「三島由紀夫は『午後の曳航』を通して、加害者の少年の心理を炙り出した。その主な原因が「裏切りによるもの」だ。・・・
でも三島文学の面白さは、単に憎悪に転じるのではなく、その裏切りが独占欲と相まって、一段と深い愛へと変わっていく様だと私は思う。まるでヨカナーンを愛し裏切られ、首を切り生首にキスをしたオスカー・ワイルドのサロメのように。それに、その殺害は違う視点から見れば、登の母親依存からの脱却であり、自己の確立への一歩、それになによりも命をかけて愛した人への深い愛だと読み取れる。
特に終盤になると、竜二は登にこう言っている「海を愛しているからじゃない。船乗りになったのは陸が憎いからだ」と。登は深いところで竜二の苦しみが分かるゆえに、誤解を恐れずに言うなら「殺してあげた」のだ。そんな複雑な人間の矛盾に満ちた本性を三島は今作で炙り出しているのだ。」(公演パンフレットp27~28)
私は、登と竜二はいずれも作者の分身であり、この小説の主要なテーマは「自己人身供犠」であると考えるので(安楽椅子派の聖地巡礼(3))、「殺してあげた」という宮本亞門氏の解釈に賛同する。
もっとも、宮本氏の見解は、「憂國」がそうであったような(苦しみの極限での)「人身供犠」というよりは、「「安楽死」説」と呼ぶのが適切かもしれない。
なぜなら、竜二は、「海」の「栄光」を断念して「陸」の「日常」に生きるという恥辱から解放された上、身体を切り刻まれる苦痛も感じないで済んでいるからである。
さて、ヘンツェのオペラを観て/聴いて感じたのは、「午後の曳航」は、3つの古典戯曲を下敷きにしているということである。
3つの古典戯曲とは、「オイディプス王」、「ハムレット」及び「サロメ」である(「サロメ」を「古典」に含めてよいかはちょっと問題かもしれないが・・・)。
宮本氏も指摘するとおり、登が(通常とは違った形の)エディプス・コンプレックスを抱えていることは明らかであるところ、その出発点である「父の不在」という問題状況は、「オイディプス王」及び「ハムレット」と共通する。
この問題状況を克服すべく、登は竜二に自我を重ね合わせようとするものの、竜二が「父」の座に就くことは激しく拒絶する。
これについては、登の拡大自我である竜二が母(黒田房子)の夫となることは、「オイディプス王」がそうであったように、母子相姦のタブーに牴触してしまうと看做されたからである、という解釈が成り立ちそうだ。
他方で、登によって神格化された竜二は、「サロメ」におけるヨカナーン(の首)に相当し、フロイト=ラカン風に言えば、「ファルス」ないし「象徴」ということになるだろう(主体と客体の間(2))。
なので、これが現前化して「父」、あるいは自分のものになってしまってはいけない。
かくして、二人目の「父」の存在を許さない「ハムレット」の立場からすればもちろんのこと、「サロメ」の立場からしても、「父」、あるいは「ファルス」ないし「象徴」の座に就こうとする人物=竜二は、論理必然的に死ななければならないこととなる。
よって、ラーイオスが神託に基づいて息子のオイディプスによって殺されたように、竜二は「義理の息子」となる直前の登によって殺される。
竜二は、登にとっては拡大自我=オイディプスの眼でもあるので、これは登による自傷行為といってもよい。
・・・それにしても、オペラが「海」=「第2の animus」(レフェランなきシニフィアン)の要素を殆ど捨象してしまったのは惜しいところ。
音楽(と映像)で「海」を表現しようとすれば、ドビュッシーのようなマジックが必要なのかもしれない。