「昭和陸軍」幹部クラスの内部的行動論理に「軍事化」の要素があったことは、わざわざ言うまでもないことだろう(軍隊なんだし)。
また、これ(というか、その模倣)を(旧)陸軍省や(旧)海軍省以外の一部の行政組織が人事・教育制度の中に取り込むやり方で行ってきたことやその機序(但し全くの憶測)については、カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(7)で述べた。
だが、軍隊ではない組織が、”オデュッセウス・メソッド”(ゆえに失敗に終わることは必至)による「軍事化イニシエーション」を取り入れる根本理由は何だろうか?
私見では、それは、彼ら/彼女らが外部に「敵」を概念しており、それゆえ自らの「組織存続」を至上命題としてしまっているからであると思われる。
外部に「敵」(ライバル企業?、ライバル政党?、他の官庁?、業界団体?あるいは国民?)が存在するというのであれば、「敵」から組織を防衛するために集団内部を「軍事化」するというのは、ある意味では理解出来る話である。
(例えば、吉野弘さんは、この種の思考をもつ経営者や営業マンを、「実業紀原始人」という言葉で表現している。)
「本書は1990年代後半、日本の金融行政に生じた大変革(ビッグバン)について、この改革がなぜ、どのようにして生じたかを制度論によって分析した政治経済学の作品である。著者は、90年代後半、従来型の既得権益の政治が後退して生じた公益政治が金融ビッグバンを可能にしたと主張し、これを合理的アクター分析によって説明している。・・・
・・・組織内アクターの合理的行動を促すインセンティブは、権力や利潤(レント)でなく、組織存続であるとして、具体的にイシューの分析に向かうのである。組織存続のために大蔵省は世論の支持を求め、銀行など既得権益をもつ者は黙った。先の公衆と国家アクターの同盟は、このようにして生じたのである。」
むむむ、「組織存続」を巡って各集団(アクター)(但しここでの存続の主体は「国家」ではない!)が相角逐するという話からは、どうしても幕末の日本を思い出してしまう。
それもそのはず、生身の人間ではなく、”具体的な個人を超越する主体”=「組織」の存続を絶対視する思考は、最も典型的に高杉晋作らによって表現されていたからである(カイシャ人類学(18))。
ちなみに、高杉の
「何ぞ国家の大事、両君公(藩主父子)の危急を知る者ならんや 」
というセリフはとんでもなく重要で、「国家」と「両君公」が並列されているところから分かるとおり、彼がいうところの「国家」は、「日本」ではない。
彼にとっての存続の主体は、「毛利家」だったのである。
くどいようだが、樋口先生が見事に指摘したとおり、日本には、ルイ14世が「朕は国家なり」と言ったときの(誰のものでもない)「国家」( L'État )は、いまだかつて成立したことがないのだ。