Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

統御不能なものへの処し方

2023年12月24日 06時30分00秒 | Weblog
 「「無意識の意識化」にせよ、「無意識の<法>との関係の変化」にせよ、どちらも言っていることはそう変わらないとお思いでしょうか。
 しかし後者の考え方を採用してみると、必ずしも無意識を意識化しなくてもよいということになります。つまり「私はお母さんが妊婦になった思い出を忘れたいと思っていました。でもそれが人夫への恐怖として回帰したのです」という、私たちが上で行ったような説明を分析主体自身が行なえるようになる必要はないのです。
 必要なのは、抑圧されたものの言語化を通じて無意識の<法>に関する主体的な変化があることです。自我とは違った主体というものがふと明らかになるだけで、苦しみは緩和されます。なぜなら、そこで患者は自分に書き込まれた<法>を見出し、<法>との向き合い方を更新できるからです。」(p170~171)

 論説的な本を読む場合に重要なのは、ディアレクティカ、つまり、「議論を可能な限り尖鋭に対立させ、争点を明らかにしつつ、自らはそのどちらにも依拠しない」という姿勢だと思う。
 この観点からすると、この本は、自我心理学の立場から書かれた馬場禮子先生の「改訂 精神分析的人格理論の基礎 心理療法を始める前に」と対比させながら読むべきだろうし、私見では、養老孟司先生の諸著作とも読み比べるのがよいと思う。
 馬場先生は、衝動を「昇華(sublimation)」する(例えば、殺人衝動を営業力に変える:スーツを着た首狩り族)ことまでは出来なくても、せめて「抑圧」が出来ればよしとする見解のようだ(万一間違っていたらゴメンナサイ)。
 要するに、「衝動」とその根底にある「無意識」を、「自我」の力で何とか統御しようという発想なのである。
 なので、抑圧を突き破って浮かび上がろうとするシニフィアンに対しては自身による「意識化」という対処法が出てくるし、統御するために薬を使う必要も出て来る。
 対して、ラカン的な発想では、統御不能なものを統御しようという発想には立たない。
 シニフィアンを「意識化」するかどうかは問題とせず、患者が自ら「発話」(パロール)することをもって治療とみなすわけだ。
 以上に対して、養老先生は、生物学的な観点から「自我」概念を否定するかのようである。
 養老先生は、「田んぼや畑も『わたし』の一部である」とおっしゃっている(出典を調べたがすぐには出てこない)。
 つまり、生命体としての「わたし」は、田んぼや畑をその構成要素として取り込んでいるのであり、周囲の環境から孤立した「わたし」(つまり自我)なるものは存在しないと指摘しているのである。
 う~む。
 この3人でディスカッションしてほしいものだが、残念なことに、馬場先生は今年の9月に亡くなられたとのことである。
 合掌。
 
コメント
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