外に何が必要だろうか?
 「誰も知らない」、あるいは「西巣鴨子供置き去り事件」が示唆するのは、まず、最低限、公共空間へのアクセスが保障されている必要があるということである。
 四人の子供たちは、出生届が提出されていない「無戸籍児」であり、公的には存在しないものとされている。
 (それどころか、当初、長男以外の子らは家の外に出ることすら親から禁じられていた。)
 もちろん、当然には保険医療などを受けることが出来ない。
 なので、映画の中の末妹は、病院で治療を受けることなく死んでしまった。
 こうした事態を避けるため、例えば、「親を代替する公的な仕組み」が必要ということになる。
 もっとも、この種の制度(児童福祉施設など)は既に存在していて、ただ、それにもかかわらず救済されない子供たちが生じてしまった点が問題なのである。
(ちなみに、私はまだ本格的な児童虐待の事案を扱ったことはないが、高齢者虐待の事案は結構な数を扱っており、その経験から言うと、包括支援センターはかなり積極的に介入している印象で、良い仕事をしていると思う。)
 また、これも当たり前のことだが、最低限の物的な基盤(資源)、特に水(下水を含む)と食料が確保されている必要がある。
 子供たちの家には「キッチン」があったけれども、空っぽの「キッチン」では生きていけなかった。
 この問題については、映画の中でいろいろヒントが出ている。
 例えば、公園で水を汲んだり用を足したりするとか、コンビニの廃棄弁当をもらうなどといったアイデアが出ている。
 わが国では、至るところで水や食料が無駄に使われたり廃棄されたりしている(日本人は毎日、水を使いすぎている!?食品ロスの現状を知る)。
 こうした水や食料を活用すれば、飢え死にする人(現実の子供たちは栄養失調に陥っていた)など出てこないのではないだろうか(結局のところ、富の再分配が十分でないからこそ、こうした生活資源の無駄が発生しているのだろう。)
 是枝監督は、「キッチン」から「公園とコンビニ」への道程を示しているのかもしれない。
 

 
コメント
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