Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

11月のポトラッチ・カウント(3)

2024年11月21日 06時30分00秒 | Weblog
 次の演目は「コロノスのオイディプス」。
 おそらく上演頻度は決して高くないはずであり、解釈も難しい作品である。
 一つのヒントは、(私がソポクレスの最高傑作と考える)「フィロクテーテース」にある。

 「Sophokles の死から5年を隔てて401年に初めて上演された遺作 ”Oidipous epi Kolonoi”はこの<二重分節>単位の先験性を結局全て Oidipous に託す。自分とデモクラシーを「Oidipous の死」に同定する。自分の死即ち一個人の死に与えられる意味(それらを捕らえる諸々のパラデイクマが示す屈折)、そして Oideipous の死に<神話>上与えられる意味(同上)、の二つを重ね、それぞれが形成する屈折体(小さな社会構造)にデモクラシーの運命を委ねたのである。
 この作品の Oidipous がほとんど Philoktetes の別名であることは疑い無い。完全に無価値かつ有害な存在として見捨てられ駆逐された、その後に突如勝利の切り札として利用されようとする、その点で両者は全く同じ立場に立つ。」(p315)

 そう、オイディプスも、フィロクテーテースと同様に、「完全に無価値かつ有害な存在」とされながら、「勝利の切り札」ともなるという、アンビヴァレントな存在である。
 両者は、「最後の一人」であり、共通するテーマは「二重分節」である。
 さて、舞台上には三作の中でおそらく一番多くの(主要)人物が登場する。
 オイディプス、アンティゴネ、テセウス、クレオン、ポリュネイケス、イスメネ、ハイモン。
 つまり、当時存在したオイディプス・ファミリーのうちエテオクレスを除く全員が揃っており、オイディプスをいわば奪い合う。
 対立の構図は、ポリュネイケス・クレオンと、アンティゴネ・イスメネというもので、結局後者が勝利する。
 もっとも、アンティゴネ・イスメネがオイディプスを手にするわけではなく、彼は「誰のものでもありえない存在」として、アテナイを永遠に守護することとなる。

 「Oidipous は死の予兆が訪れると直ちに Theseus を呼び寄せる(1457ff.)。Oidipous は Theseus に秘訣を授ける(1518ff.)。死の瞬間に二人だけで秘密の場所に行ってそこに Oidipous が埋葬されるようにする。Theseus はその場所を決して誰にも明かさず、ただ後継者だけに伝えて行く、というのである。確かに、これにより Athenai は絶対に奪われない形で持つことがでくる、がしかしそれは、Oideipous がただ単に誰のものでもないのでなく、誰のものでもありえないようになったことに基づくのである。こうして少なくとも Thebai は決して Athenai を侵略しえないのである。戦争、そして或る種の政治は、全て理論的には Oideipous の奪い合いである。」(前掲p321~322)

 というわけで、「コロノスのオイディプス」にポトラッチは出現しなかったので、ポトラッチ・ポイントはゼロ。
 

 
コメント
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