Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

小麦戦争

2022年05月21日 06時30分14秒 | Weblog
ロシアは食料を武器に使用、世界食料供給「人質」に=米国務長官
 「ブリンケン長官は国連安全保障理事会の会合で「食料を武器とする決定はロシアが下したもの」と強調。「ロシア政府の行動によって、ウクライナ国内の倉庫には2000万トン規模の穀物が眠っている状況で、世界の食料供給は減少し、価格が高騰、世界中で食料不安を引き起こしている」と述べた。さらに、ウクライナの港湾封鎖を解除するようロシアに訴えた。

「小麦備蓄、あと3週間で枯渇」 パレスチナで深まる食糧危機
 「パレスチナ自治区は小麦の約95%を輸入に頼っており、約3分の1をウクライナ産が占める。しかし、小麦の輸出大国であるウクライナとロシアは戦争の影響で食糧の輸出が落ち込んでいる。
 パレスチナ自治区向けの小麦の大半はイスラエル経由で運ばれてくるが、そのイスラエルも穀物の半分をウクライナから輸入している。パレスチナ自治区では、政府が食糧保管施設を保有していないため、域内の価格は市場の変動にいっそうさらされやすくなってもいる。


 アフガン侵攻の直前、旧ソ連はアメリカなどから大量の小麦を輸入したという。
 やはり、食料の確保は戦争における重要課題なのだ。
 今回のロシアも、おそらく自国の食料を確保した上で、ウクライナの小麦を”人質”にとろうとしているのではないだろうか?
 こんな風に、最近のニュースを見ると、だんだん「小麦戦争」の側面が出て来たようである。
 そうなると、穀物の半分をウクライナから輸入しているイスラエルも黙ってはいないだろう。
 そろそろモサドあたりが動き出すのでは?という気がする。
 ちなみに、私は小麦アレルギーの傾向があるため、パンなどは極力食べないようにしており、炭水化物は米とイモに依存している。
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楽譜の解釈(2)

2022年05月20日 06時30分20秒 | Weblog
 あらゆる演奏家は楽譜の解釈に意を用いるが、例えば、作曲家自身の演奏の音源や映像が存在する場合はどうだろうか?
 この点について、指揮者の栗田博文さん(指揮者:栗田博文さんの経歴について)は、こう答えている(私の記憶に基づいて再生したので、実際の発言と違うところがあるかもしれない。)。

 「例えば、バーンスタインが作曲した曲については、彼自身の演奏をめちゃくちゃ参考にします。同じメロディーでも2回目にはスタッカートがついていたりすると、これは何なんだろうと思って作曲者の演奏を見てみると、楽譜の方がおかしかったりする。・・・但し、その後彼以外の素晴らしい演奏もたくさん出ているので、バーンスタインの演奏があるからといってやりづらいというわけではありません。

 なるほど。
 でも、さすがに、この映像のように、”楽器をグルグル振り回せ”などという指示は、バーンスタインは楽譜には書いてないと思うぞ。
Gustavo Dudamel & Simon Bolivar Symphony Orchestra – Bernstein: West Side Story: Mambo
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カイシャ人類学(20)

2022年05月19日 06時30分43秒 | Weblog
吾輩は猫である
 「鼻だけはむやみに大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真ん中へ据え付けたように見える。三坪ほどの小庭へ招魂社の石燈籠を移した時の如く、独りで幅を利かしているが、何となく落ち付かない。」(p102)
 「「わたしねえ、本当はね、招魂社へお嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
 細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女のすん子が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。
「御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやなら好いいわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」
「坊ばも行くの」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔を揃そろえて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。
」(p405~406)

 このように、夏目漱石は招魂社をパロディ化しているが(「三四郎」にも出てくるらしい。)、それはおそらく、彼が追求した個人主義(個人の覚醒)と相容れないもの(官製の”強制ポトラッチ”?)を感じ取ったからではないかと思う。
(ちなみに、五來 重氏も、「官僚的国家神道の神社」を批判している。)
 もっとも、漱石が言うところの「招魂社」は「東京招魂社」(後の靖国神社)であって、高杉晋作の「招魂社(招魂場)」とは異なる。
 高杉は、明治が始まる前に亡くなっているが、なんと、生きている自身を含む志士を合祀するための施設をつくろうとしたのである。
 専門家ではないので、その正確な意図は分からないが、前に引用した「毛利家三百年来の世臣」発言と併せ考えると、素人考えでは、やはり毛利家の祖霊(たち)と並んで、あるいはこれと合一化して、「神」になろうとしたのではないだろうか?
(まるで、弘法大師空海の「即身成仏」である。)
 彼も、やはり「イエ」という枠を超えることは出来ず、「徳川幕府」に代わるものとして「毛利幕府」を打ち立てることを夢見ていたと思われるからである(苫米地英人氏の指摘)。
 ・・・「究極の「カイシャ」は(高杉の)”招魂社”に近づく」などと言えば、「何という珍奇な説!」と驚く人がいるかもしれない。
 だが、そういう人は、平成版ドラマ「悪女」で、麻里鈴が入社初日に放った次のセリフを聞いて、笑うことは出来ないはずである。

 「過労死するまで頑張ります!

 麻里鈴は、株式会社近江商事というカイシャで「成仏」することを夢見ていたのである。
 もっとも、30年前、商社の一般職(正社員)であるOLが、お茶くみやコピー取りの仕事で”過労死”することはおよそ考えられなかった。
 ところが、今や、非正規雇用労働者が、正社員並み(あるいはそれ以上)の激務によって”過労死”することも想定されるような状況となっている。
 そんなことでも起きない限り、カイシャにあっては、「世襲」と「階層化」の壁を越え、正規のメンバーとして「成仏」することは出来ない、そういう時代になってしまいそうなのだから。
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カイシャ人類学(19)

2022年05月18日 06時30分22秒 | Weblog
 プーチン大統領は、「無垢なロシア」の存続(又は復活)のために行動していると思われる。
 では、山本常朝や高杉晋作はどうだったのだろうか?
 まず、山本常朝が「心身を擲」つ相手として想定していたのは、公儀(徳川家)でもなければ天皇家でもなく、「鍋島家」(差し当たり鍋島光茂)であったことは間違いない。
 山本が、光茂の死にあたって殉死しようと考えたものの、光茂が殉死を禁止したために出家を選んだというのは有名な話である。
 では、当時、殉死した武士たちは、死後、自分たちはどうなると考えていたのだろうか?
 これについては、殉死の起源(実は、祖霊信仰も同種の思考に基づいている)を考えるとよいと思う。

Primitive Culture by Edward Tylor
 ”Men do not stop short at the persuasion that death releases the soul to free and active existence, but they quite logically proceed to assist nature, by slaying men in order to liberate their souls for ghostly uses. Thus there arises one of the most widespread, distinct, intelligible rites of animistic religion --- that of funeral human sacrifice for the serve of the dead.
 「人々は、「死は魂を自由で活動的な存在へと解放するのだ」と説得しても、そこで踏みとどまることはしない。そうではなく、人々は極めて論理的に、魂を開放し霊的な使用に供すべく人間を殺害することによって、この性質を促進しようとするのである。こうして、最も広くいきわたった、顕著で分かりやすいアニミズム的宗教儀礼が誕生するーーー即ち、葬送における、死者に仕えさせるための人身供犠である。」(拙訳。ゆえに誤訳あるかも)

 原始社会においては、部族の長などが亡くなると、これに仕えていた者などを殺害して、死後の世界でも奉仕させようとすることが行われていた。
 一種の人身供犠である。
 山本も、おそらく死後においては、光茂を含む鍋島家の祖霊(たち)に仕えようと考えていたと思う。
 問題はその後どうなるかだが、もちろん、「千の風」になるのではない。
 五来 重氏によれば、十分にまつられた霊魂は、一定の期間を経て、”昇華”(サブリメーション)の作用により「神」になると考えられていた(庶民はこれを「成仏」と呼ぶが、「神」になるのに「成仏」とはこれいかに?)。
 私見では、「殉死」は、人身供犠であると同時に一種のポトラッチであり、その”返礼”は、主君の祖霊(たち)と並んで、あるいはそれと合一化して「神」になることである。
 もちろん、こうしたことを山本がいったあわけでも書きのこしているわけでもなく、これは、殉死の起源と祖霊信仰の思考を手掛かりとした、あくまで推測に過ぎない。
 だが、高杉晋作の場合は、そうではない。
 彼は、前回引用した発言を行っている上に、「招魂社」の設立発起人だからである。
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カイシャ人類学(18)

2022年05月17日 06時30分43秒 | Weblog
 未開社会では、”マナ”などという聖霊の力を利用して、枝分節集団が形成されていた。
 オカルトチックな話であるが、日本の祖霊信仰もオカルトチックでないとは言えない。
 オカルトチックといえば、最近、プーチン大統領の重病説が流れている。
 だが、彼は、一般の日本人ほど死を恐れてはいないと思う。
 というのも、彼はイリインが言うところの”生き物”「無垢なロシア」を信じているらしいからである(永遠に無垢な・・・)。
 彼の頭の中では、おそらく、死んだら自分の魂は「無垢なロシア」という集合的霊魂の中に”戻っていく”ことになっているのではないかと思うのだ。
 人によってはカルト的と感じるかもしれないが、死の恐怖を克服するために魂の永世を信じることは、日本でも伝統的に行われてきたようである。
 例えば、(建前上は)死を恐れないことが求められた武士の世界などはそうだろう。
 「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」と書いた山本常朝も、おそらく霊魂不滅説の信者だろう。
 ちなみに、彼は、「御黨家御代々、名誉の御家中に生れ出で、先祖代々御厚恩の儀を浅からざる事に存じ奉り、心身を擲ち、一向に歎き奉るばかりなり。」とも述べている。
 では、武士は、死んだ後の自分の霊/魂はどうなると考えていたのだろうか?
 手がかりは多くなさそうだが、興味深いものを見つけた。
 それは、下に引用した高杉晋作の言葉である(余談だが、元首相の「晋」という字は、(お父さんもそうだけど)この人にちなんだものなのだろうか?)。

憂国の士 赤禰武人顕彰碑/山口県山口市旭通り
 「君らは赤禰武人に欺瞞せられたる者か
 そもそも武人は大島郡の一土民の身
 何ぞ国家の大事、両君公(藩主父子)の危急を知る者ならんや
 君らは予を何と思うや
 予は毛利家三百年来の世臣なり
 あに武人がごとき一土民の比ならんや


 私見だが、山本常朝も高杉晋作も、武士特有の(但し、一部の商人が共有していたかもしれない)祖霊信仰をもっていたように思う。



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カイシャ人類学(17)

2022年05月16日 06時30分12秒 | Weblog
 「世襲」と「階層化」という大きな流れについて、これを擁護する人たちの視点から、もう少し検討してみたいと思う。

不平等社会日本 さよなら総中流 佐藤俊樹 著
 「あらかじめ答えをいっておくと、戦後の高度成長期にはたしかに日本は、戦前にくらべて「努力すればナントカなる」=「開かれた社会」になっていた。だが、近年、その開放性は急速にうしなわれつつある。社会の10~20%を占める上層をみると、親と子の地位の継承性が強まり、戦前以上に「努力してもしかたない」=「閉じた社会」になりつつある。
 それは選抜のシステム、つまり学歴や職業上の地位を得るための競争のシステムが飽和したためであり、その結果、戦後の産業社会をささえてきた重要な基盤がほりくずされている。一方では、上層を占めるエリートたちが「実績」の名の下にみずからを空洞化させつつある。他方では、そうでない人々が「努力すればナントカなる」という形で将来に希望をもち、社会への信頼を保つことがむずかしくなりつつある。それが現在の日本社会のいつわらざる現状である。
」(p13)

 この本の初版は2000年なので、「現在」というのが20年以上前であることには注意が必要である。
 とはいえ、今や「親ガチャ」が流行語になるくらいなので、この予言は当たっていたと言わざるを得ない。
 さて、佐藤氏は、この流れについて、「学歴や職業上の地位を得るための競争のシステムが飽和した」と述べて、システムの自壊の結果と捉えている。
 だが、見方を変えると、当時の経営者・ホワイトカラー上層が、自らの「実績」を一代限りで終わらせないために、競争のシステムに変更を加えたということも出来そうである。
 何が言いたいかというと、彼ら/彼女らは、既存のシステムを、「競争させないシステム」(競争以外のものが決定的な要因となるシステム)へと変更することを狙ったのではないかということである。
 例えば、「お嬢さま」であるかどうかは生まれた病院によって決まり、東京であれば慶応大学附属病院や山王病院などでなければならない(p2〜)、正社員として入社・出世するためには親も同じ会社か同じ業界の社員でなければならない、などといった明示又は黙示の規準が出てくる。
 つまり、ある層の人たちが、競争(良いイメージの言葉で言い換えると「みんなで努力」)が意味を持たないようなシステムを求めたわけである。
 これは、無駄な努力を省くという意味では、プラスの効果を持ち得たのかもしれない。
 たしかに、私だって、女子バレーの大松監督や「東京物語」の志げのような親から「一生懸命努力して競争に勝ちなさい!」などと叱咤されるような人生はまっぴらである。
 だが、「永続」までは望まないまでも、「我が子に自分と同じ苦労をさせたくない」あまり、「競争させないシステム」を手っ取り早く構築しようとして、トップやメンバーの就任・加入・昇格について「世襲」原理を採用してしまうことが、集団の「枝分節」化、そして必然的に「階層化」を帰結することは、既に指摘したとおりである。
 おまけに、コニャティークなネットワーク形成によって、この集団はどんどん増殖していく。
 そして、佐藤氏も予言したとおり、「努力してもしかたない」人たちが相当数にのぼるような社会(現在の日本)は、やがて衰退・崩壊するだろう。
 それだけでなく、私などは、この”一撃”が、何とも不気味なものを蘇らせてしまうのではないかという恐怖を抱くのである。
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カイシャ人類学(16)

2022年05月15日 06時30分24秒 | Weblog
『悪女(わる)』、社内恋愛に疑問の声「下に見てる」「失礼だな」主人公のセリフが物議
 「「麻理鈴の発言は、言い換えれば“外で恋愛する暇がないから手っ取り早い社内の人と恋愛している”というもの。実際ラストでは、残業禁止ルールが改めて徹底された課内で、付き合っていた課内カップルが別れたことが明らかになっていました。しかし、この発言にネット上からは『今、社内恋愛してる人に失礼だな』『忙しいから身近で恋せざるを得ないって違くない?』『社内、社外で都合よく恋愛してる人ばかりじゃない』と違和感を指摘する声が続出していました」(ドラマライター)

 「タテ社会の人間関係」(初版は昭和42年)の頃は一般的であった「丸抱え」も、今や一部の企業にしかみられないようになったようだ。
 「丸抱え」する余裕も乏しくなってきたということなのだろう。
 さて、上に引用した麻里鈴発言への批判は、彼女のセリフの一部を切り取ったもので、当を得ていないと思う。
 次のセリフが見落とされているのではないだろうか?

麻里鈴「オフィスラブが減らない理由分かっちゃいました。・・・楽しすぎるんです、仕事が。仕事は仕事、人生の一部なのに、大事なこと忘れちゃう・・・。

 人間は、おかれた環境に慣れるように造られている(「愛することに慣れている」:翻訳の工夫)ので、どんなに過酷な職場であっても、またどんなにつまらない仕事であっても、そこで長時間過ごしていると、やがてその環境(仕事そのもの、あるいは一緒に仕事をする人たちなど)を愛するようになる。
 おそらく麻里鈴が言おうとしたのは、これこそが社内恋愛が減らない理由の最たるものだということであり、正論だろう。
 実際、職場不倫が原因の離婚事案を見ても、やはり長時間労働の会社が多い。
 妻に離婚を告げるときのセリフが、「彼女(不倫相手)がいなければ、この厳しい仕事に耐えられなかった」だったという事案もある。
 これは一種の依存症なのだが、私が見た極端な例では、転勤する先々で社内不倫を起こしてしまうエリートサラリーマンもいた。
 要するに、(一部の)社内恋愛と仕事への依存症(ワーカホリック)には、共通の原因があるというわけである。
 営業四課の課長:三島(山口智充)(ぐっさんは一時期露出が減っていた印象だが、元気な姿を見て安心した)は典型的なワーカホリックで、その原因について、10年前に離婚した妻はこう指摘する。

 「この人は、仕事イコール人生なのよ。・・・不安なだけよ。怖いの、休むことが、孤独が・・・・。

 ワーカホリックの場合には、前述の「環境に慣れてこれを愛するようになる」本能に加え、どんな人間にも備わっている群居本能が、孤独への不安・恐怖、つまり「いつも集団で何かをしていないと不安で恐怖すら感じる」心理を作り出してしまうというのである。

 
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カイシャ人類学(15)

2022年05月14日 06時30分35秒 | Weblog
第5話『5th STAGE 社内恋愛(営業部)』2022年5月11日(水)放送
 「年の瀬、麻理鈴(今田美桜)の営業四課への異動が決定した。女性課長が男性の部下相手にセクハラ事件を起こした影響で、空きが出たのだ。課長の三島(山口智充)が率いる営業四課は、効率化重視のため残業禁止。それどころか、仕事に支障が出るからと課内恋愛も禁止しているという。
 「職場の人間関係の火種になりかねないとわかっているのに、なぜ社内の人と恋せざるを得ない状況に陥ってしまうのか。麻理鈴とチーム三島の面々がたどり着いた答えは?

 平成版ドラマ「悪女」の株式会社近江商事には、一般職のOLが登場する。
 彼女らは「腰掛け」、つまり寿退社(結婚退職)がデフォルトとされていた。
 ところが、この状況が、令和版ドラマ「悪女」では一変する。
 一般職はなく、ゆえに結婚退職制もなく、なんと、課によっては「課内恋愛禁止」がルール化されている。
 平成版とは真逆だが、裏返すと、依然としてやはり社内恋愛が多いということなのである。

 峰岸「社内恋愛は身を滅ぼす。・・・昔は女が稼ぎのいい男を会社に探しに来てた。今は共働きでも社内恋愛が多い。なぜか分かる?

 ところで、私見では、結婚退職制(人件費抑制も狙っている:単身赴任ハラスメント)を採用している会社は、「イエ」的な要素を持っている可能性が高いと思う。
 なぜなら、この種のカイシャは、一部の社員をéchangeの客体として扱った上(カイシャ人類学(2))、この人たちも含めて「丸抱え」して「イエ」を形成しようとしているからである。

タテ社会の人間関係 講談社現代新書 著:中根 千枝
 「日本の「家」にあらわれている集団としての特色は、また大企業を社会集団としてみた場合にもみられるのである。すなわち、終身雇用制によって、仕事を中心とした従業員による封鎖的な社会集団が構成される(中略)ばかりでなく、従業員の私生活、すなわち、家族にまで会社の機能や及んでいる。・・・したがって、従業員は家族の一員であり、「丸抱え」という表現にもあるように、仕事ではなく人を抱えるのであるから、当然その付属物である従業員の家族がはいってくる。したがって日本の企業の社会集団としての特色は、それ自体が「家族的」であることと、従業員の私生活に及ぶ(家族が外延的にはいってくる)という二点にある。後者は前者の当然の結果として出てくる。」(p42~43)
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カイシャ人類学(14)

2022年05月13日 06時30分27秒 | Weblog
政治の成立 木庭 顕 著
 「ジェネアロジクなパラデイクマは一定の意味の軸を持ち、これが社会構造としての枝分節を生ぜしめることは排除されていない。この場合、ジェネアロジーとテリトリーとの関係は極めて不安定である。何故ならば、そうした社会構造は本来的に、外から内への侵入を許しかつそれによって結合関係をつくる、そうした現実の社会組織を支えるからである。このテリトリーの不安定を解消しようとするときに、ジェネアロジーの系統樹上の最上流の部分を神話化する、ということが行われる。例えば、・・・Bの娘とAには3人の息子が居て、Aの部分のテリトリーを三つに分けた、という神話的パラデイクマを作り、区分されたそれぞれのテリトリーをその3人の男系直系子孫しか占拠しえないというパラデイクマを機能させる、ということが行われる。」(p96)

 「テリトリー」を(イエ/カイシャの)「職(事業)」に置き換えれば、日本についての記述ではないかと錯覚してしまいそうである。
(ちなみに、「パラデイクマ」というのは、「出来事のイメージ」と理解するとよいそうだ。)
 ここから類推すると、職業の世襲は、集団が「職(事業)」との関係の不安定を解消しようとするために生じてくるという仮説が一応成り立ちそうである。
 もっとも、テリトリーは生存のために不可欠だから、これを安定的に占有したいというのは理解出来るけれども、ある集団が、特定の「職(事業)」(+「屋号(苗字)」)の存続・永続を至上命題とする理由を、「生存のため」という一言で説明するのは困難である。
 なので、問題は、当該集団にとって、特定の「職(事業)」(+「屋号(苗字)」)の存続・永続が必要となるのは一体なぜかというところに戻ってくる。

日本人の死生観 講談社学術文庫 著:五来 重
 「日本人の葬制の根底にある霊魂観というものは、仏教以前の民族的な霊魂観がそのまま生きているということができる。キリスト教国などでは、古い宗教、古い霊魂観、古い他界観というものは、異教異端として、ほとんど撲滅されたわけです。」(p164)

 かなり乱暴な議論かもしれないが、職業の世襲を、日本の土着宗教=祖霊信仰の表出の一つであると見れば、会社に「イエ」の諸要素が転写・包摂される現象をうまく説明出来るように思う。
 また、こういう風に考えると、政治の世界において、世襲議員の比率が、ドイツ:2%未満、アメリカ:6~8%、他の先進国(キリスト教やユダヤ教が一般的)でもおおむね10%未満であるのに対し、わが国では25%という突出した数字をたたき出している(Dynasties and Democracy
The Inherited Incumbency Advantage in Japan DANIEL M. SMITH
)理由の一つが分かるような気がする。
 つまり、キリスト教などによって土着宗教が廃絶された国(その典型はドイツ)においては、職業の世襲化が進みにくいのではないかと考えるわけである。
 補足すると、中国のような共産主義体制も、基本的に宗教を認めない(無神論である)ので、職業の世襲はタブー視されやすいと言えるだろう(その意味で、北朝鮮は極めて特殊である。)。
 
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カイシャ人類学(13)

2022年05月12日 06時30分06秒 | Weblog
新・階級社会 上級国民と中流貧民
 「今の日本社会を「格差社会」などという言葉で表現するのは実態を表していない。格差社会よりもはるかにシビアな「階級社会」へ変貌を遂げていたのだ。それは、出自や教育環境、就職時期の経済環境などによって階級が決まる「現代版カースト」ともいえる理不尽な世界だ。厄介なことに、階級格差は親から子へ、子から孫へと世代を超えて連鎖し受け継がれていく。世襲されることで、格差は加速度的に広がっていくのだ。」(p27)

 ややジャーナリスティックな表現が気になるけれど、大きく間違ってはいないだろう。
 戦後(特に80年代以降)の日本(国家・社会)は、「世襲」(+コニャティークなネットワーク形成)と「階層化」という2つの原理、及び両者の相互作用によって突き動かされてきた。
 後者(階層化)について言えば、階層性は枝分節集団の核心的要素であり、今に始まった話ではないが、「現代版カースト」では、これが極端化しているのが特徴と言える。
 例えば、80年代以降の顕著な現象として、正社員を極端に優遇する(その代わりサービス残業や全国転勤等を強制する)一方で、非正規雇用労働者を極端に冷遇して、労働者間の階層を敢えて”スティープ”にするというものがある。
 その背景に、(モースが言うところの)「権威」の源泉=「富」(資源)の絶対量の減少・不足、及びその分配における機能不全(つまり信用崩壊)があるのは確実である。
 前者に対してはアベノミクスのような政策が実施されたものの、その効果が疑問視されていることは周知のとおりで(というか、一国の政策で解決できるような問題ではなかろう)、後者についてはほぼ手つかずの状態で放置されているという、惨憺たる状況である。
 その結果、例えば「カイシャ」の経営者などが、減少・不足した富(資源)(賃金、社内における地位等)の分配において、「正社員にはうんと多く、それ以外にはうんと少なく」する、さらには、派遣・偽装請負のように、一部のメンバーを階層の外(下)に弾き出す(実質的に階層をもう一つ増やす)ことによって階層性を維持する(自身の権威を保ち、最低限正社員が辞めないようにする)方法を選ぶようになってしまったのかもしれない。
 さて、それでは、もう一つの方、「世襲」についてはどう説明すればよいのだろうか?
 実は、「会社」が「イエ」(枝分節集団)化する(その結果「階層性」が生じる)最大の原因は「世襲」なので、こちらがおそらく最大の問題なのである。
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