贈与論 マルセル・モース 著 , 吉田 禎吾 翻訳 , 江川 純一 翻訳
「われわれがこれまでに記述した社会のすべては、現代ヨーロッパの諸社会を除き、分節化された社会である。・・・大家族は多かれ少なかれ、その内側においては分割されず、外側においては相互に孤立していた。」(p287)
「彼らには他の選択肢がなかった。二つの集団が出会うと、互いに離れるかーー警戒されたり喧嘩を売られたりすると戦うのであるがーーあるいはよく話し合うかしかないのである。」(p288~289)
マルセル・モース先生の困った癖に、「大事なことを終わり近くになって書く」というのがあると思う。
このくだりは正にその例で、私は、読みながら心の中で「これを最初に書いてください」と叫んでしまった。
ちなみに、木庭顕先生によれば、原文の ”segmentées”を「分節化された」と訳すのはまずく、「枝分節化された」とするのが適切だという("articulation"=「分節」と訳し分けて区別するため)。
モースによれば、「枝分節集団」とは、(クランや大家族のような)「内側においては一つ(分割(分節)されていない)」かつ「外側においては相互に孤立している」集団を指す。
「イエ」は枝分節集団の典型例であるが、後半のくだりを読めば分かるように、原始社会において、この種の集団は基本的には暴力組織だった。
この種の集団の行動原理は ”réciprocité”(レシプロシテ:相互依存、互酬性)であり、これは "échange”(エシャンジュ:不透明な利益交換)によって媒介される(「忠臣蔵」における四十七士の報復行動、身近なところでは義理チョコに返礼しない男性社員に対するOLの報復行動なんかが分かりやすいかも?)。
レシプロシテは集団間・集団内部で貫徹され、エシャンジュが実践されるのである。
それでは、なぜこのような思考・行動が生じるのだろうか?
「最高位になること、最も立派になること、一番幸運に恵まれること、誰よりも強くなること、最も豊かになること。問われているのはそうなるための方法である。貰ってきたものを後に部下や親族に再分配することで、首長は彼のマナを堅固なものにする。首飾りには腕輪を、訪問には歓待を返すなどして、彼は首長間での地位を保つ。このような場合、富はあらゆる観点からみて有用物であり、それと同時に権威の手段である。果たしてわれわれの場合、これと異なっているだろうか。われわれにおいても、富とは何よりもまず他者を支配する手段なのではないだろうか。」(p277)
「われわれがこれまでに記述した社会のすべては、現代ヨーロッパの諸社会を除き、分節化された社会である。・・・大家族は多かれ少なかれ、その内側においては分割されず、外側においては相互に孤立していた。」(p287)
「彼らには他の選択肢がなかった。二つの集団が出会うと、互いに離れるかーー警戒されたり喧嘩を売られたりすると戦うのであるがーーあるいはよく話し合うかしかないのである。」(p288~289)
マルセル・モース先生の困った癖に、「大事なことを終わり近くになって書く」というのがあると思う。
このくだりは正にその例で、私は、読みながら心の中で「これを最初に書いてください」と叫んでしまった。
ちなみに、木庭顕先生によれば、原文の ”segmentées”を「分節化された」と訳すのはまずく、「枝分節化された」とするのが適切だという("articulation"=「分節」と訳し分けて区別するため)。
モースによれば、「枝分節集団」とは、(クランや大家族のような)「内側においては一つ(分割(分節)されていない)」かつ「外側においては相互に孤立している」集団を指す。
「イエ」は枝分節集団の典型例であるが、後半のくだりを読めば分かるように、原始社会において、この種の集団は基本的には暴力組織だった。
この種の集団の行動原理は ”réciprocité”(レシプロシテ:相互依存、互酬性)であり、これは "échange”(エシャンジュ:不透明な利益交換)によって媒介される(「忠臣蔵」における四十七士の報復行動、身近なところでは義理チョコに返礼しない男性社員に対するOLの報復行動なんかが分かりやすいかも?)。
レシプロシテは集団間・集団内部で貫徹され、エシャンジュが実践されるのである。
それでは、なぜこのような思考・行動が生じるのだろうか?
「最高位になること、最も立派になること、一番幸運に恵まれること、誰よりも強くなること、最も豊かになること。問われているのはそうなるための方法である。貰ってきたものを後に部下や親族に再分配することで、首長は彼のマナを堅固なものにする。首飾りには腕輪を、訪問には歓待を返すなどして、彼は首長間での地位を保つ。このような場合、富はあらゆる観点からみて有用物であり、それと同時に権威の手段である。果たしてわれわれの場合、これと異なっているだろうか。われわれにおいても、富とは何よりもまず他者を支配する手段なのではないだろうか。」(p277)