「田舎の地主の娘タチヤーナは、帝都育ちの洗練された青年オネーギンに憧れ、恋文をしたためる。いっぽう若くして人生に飽いたオネーギンは一途なタチヤーナの愛を疎んじ、友人レンスキーをつまらぬ諍いから決闘で殺して失意のうちに去る。
数年後、将軍の妻となったタチヤーナとオネーギンが再会。オネーギンはタチヤーナの気高い美しさに心を打たれ、熱烈に求愛。しかし胸に恋心を残しながらも人妻としての矜持を失わないタチヤーナは、これを拒絶する。」
数年後、将軍の妻となったタチヤーナとオネーギンが再会。オネーギンはタチヤーナの気高い美しさに心を打たれ、熱烈に求愛。しかし胸に恋心を残しながらも人妻としての矜持を失わないタチヤーナは、これを拒絶する。」
シュツットガルト・バレエ団による6年ぶりの来日公演。
2018年の公演では、確かフリーデマン・フォーゲル&アリシア・アマトリアンのコンビで観たと思う。
2020年のパリ・オペラ座バレエ団の公演は、ユーゴ・マルシャン&ドロテ・ジルベールのコンビだった。
というわけで、全幕で観るのは3回目なのだが、1幕でまず音楽に違和感を感じる。
5曲目の、オリガとレンスキーのパ・ド・ドゥでの「『四季』より『舟歌』」の違和感が半端ないのである。
有名なピアノ曲で、明るい要素はほぼ皆無のメロディーだが、幸せいっぱいのオリガとレンスキーは、常に笑顔を絶やさずに踊り続ける。
これは、どう見てもシュールである。
深読みすると、「世界残酷物語」のグロテスクな映像と同時に流れる美しい曲:「モア」の逆、つまり、幸せそうな二人を哀しい音楽で包んでしまおうという発想なのかと考えてしまう。
確かに、この後レンスキーは殺され、オリガは別の男と結婚するのではあるが・・・。
さて、オネーギン(パイシャ)が登場して、はたと気付いたことがある。
それは、オネーギンの配役はかなり難しいということである。
なぜなら、彼は、西欧の伝統的な「愛」の概念(=「自我」の相互拡張)を否定するのみならず、「死神」だからである。
「21世紀の通俗的心理学(科学的根拠のない心理学的な俗説)においては、エフゲニー・オネーギンのような人物は有害な男と呼ばれるのがもっとも妥当だろう。彼は手に入れられないものをほしがるが、手に入れると熱は冷め、戦利品を無下にあしらう。彼は満たされることのない親密さに憧れ、その身を捧げる。・・・だが、そこに愛の居場所はない。他者は常にただの目的のための手段でしかなく、常に客体であり決して主体ではない。」(公演パンフレットp15)
オネーギンは、他者を「手段」又は「客体」としてしか見ないのである。
そう、三浦さんが見事に指摘したとおり、オネーギンは「死神」なのである。
ということは、「死神」の側面を持つダンサーを配役しなければならないのだが、フォーゲルもマルシャンも、明るい”王子様”のキャラであり、悪の要素が希薄なので、どうしても違和感が残る。
そうなると、今回のパイシャは酷薄な雰囲気があってなかなか良いと思うけれども、引退したオードリック・ベザールこそが、私見では理想のオネーギンではないかと思うのである。