「彼が他人の眼には明らかに狂乱したと見える様子で、イオカステの衣から黄金のピンを抜き取り、それを自分の眼に何度も突き刺したとき、かつてスピンクスの謎をも解き得たこの英雄の知性は、突然彼を襲った想像を絶するほどの苦患にもかかわらず、実は少しも曇らされてはいなかったのである。一見狂ったと見えたオイディプスは、実は狂ってはいなかった。不幸のどん底にあってもオイディプスは、なお「知る人」であり続け、知性によって状況を見極め、最善と判断される行動を、自らの責任においてとることを、一瞬たりとも止めなかったのである。神はたしかにオイディプスを、思いのままに動かした。だが世にも悲惨な境遇へと、神により不可避的に突き落とされながら、オイディプスはなお、矜持を失わず、彼に自由意志があり、どのような不幸も彼にそれを失わすことだけはできぬと、主張して止まぬのである。アポロンを持ち出し、人間がほとんど無に近いほど制限されていることを慨嘆したその口で、オイディプスは、「だが自分は自由であり、もっとも不自由に見えたあの瞬間にも、なお自由であった」と宣言する。アポロンが彼を不幸にしたと認めたそのすぐあとに、オイディプスの口から発せられた、「だが」この眼を傷つけたのは、他のだれでもない、この不幸なわたしの手だ」という叫びは、人間の尊厳の主張として、まさに千鈞の重みを持つと言えよう。」(p123)
長々と引用してしまったが、大いに陥りがちな誤解、すなわち、「人間は神の意志=運命を克服することは出来ない」というのがギリシャ悲劇の最大のテーマであるという誤解から目を覚ましてくれる重要な指摘である。
ライオスを殺したのは正当防衛だし、イオカステと結婚したのは自分の本当の両親を知らなかったからである。
つまり、オイディプスは”無罪”である。
それにもかかわらず、彼は殺人や母子相姦という「罪」の穢れを負ってしまい、絶望的な境地に追いやられる。
だが、彼は完全に「不自由」=「無」となってしまったのではない。
自分の眼を傷つけるという、神=運命を打ち負かすためのポトラッチが残されていた。
究極のポトラッチは自殺であるが、オイディプスは死ななくとも同じ効果を得ることが出来た。
これによって、彼は自分が「自由」であることを証明して見せたのである。
というわけで、オイディプスによる自傷行為のポトラッチ・ポイントは、自殺と同等の5.0と認定。
以上の次第で、「オイディプス王」のポトラッチ・ポイントは、15.0(=ライオス:5.0+イオカステ:5.0+オイディプス:5.0)。