Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

カイシャ人類学(5)

2022年05月04日 06時30分13秒 | Weblog
日本人の国家生活 石井 紫郎
 「わが国の場合、ある地位の世襲性がことさら論じられ、否認されることはきわめて稀であった。能力主義を強調し、孟子に拠って、「聖人ノ道ニハ・・・・・・世官トテ大役ヲ代々スルコトヲ深ク戒ト仕玉フ」(『政談』巻之三)という徂徠のような例は、むしろ例外に属するのであるが、この徂徠でさえ、(中略)世襲制を「人情ノ常」として肯定し(ていた)。(中略)
 一般には、世襲制はむしろ当然のこととして前提されていたし、養子も(異姓養子も含めて)、さまざまな制限が設けられていたにせよ、制度的に公認されていたことは『武家諸法度』にみえるとおりである(中略)。わが国においては、世襲制の有無がーーヨーロッパとちがってーーある地位の性格をきめる決定的な論点ではなかったといってよい。この点、異姓養子がみとめられていたことが一つの鍵である。世襲制は「家」の存続という観点からすれば、むしろ不可欠の前提であって、徂徠が世襲制を「人情ノ常」として「聖人ノ道」に合致するとみたのも、こうした背景があったためだと考えられる。総じて「職分」論をはじめとするわが国近世の国制的諸地位に関する論議も、世襲制を当然に前提にした「家」の観念と結びついて展開されることが多かった。「家職」という言葉がしばしば用いられたのはこのことと関連している。
」(p194~196)
 「本節の最後に指摘しておきたいのは、「職分」ないし「家職」の体系は、少なくとも幕末期には天皇にまで拡大されているということである。(中略)しかし、憲法を「皇祖伝来の御家法」の近代的発現形態としてとらえ、天皇は「国民を愛護する」「天職」をもつ、という思想をもって、井上毅が明治憲法を起草したことを考えるとき、ここに、近世の「家職」論との連続性を否定することはできない。このような意味で、近世国家は「職分」(家職)国家であった。」(p199~200)

 石井紫郎先生による「家職国家」論。
 記念碑的な論文であるが、政・官・財の領域で世襲化が進行した現在においても参考になるところが多い(但し、現在では「家職国家」かつ「家職社会」という表現の方が適切かもしれない。)。
 現代との相違として注意を要するのは、近世の「家職国家」において最重視されていたのは、「イエ」の要素のうちの「職」(事業)の連続性であって、「屋号」(苗字)の連続性ではなかったという点である。
 「異姓養子」が許容されていたということは、「職」(事業)の変更が許されていなかったことの裏返しにほかならない。
 これは、言うまでもなく、職業=身分の固定(職業選択の不自由)こそが武士による支配の必要条件だったためであり、こうした事情のない現在にあっては、むしろ「屋号」(苗字)の連続性こそが重視される・・・というのが私の仮説である。

 
 
コメント
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