Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

カイシャ人類学(11)

2022年05月10日 06時30分05秒 | Weblog
贈与論 マルセル・モース 著 , 吉田 禎吾 翻訳 , 江川 純一 翻訳
 「われわれがこれまでに記述した社会のすべては、現代ヨーロッパの諸社会を除き、分節化された社会である。・・・大家族は多かれ少なかれ、その内側においては分割されず、外側においては相互に孤立していた。」(p287)
 「彼らには他の選択肢がなかった。二つの集団が出会うと、互いに離れるかーー警戒されたり喧嘩を売られたりすると戦うのであるがーーあるいはよく話し合うかしかないのである。」(p288~289)

 マルセル・モース先生の困った癖に、「大事なことを終わり近くになって書く」というのがあると思う。
 このくだりは正にその例で、私は、読みながら心の中で「これを最初に書いてください」と叫んでしまった。
 ちなみに、木庭顕先生によれば、原文の ”segmentées”を「分節化された」と訳すのはまずく、「枝分節化された」とするのが適切だという("articulation"=「分節」と訳し分けて区別するため)。
 モースによれば、「枝分節集団」とは、(クランや大家族のような)「内側においては一つ(分割(分節)されていない)」かつ「外側においては相互に孤立している」集団を指す。
 「イエ」は枝分節集団の典型例であるが、後半のくだりを読めば分かるように、原始社会において、この種の集団は基本的には暴力組織だった。
 この種の集団の行動原理は ”réciprocité”(レシプロシテ:相互依存、互酬性)であり、これは "échange”(エシャンジュ:不透明な利益交換)によって媒介される(「忠臣蔵」における四十七士の報復行動、身近なところでは義理チョコに返礼しない男性社員に対するOLの報復行動なんかが分かりやすいかも?)。
 レシプロシテは集団間・集団内部で貫徹され、エシャンジュが実践されるのである。
 それでは、なぜこのような思考・行動が生じるのだろうか?

 「最高位になること、最も立派になること、一番幸運に恵まれること、誰よりも強くなること、最も豊かになること。問われているのはそうなるための方法である。貰ってきたものを後に部下や親族に再分配することで、首長は彼のマナを堅固なものにする。首飾りには腕輪を、訪問には歓待を返すなどして、彼は首長間での地位を保つ。このような場合、富はあらゆる観点からみて有用物であり、それと同時に権威の手段である。果たしてわれわれの場合、これと異なっているだろうか。われわれにおいても、富とは何よりもまず他者を支配する手段なのではないだろうか。」(p277)
 
コメント
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