「ピーアは、ネッロ、ギーノ、ロドリーゴ(彼女の弟)という男たちの世で孤独に生きる、うら若い薄幸の少女のシンボルであるが、こういった境涯は他のオペラ作品の劇作法にも見て取れる。例えば「ルチア」では、主人公ルチアの立ち位置が、兄エンリーコ、恋人エドガルド、助言者で聖職者のライモンド、意に添わぬ花婿アルトゥーロという男たちによって生じる緊迫した関係の中核となり、たった一人で彼らに抗う女性ルチアを真に助ける者は誰一人いないのである。善良なライモンドでさえも、最後にはルチアが望まぬ事態へと彼女を追いやることとなる。
状況は「ピーア・デ・トロメイ」でも同様で、先のライモンドと同じく、心優しい弟であるロドリーゴも、結局はピーアを救うことが出来ないのである。ピーアという登場人物は、ネッロの独占的愛、ギーノの執着的愛、弟ロドリーゴの純愛という、男たち3人による情愛の真っ只中に立たされる。この悲劇は、ギーノの邪心とネッロの残忍さを発端とし、ピーアを我がものとしたい男二人の私欲に虐げられた彼女に死をもたらすこととなる。」(公演パンフレット:『ピーア・デ・トロメイ2024~演出ノート』p34~35)
演出家:マルコ・ガンディーニによる見事な分析だが、私はちょっとだけ修正したい。
それは、ネッロ、ギーノ及びロドリーゴのピーアに対する感情は「愛」と呼ぶに値せず、せいぜい「欲」に過ぎないという点である。
なぜなら、「愛」はあくまで双方向的なものであるが、これはピーアにしか見出すことが出来ないからである。
もともと教皇派のイエ出身のピーアと、皇帝派のイエ出身のネッロとは、両派を宥和するための政略結婚によって結ばれた仲だった。
にもかかわらず、ピーアはネッロのことを真に愛するようになったのである(何と人間が出来ていることか!)。
だが、ネッロは彼女をひたすら独占しようとし、ギーノは彼女から拒まれて恨みを抱き、ネッロに讒言(ほかの男と不貞している)を行う。
また、演出家が「純愛」と評したロドリーゴの感情も、実は「教皇派v.s.皇帝派」という対立の枠内から一歩も出ない、自己(イエ、つまり集団)中心的なものであった。
以上に対して、ピーアは、最後までネッロへの愛を貫き、ギーノの讒言は誤解(弟を間男と勘違い)であることを知って彼を赦し、ネッロを殺そうとするロドリーゴを阻止し、「今こそ平和を実現してほしい」と二人に懇願しながら絶命する。
こうして、ピーアは、3人を「赦し」によって全的に受け入れ、(双方向的な)「愛」によって平和を実現した。
以上をまとめると、「ピーア・ド・トロメイ」のポトラッチ・ポイントは、ピーアを讒言によって結果的に死に至らしめたギーノは、その代償として命を失ったので、5.0ポイントと認定。
だが、ピーアは、「愛」の力によって「教皇派v.s.皇帝派」の対立を始めとする劇中のレシプロシテ原理を見事に叩き切ってくれたので、ポトラッチ・ポイントは、アンティゴネと同点のマイナス(▲)100.0!(11月のポトラッチ・カウント(4))と認定。
よって、差し引きマイナス(▲)95.0ポイントとなる。