「世襲」と「階層化」という大きな流れについて、これを擁護する人たちの視点から、もう少し検討してみたいと思う。
不平等社会日本 さよなら総中流 佐藤俊樹 著
「あらかじめ答えをいっておくと、戦後の高度成長期にはたしかに日本は、戦前にくらべて「努力すればナントカなる」=「開かれた社会」になっていた。だが、近年、その開放性は急速にうしなわれつつある。社会の10~20%を占める上層をみると、親と子の地位の継承性が強まり、戦前以上に「努力してもしかたない」=「閉じた社会」になりつつある。
それは選抜のシステム、つまり学歴や職業上の地位を得るための競争のシステムが飽和したためであり、その結果、戦後の産業社会をささえてきた重要な基盤がほりくずされている。一方では、上層を占めるエリートたちが「実績」の名の下にみずからを空洞化させつつある。他方では、そうでない人々が「努力すればナントカなる」という形で将来に希望をもち、社会への信頼を保つことがむずかしくなりつつある。それが現在の日本社会のいつわらざる現状である。」(p13)
この本の初版は2000年なので、「現在」というのが20年以上前であることには注意が必要である。
とはいえ、今や「親ガチャ」が流行語になるくらいなので、この予言は当たっていたと言わざるを得ない。
さて、佐藤氏は、この流れについて、「学歴や職業上の地位を得るための競争のシステムが飽和した」と述べて、システムの自壊の結果と捉えている。
だが、見方を変えると、当時の経営者・ホワイトカラー上層が、自らの「実績」を一代限りで終わらせないために、競争のシステムに変更を加えたということも出来そうである。
何が言いたいかというと、彼ら/彼女らは、既存のシステムを、「競争させないシステム」(競争以外のものが決定的な要因となるシステム)へと変更することを狙ったのではないかということである。
例えば、「お嬢さま」であるかどうかは生まれた病院によって決まり、東京であれば慶応大学附属病院や山王病院などでなければならない(p2〜)、正社員として入社・出世するためには親も同じ会社か同じ業界の社員でなければならない、などといった明示又は黙示の規準が出てくる。
つまり、ある層の人たちが、競争(良いイメージの言葉で言い換えると「みんなで努力」)が意味を持たないようなシステムを求めたわけである。
これは、無駄な努力を省くという意味では、プラスの効果を持ち得たのかもしれない。
たしかに、私だって、女子バレーの大松監督や「東京物語」の志げのような親から「一生懸命努力して競争に勝ちなさい!」などと叱咤されるような人生はまっぴらである。
だが、「永続」までは望まないまでも、「我が子に自分と同じ苦労をさせたくない」あまり、「競争させないシステム」を手っ取り早く構築しようとして、トップやメンバーの就任・加入・昇格について「世襲」原理を採用してしまうことが、集団の「枝分節」化、そして必然的に「階層化」を帰結することは、既に指摘したとおりである。
不平等社会日本 さよなら総中流 佐藤俊樹 著
「あらかじめ答えをいっておくと、戦後の高度成長期にはたしかに日本は、戦前にくらべて「努力すればナントカなる」=「開かれた社会」になっていた。だが、近年、その開放性は急速にうしなわれつつある。社会の10~20%を占める上層をみると、親と子の地位の継承性が強まり、戦前以上に「努力してもしかたない」=「閉じた社会」になりつつある。
それは選抜のシステム、つまり学歴や職業上の地位を得るための競争のシステムが飽和したためであり、その結果、戦後の産業社会をささえてきた重要な基盤がほりくずされている。一方では、上層を占めるエリートたちが「実績」の名の下にみずからを空洞化させつつある。他方では、そうでない人々が「努力すればナントカなる」という形で将来に希望をもち、社会への信頼を保つことがむずかしくなりつつある。それが現在の日本社会のいつわらざる現状である。」(p13)
この本の初版は2000年なので、「現在」というのが20年以上前であることには注意が必要である。
とはいえ、今や「親ガチャ」が流行語になるくらいなので、この予言は当たっていたと言わざるを得ない。
さて、佐藤氏は、この流れについて、「学歴や職業上の地位を得るための競争のシステムが飽和した」と述べて、システムの自壊の結果と捉えている。
だが、見方を変えると、当時の経営者・ホワイトカラー上層が、自らの「実績」を一代限りで終わらせないために、競争のシステムに変更を加えたということも出来そうである。
何が言いたいかというと、彼ら/彼女らは、既存のシステムを、「競争させないシステム」(競争以外のものが決定的な要因となるシステム)へと変更することを狙ったのではないかということである。
例えば、「お嬢さま」であるかどうかは生まれた病院によって決まり、東京であれば慶応大学附属病院や山王病院などでなければならない(p2〜)、正社員として入社・出世するためには親も同じ会社か同じ業界の社員でなければならない、などといった明示又は黙示の規準が出てくる。
つまり、ある層の人たちが、競争(良いイメージの言葉で言い換えると「みんなで努力」)が意味を持たないようなシステムを求めたわけである。
これは、無駄な努力を省くという意味では、プラスの効果を持ち得たのかもしれない。
たしかに、私だって、女子バレーの大松監督や「東京物語」の志げのような親から「一生懸命努力して競争に勝ちなさい!」などと叱咤されるような人生はまっぴらである。
だが、「永続」までは望まないまでも、「我が子に自分と同じ苦労をさせたくない」あまり、「競争させないシステム」を手っ取り早く構築しようとして、トップやメンバーの就任・加入・昇格について「世襲」原理を採用してしまうことが、集団の「枝分節」化、そして必然的に「階層化」を帰結することは、既に指摘したとおりである。
おまけに、コニャティークなネットワーク形成によって、この集団はどんどん増殖していく。
そして、佐藤氏も予言したとおり、「努力してもしかたない」人たちが相当数にのぼるような社会(現在の日本)は、やがて衰退・崩壊するだろう。
それだけでなく、私などは、この”一撃”が、何とも不気味なものを蘇らせてしまうのではないかという恐怖を抱くのである。
そして、佐藤氏も予言したとおり、「努力してもしかたない」人たちが相当数にのぼるような社会(現在の日本)は、やがて衰退・崩壊するだろう。
それだけでなく、私などは、この”一撃”が、何とも不気味なものを蘇らせてしまうのではないかという恐怖を抱くのである。