“過去と現在を旅して”、横山拓也×大澤遊「夜明けの寄り鯨」開幕
「新国立劇場の2022 / 2023シーズンにラインナップされている「夜明けの寄り鯨」は、日本の劇作家の新作に焦点を当てた【未来につなぐもの】シリーズの第2弾。作劇を横山拓也、演出を大澤遊が手がける本作では、和歌山県の港町を舞台に、25年前に傷付けたかもしれない男性の面影を追う、とある女性の物語が描かれる。」
「横山は「演出家・大澤遊さんが、すごく面白いものを作りましたよ。自分の戯曲でこんな感覚になった舞台ははじめてです」と大澤を絶賛。一方の大澤は「ふとしたことがキッカケで急に過去が蘇り、心がざわつくことがあります。まさに登場人物の三桑もそうで、皆さんもご一緒にそんな過去と現在を旅してもらえたら嬉しいです」とコメントした。」
公演パンフレットには、
「和歌山県の港町。手書きの地図を手に女性が訪れる。その地図は25年前、大学の同級生が作った旅のしおりの1ページ。彼女は昔自分が傷つけたかもしれない、その同級生の面影を追って旅に出たのだ。地元のサーファーの青年が一緒に彼を探すことを提案する。」
とあるが、隠れた主役は「鯨」である。
題名になっている「寄り鯨」とは、死んだり弱ったりして海岸に漂着した鯨のことを指す。
理由は分かっていないが、地震、ソナーによる誘引、はたまた個体数を調節するための集団自殺などが挙げられている。
誰しも、過去の(抑圧されていた)出来事や人物などの記憶が、「寄り鯨」のように突如現在の生活に立ち現れて、対応に苦しむことがあるだろう。
主人公の女性にとっては、しおりを作った同級生がまさしくそうであり、彼は25年前に旅先で行方不明になったのである。
彼女を含む同級生たちは、しばらくは彼を探したものの、翌日には東京に戻ってしまい、結局彼は行方不明者として処理された。
同級生たちは、その彼のことを忘れたフリをして、日常を送ってきたのである。
この種の、「解決不可能な問題などを意図的に「行方不明」化する」ことは、フロイトであれば「抑圧の一種」と説明するかもしれない。
これは、いわば生きるための知恵であり、私たちが日常的に行っていることである。
例えば、本作にも出て来る例を挙げると、
・クジラショーを観て感動した後に、クジラの刺身や竜田揚げなどを食べる。
・ふだん小鳥を可愛がっている人が、チキンを食べる。
・地元の漁民たちは、ほかの魚を獲るだけでも生活できるのに、「日本の文化だ」と強調して捕鯨を正当化する。
・クジラの保護を訴える動物愛護団体のメンバーが、牛肉を食べる。
などなど。
人間は、こうした矛盾・アポリアに直面しながら、それを解決しようとすることなく、知らないふりをして日常生活を送っているのである。
ところが、ふとした拍子に、この抑圧された矛盾・アポリア(行方不明の同級生)が、「寄り鯨」のような形で蘇ってしまい、パニックを引き起こす。
・・・劇場で私が感心したのは、観客に学生さんが多かったことである。
私などは、常々こういう若い人たちが増えて欲しいと願っているのである。
「新国立劇場の2022 / 2023シーズンにラインナップされている「夜明けの寄り鯨」は、日本の劇作家の新作に焦点を当てた【未来につなぐもの】シリーズの第2弾。作劇を横山拓也、演出を大澤遊が手がける本作では、和歌山県の港町を舞台に、25年前に傷付けたかもしれない男性の面影を追う、とある女性の物語が描かれる。」
「横山は「演出家・大澤遊さんが、すごく面白いものを作りましたよ。自分の戯曲でこんな感覚になった舞台ははじめてです」と大澤を絶賛。一方の大澤は「ふとしたことがキッカケで急に過去が蘇り、心がざわつくことがあります。まさに登場人物の三桑もそうで、皆さんもご一緒にそんな過去と現在を旅してもらえたら嬉しいです」とコメントした。」
公演パンフレットには、
「和歌山県の港町。手書きの地図を手に女性が訪れる。その地図は25年前、大学の同級生が作った旅のしおりの1ページ。彼女は昔自分が傷つけたかもしれない、その同級生の面影を追って旅に出たのだ。地元のサーファーの青年が一緒に彼を探すことを提案する。」
とあるが、隠れた主役は「鯨」である。
題名になっている「寄り鯨」とは、死んだり弱ったりして海岸に漂着した鯨のことを指す。
理由は分かっていないが、地震、ソナーによる誘引、はたまた個体数を調節するための集団自殺などが挙げられている。
誰しも、過去の(抑圧されていた)出来事や人物などの記憶が、「寄り鯨」のように突如現在の生活に立ち現れて、対応に苦しむことがあるだろう。
主人公の女性にとっては、しおりを作った同級生がまさしくそうであり、彼は25年前に旅先で行方不明になったのである。
彼女を含む同級生たちは、しばらくは彼を探したものの、翌日には東京に戻ってしまい、結局彼は行方不明者として処理された。
同級生たちは、その彼のことを忘れたフリをして、日常を送ってきたのである。
この種の、「解決不可能な問題などを意図的に「行方不明」化する」ことは、フロイトであれば「抑圧の一種」と説明するかもしれない。
これは、いわば生きるための知恵であり、私たちが日常的に行っていることである。
例えば、本作にも出て来る例を挙げると、
・クジラショーを観て感動した後に、クジラの刺身や竜田揚げなどを食べる。
・ふだん小鳥を可愛がっている人が、チキンを食べる。
・地元の漁民たちは、ほかの魚を獲るだけでも生活できるのに、「日本の文化だ」と強調して捕鯨を正当化する。
・クジラの保護を訴える動物愛護団体のメンバーが、牛肉を食べる。
などなど。
人間は、こうした矛盾・アポリアに直面しながら、それを解決しようとすることなく、知らないふりをして日常生活を送っているのである。
ところが、ふとした拍子に、この抑圧された矛盾・アポリア(行方不明の同級生)が、「寄り鯨」のような形で蘇ってしまい、パニックを引き起こす。
・・・劇場で私が感心したのは、観客に学生さんが多かったことである。
私などは、常々こういう若い人たちが増えて欲しいと願っているのである。