"The more thoroughly business dominated American society, the less it felt the need to justify its existence by reference to values outside its own domain. In earlier days it had looked for sanction in the claim that the vigorous pursuit of trade served God, and later that it served character and culture. Although this argument did not disappear, it grew less conspicuous in the business rationale. As business became the dominant motif in American life and as a vast material empire rose in the New World, business increasingly looked for legitimation in a purely material and internal criterion—the wealth it produced. American business, once defended on the ground that it produced a high standard of culture, was now defended mainly on the ground that it produced a high standard of living. Few businessmen would have hesitated to say that the advancement of material prosperity, if not itself a kind of moral ideal, was at least the presupposition of all other moral ideals."(p251~252)
「反」知性主義に敵対する勢力の中に、”ビジネス”が含まれることを、リチャード・ホフスタッターも指摘していた。
”American business, once defended on the ground that it produced a high standard of culture, was now defended mainly on the ground that it produced a high standard of living.”
(拙訳:アメリカのビジネス---かつてはそれが高い文化水準を生み出すという理由で擁護されたものであるが--それが今や高い生活水準を生み出すという理由で擁護されるようになったのである。)
目下、「反」知性主義:
「文化とか言っても、金がないと楽しめないでしょ?」
というメンタリティの層が有力となって、「大統領選」という形で現われているように見えるわけである。
ちなみに、これは日本にとっても他人事ではないと思う。
やはり、知性に基盤を置く層が成立しないという”伝統”が根付いてしまっており、「新しい自由な社会」からは程遠い状況にあるからである(周回遅れ(4))。
例えば、トランプ氏が「反」知性主義を体現していることは今さら言うまでもない。
だが、対するハリス氏が「知性」を代表しているかと言えば、何とも言えない。
私もアメリカの法曹について詳しいわけではないのだが、日本では、いわゆる「ヤメ検」の中には”ビジネス最重視”の弁護士が多いので、もしかするとハリス氏もそういうスタンスなのかもしれない。
その場合、今回の大統領選は、「反」知性主義陣営内の、「ビジネスv.s.ビジネス」という構図が当てはまっているのかもしれない。
何とも絶望的な構図だが、希望を捨ててはいけないことは、アニーも言う通りである(見せていい)。
いっそのこと、アニーを大統領に選出することは出来ないものだろうか?
・・・さて、結果はどうなりますことやら?