Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

「愛」を語る前になすべきこと(2)

2024年07月11日 06時30分00秒 | Weblog
 こういうテーマを含んだ作品である以上、真と偽が混淆する”情報(映像)の波”の中で、ガザで現在起こっていることを正確に把握しておく必要があるだろう。
  「モーリーの考察」は、これを一読した限りでは、大きく間違っていないようにも感じるのだが、それを含めて興味深いのは、この紛争の当初、欧米の当局や知識人の多く(ユルゲン・ハーバーマスを含む)が、イスラエル擁護の姿勢を明らかにしていたことである。
 おそらく、橋本さんは、この背景にある思考を問題にしたいのではないだろうか?

 「核心をついた考察を提示しているのが、イラン出身で在米の研究者、ハミッド・ダバシです。2023年12月29日に「イスラエルの対ガザ戦争にはヨーロッパ植民地主義の歴史全体が含まれている」という論考を発表しています。その中でイスラエルがパレスチナに対して行っている占領および占領地に対する攻撃、最終的にはその抹消まで視野に入れた今回のガザ攻撃は、ヨーロッパの植民地主義の延長であり、濃縮したものだとして、その特徴を3つ挙げています。 
 1つは、「セトラー・コロニアリズム(入植者植民地主義)」です。ヨーロッパの中で宗教的なマイノリティやアウトロー的な存在の人たちが入植地に集団で入植し、自分たちのコミュニティをつくり、最終的には国をつくることです。アメリカ合衆国が典型ですが、イスラエルもその1つです。ヨーロッパの中で迫害を受けたユダヤ人たちが、セトラー・コロニアリズムを実践してパレスチナの地でイスラエルという国をつくりました。
 2つめは「マニフェスト・デスティニー(明白なる天命)」です。アメリカ合衆国の西部開拓運動において、先住民を追い出して土地を自分のものにすることが、神に与えられた使命だとして正当化されました。イスラエル建国においても、「約束の地(神に約束された土地)」という言葉を政治的に利用し、先住アラブ人を追い出して国をつくることが正当化されました。
 3つめは「すべての野蛮人を根絶やしにせよ」です。これは、1899年にイギリスで発表されたジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』という、アフリカの奥地に渡った武器商人の小説に出てくる言葉です。「野蛮人」とは先住民のことです。18~19世紀のアフリカや南北アメリカでは、先住民の大虐殺がホロコーストにさきがけて起きていました。ダバシはこのイデオロギーも、イスラエルが対ガザ戦争で持っていると言っています。
 これらの3つは欧米至上主義の特徴です。イスラエルはそれを共有し、反復しているのです。現に昨年10月からイスラエルのネタニヤフ首相、ヘルツォーグ大統領は、「ガザ攻撃は西洋文明を守る戦争なのだから、欧米はわれわれを支持し、支援せよ」という主旨の発言を繰り返しています。

 欧米諸国によるイスラエル支持の根底には、植民地主義の思考があるという主張である。
 このハミッド・ダバシ氏の主張に基づけば、現在ガザで起きていること、あるいはイスラエル建国宣言以降起こってきたことは、かつてピューリタンたちが北アメリカ大陸で行ったこと、すなわちインディアン(今のアメリカでは「ネイティヴ・アメリカン」と呼ぶ)の虐殺と同様の事態だということになる。
 ピューリタンたちは、ネイティヴ・アメリカンを「透明化・周縁化」、要するに「いないことにした」。
 これと同様、ガザでは、そこで暮らしているいわゆる”パレスティナ人たち”が、「いないことにされようとしている」というのである。
 現在の状況について言えば、「イスラエル国民の命を守るため、テロ組織であるハマスを殲滅する」という大義名分のもとに(いないことにされた)無辜のガザ市民の命が奪われている、というのは客観的にみて動かない事実だろう。
 これは、決して他人事ではない。
 私は、この種の「いないことにする」思考に直面すると、「アメリカ国民の命を守るため、日本を早期に降伏させる」という大義名分のもとに広島と長崎に原爆が投下され、多くの市民の命が奪われた事実を思い出すのである。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「愛」を語る前になすべきこと(1)

2024年07月10日 06時30分00秒 | Weblog
 「本作は、古代ギリシャの哲学者・プラトンの対話編『饗宴』への批判的な視点を出発点として手がけられたもの。『饗宴』では、詩人、知識人たちによる「愛(エロス)」についての演説、ソクラテスの「智慧(ソフィア)」への賛美が語られている。その『饗宴』が、2024年の東京で開かれるとしたら、そこに集まる人々とは誰か。そこではどのような「愛」や「智慧」が語られるのか。現代における「マイノリティ・ポリティクス」に焦点を当て、社会で透明化された人々のための愛のメッセージを、身体表現で可視化するものとなる。 
 開幕に合わせて、橋本は次のようにコメントしている。 私が望むことは、このような作品を作る必要が無い世界です。何十年も前のアーティストが訴えていた願いを、いまだに引き継ぐ必要の無い世界です。この怒りが諦めに変わる前に、私は評価の代わりに、変化を望みます。どうかこの作品がフィクションの蓋で閉じられないことを、そして、どこかで新たなノイズを生むものになることを願います。

 「第三のステージ」を創り上げたと評される橋本ロマンスさんの新作。
 発売と同時に最前列中央の席をゲットする。
 だが、公演約1か月前に、出演が予定されていたモーリー・ロバートソン氏の降板が発表された(『饗宴/SYMPOSION』出演者降板のお知らせ)。
 降板の理由は、公演内容とモーリー氏の言説を見れば分かる。

演出・振付家ご挨拶
 「この作品は、プラトンによる対話篇『饗宴』への批判的な視点から出発しました。古代アテネの男性の知識人たちが朗々と愛を演説する行為への強い違和感。特権階級によって定義される愛のグロテスクさ。では、もし2024年の東京で、愛を語る場があるとしたら、そこには誰が集まるべきなのか。そこでは、どのような愛が語られるのか。そもそも、安全に愛を語ることが出来る場所は残っているのだろうか・自分自身にも向けられたこの質問から、この作品は立ち上がっていきました。
 ずっと信じてきた「平和」という言葉が、実は抑圧の上に立っているものだということを、私は2023年10月7日以降、強く認識するようになりました。「みんな」の平和を維持するために、踏みつけられ、いないことにされている存在の姿。それは、さまざまなマイノリティ属性や障害を社会からラベリングされ、差別を受け、透明化され、周縁化される人々の姿です。このような世界で、私は皆さんと同じように、アーティストである前に一人の労働者として、ノンバイナリーのクィアとして、そして一人の市民として生きています。(以下略)」

 1段落目(愛)と2段落目(平和)の間に飛躍があるかのようだが、決してそうではない。
 「愛」を語ることの前提と思われてきた「平和」が、実は抑圧の上に立っていることを、(適当な呼び名がないのでこう名付けるが)ガザ紛争が明らかにしたというのである。
 ところが、この紛争の本質の解釈を巡って、モーリー氏は、橋本氏のスタンスに賛同することが出来なかったというのが、おそらくは降板の真相なのだろう。

 「ただ、今自分が怒りを感じるニュースを見つめつつ、同時にパズル全体も見つめる必要があります。自分にとって"つかみ"のある半径に絞った「正義」、実務的な解決を無視した善悪二元論の断罪を続けても、結局事態は良い方向に進展せず、絶望と徒労だけが残る。
 Perspectiveな視点を持ちつつ、本質的に自分に何ができ、何に貢献できるかを考えたほうが、社会も、弱者も、そしてあなた自身も救われます。
 これは戦争や紛争に限ったことではなく、地球環境やアニマルライツの話も同じです。あらゆる問題は「待ったなし」だけれども、簡単な解決方法はなく、個人ができるオプションも限られています。
 それでもなんとかしなければと焦って、無関心な人を不愉快にさせてでも問題の存在を知らしめようとアテンション・エコノミー的な抗議行動に出たり、問題の根源を探そうとして陰謀論に迷い込んだりする人々は後を絶たない。
すると、「正しさ」から出発したはずなのに"共感してくれる人の半径"がどんどん狭まっていき、疲労が蓄積して活動がしぼんでいくのです。
 動くことは大切です。ただ、問題はどうやって情熱を維持しながら燃え尽きないようにやっていくか。やはり俯瞰した視点から世界への理解を深め続けるしかないのでしょう。

 ある意味”大人の意見”であり、殆ど「饗宴」(及び橋本氏や出演者らの試み)に対する批判のようでもある。
 だが、私見では、このようなモーリー氏的なスタンスにも大きな問題があるというのが、橋本氏のメッセージだったように思われる。
 つまり、橋本氏は、この種の”局外中立”は実践的には「無関心」と等価値であり、一種の暴力ですらあるということを、伝えようとしたのではないか?
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脱”ヒト”化

2024年07月09日 06時30分00秒 | Weblog
2019年には13年ぶりに来日し、神奈川公演では異例の立ち見がでる盛況で、大きな話題となりました。このNDTが、2020年より芸術監督を務めるエミリー・モルナーとともに5年ぶりに再来日し、豪華5作品から3作品を全公演異なる組合せで上演します。
 今回の来日公演に選んだのは、今最も注目度の高い人気振付家であるNDTのアソシエイトコレオグラファーのクリスタル・パイトとマルコ・ゲッケ、そしてピーピング・トムを率いて目覚ましい活躍を見せるガブリエラ・カリーソ、L-E-Vの振付家シャロン・エイアール&ガイ・べハール、さらに巨匠ウィリアム・フォーサイスの世界最前線の表現者たちによる、カンパニーの魅力を余すとことなく知ることのできる多様な作品群。

 2019年公演で大きな衝撃を与えたNDT1の来日公演。
 最速で最前列中央付近のチケットをゲットしたものの、会場に着いて「あああっー!」と声をあげそうになった。
 目当ての、クリスタル・パイト(言葉を超える(1))とウィリアム・フォーサイスの作品が上演されない日のチケットを買っていたのである。
 前回公演では、同じ作品を2回?上演したという記憶だったので、今回も同じだろうと思っていたのだが、今回は「豪華5作品から3作品を全公演異なる組み合わせで上演」したのである。
 さて、一つ目の "La Ruta" は、スペイン語で「道」を意味するが、振付家の言葉からすると、「コントロール不能な夢の世界」を描いているようだ。
 舞台には、道路とバス停のような建物があり、間歇的に車がやってきて、ちょっとしたアクシデントを生じさせる。
 印象的なのは、車に轢かれたシカから心臓が取り出され、男の胸に移植?された後、男が動物のような動きを始めるところ。
 そういえば、車から降りて暴れ出す女性も、ヒトとは思えないグロテスクな動きに終始していた。
 二つ目は、マルコ・ゲッケ(Marco Goecke)の ”I love you, gohsts”。
 観たことのある人なら分かると思うが、彼の作品の動きは、私見ではあるけれど間違いなく、
・ハエ
・カマキリ
・バッタ
・カエル
・トカゲ
・ムカデ
といった、ヒト以外の動物の動きが取り入られている。
 今回もそうなのだが、意表を突いたのは、後半で男性のダンサー2人が、
 「ワン」
と吠えたところである。
 そう、私は初めて見たのだが、彼の作品にイヌが登場したのである。
 ちなみに、彼はダックスフントを飼っているそうだ。

 「ゲッケ氏は公共放送NDRに対し、ヒュスター氏から「糞便(ふんべん)(のようなひどい批評)を何年も投げ付けられている」と主張。そこで飼い犬のダックスフントの排泄物が入った紙袋を使ってヒュスター氏を攻撃したと語った。「もちろんこれは言い訳であり、歌劇場のような公共の場で起きていい出来事ではなかった。当然ながら観客が恐怖を感じたのも事実だ。その点について非常に申し訳なく思っている」(ゲッケ氏)

 最後の演目は、イスラエル出身のデュオ:シャロン・エイアールとガイ・べハールによる "Jackie"。
 映像からも分かるように、密着した多数のダンサーによる動物的、というか半神的な動きが特徴と思われる。
 やはり、ここでも、”ヒト”を超越した動きがテーマになっているようだ。
 以上の3作品で感じるのは、「脱”ヒト”化」の傾向である。 
 バレエ・リュスの「牧神の午後」、ベジャールの「春の祭典」、マシュー・ボーンの「白鳥の湖」のように、ヒトならぬ存在(牧神、シカ、白鳥)の動きを模したダンスは従前から存在したが、虫や半神を、ソロだけでなく群舞で表現する流れは、やはり新しいのではないだろうか?
 もちろん、この傾向が何を目指しているのかは、素人である私には、十全には分かりかねる。
 もし仮に「意味などなく、奇妙さ自体に価値がある」というのであれば、これは、「ヨーロッパにおけるコンテンポラリー・ダンスの"村上春樹"化」を示す現象なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビブラートとメイクアップ

2024年07月08日 06時30分00秒 | Weblog
バルトーク:2本のチェロのためのソナタ より
(Vc:三宅進、西谷牧人)
ベートーヴェン:チェロとピアノのためのソナタ第4番 ハ長調 作品102-1
(Vc:ゲイリー・ホフマン、Pf:練木繁夫)
コダーイ:無伴奏チェロソナタ 作品8 第1楽章
(Vc:ハン・ジェミン)
チェロアンサンブル・セレクション「シュタルケル100周年アンサンブル」
*バッハ、ヴィヴァルディ、ヘンデル、ブラームスなどの名曲を、今回のアンサンブルのための特別編曲版で演奏します。
(Vc:堤剛、ヤン・ソンウォン、オーレ・アカホシ、マーク・コソワー、マルク・コッペイ、マルティナ・シューカン、エリザベス・ドーリン、アンジェル・ガルシア・ヘルマン、サンティアゴ・キャノン・ヴァレンシア、三宅進、西谷牧人、ハン・ジェミン)
(アンコール)バッハ:無伴奏チェロ組曲第6番サラバンド

 ヤーノシュ・シュタルケルは、世界的に有名なチェリストであるが、教育者としても活躍し、堤剛氏らの師として知られる。
 今年はシュタルケル生誕100周年ということで、彼の弟子らがソウルと東京でリサイタルを行った。
 東京では7/5~7/7の3日間開催されたが、私が行ったのは中日の「ソナタ&アンサンブル」。
 小ホール(ブルーローズ)という会場の選択も良い。
 大ホールだと、どうしても弱音が遠い席には届かないからである。
 さて、思わず唸ってしまったのは、ハン・ジェミン氏のコダーイで、楽譜はなく、殆ど目をつぶったまま迫力のある音を紡ぎ出すところは衝撃的である。
 というか、この曲は(もちろん一流のソリストが弾けばという話だが)そもそも神曲に属しているのだろう。
 後半は17名のチェリストによる豪華なアンサンブル。
① ヘンデル:二重協奏曲第2番より第5楽章
② ポッパー:「昔々もっと美しい日々に(我が両親の思い出)」
③ ブラームス:ハンガリー舞曲第1番
④ ヴィヴァルディ:協奏曲RV151「田舎風」より第1楽章
⑤ バッハ:「主よ、人の望みの喜びよ」
⑥ ヴィヴァルディ:協奏曲RV157より第3楽章
⑦ ヘンデル:「私を泣かせてください」
⑧ ブラームス:ハンガリー舞曲第5番
⑨ ヘンデル:「オンブラ・マイ・フ」
⑩ ポッパー:ハンガリー狂詩曲
というセトリだが、ヘンデルのメロディーはチェロにドンピシャリという印象である。
 面白いのはポッパーの2曲で、シュタルケルはこの作曲家がお気に入りだったようだ。
 ハンガリー狂詩曲は非常に劇的な曲で、一番盛り上がったと思う(これはCDが欲しくなる)。
 ところで、シュタルケルは、特に若い頃は厳しい指導で有名だったらしい。
 堤さんも厳しい指導を受けたらしく、ビブラートについて、シュタルケルからはこんな言葉が飛び出したそうである。
 「ビブラートのしすぎは、メイクアップを盛りすぎている女性と同じようなものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「つくる」、「うむ」、「なる」?

2024年07月07日 06時30分00秒 | Weblog
パレストリーナ:ミサ曲集 第9巻《主よ、われ御身に依り頼みたり》 -キリエ
モラレス:天の女王、喜びませ (レジーナ・チェリ)
パレストリーナ:ミサ曲集 第12巻《汝はペテロなり》 -グローリア
フェスタ:あなたは何にもまして美しい
カルパントラ:哀歌
パレストリーナ:ミサ曲集 第2巻《教皇マルチェルスのミサ》 -クレド
アレグリ:ミゼレーレ (神よ、われを憐れみたまえ)
パレストリーナ:ミサ曲《主よ、感謝を捧げます》より-サンクトゥス
ジョスカン・デ・プレ:万物の連なりを超えて
パレストリーナ:ミサ・ブレヴィス、 -アニュス・デイ 
(アンコール)
Henry Percell:Hear my prayer, O Lord

 チケットは完売で、3階席までぎっしりと席が埋まっている。
 私は初めて聴くので詳しくないのだが、結成50周年記念ワールドツアーということと、システィーナ礼拝堂で400年継承される秘曲「ミゼレーレ」が演奏されるということで、こういうことになったのかもしれない。
 確かに、「ミゼレーレ」はアカペラ教会音楽の頂点と言える曲で、一度は聴くべき曲の一つだろう。 
 だが、私が最も強い印象を受けたのは、「ミゼレーレ」ではなく、パレストリーナの「クレド」である。

Palestrina:Missa Papae Maecelli (Credo)
Deum de Deo; Lumen de Lumine;
Deum verum de Deo vero;
genitum, non factum;
consubstantialem Patri;
per quem omnia facta sunt.
神から出た神であり、光から発した光であり、
 本当の神から出た本当の神であって、
 作られることなく、生まれ出て、
 父と一体であり、
 その方によって万物が作られた(そのイエスを信じます))(訳:三ヶ尻正)

 注目すべきは、「つくる」と「うむ」(うまれでる)という2つの動詞であり、ここに顕れた思考は、日本の伝統的な思考とはおよそ対極にある。
 
 「世界の諸神話にある宇宙(天地万物人間をふくむ)の創生論を見ると、その発想の基底に流れている三つの基本動詞にぶつかる。「つくる」と「うむ」と「なる」である。・・・
 「つくる」論理を純粋化すると、つくるものとつくられるものとは、主体と客体としてまったく非連続になり、それだけ「うむ」論理ーーそこではうむものとうまれるものとの間には血の連続性があるーーから離れる。その意味では、「つくる」にたいして、「うむ」と「なる」とが対峙する位置を占める。けれども他方から見ると、「A(たとえば世界)がなる」=(生る、あるいは成る)といえば、主語がAであることは自明だが、これに対して「生む」も「つくる」も他動詞だからして、「Aを生む」あるいは「Aをつくる」といえば、どうしてもAの外に、誰がという主語Xが問われなければ、完結的な命題をなさない。この点では、「うむ」と「つくる」とは同じ側にあって、「なる」に対立することになる。」(p359~361)

 「クレド」は、ユダヤ=キリスト教系列の世界創造神話を前提としているわけだが、この歌詞から、「うむ」かつ「つくる」主体である神とイエスに、「つくられる」客体である(われわれ人間を含む)万物がみごとに対置されているのが分かる。
 また、ここに「なる」という動詞が出て来ないのは当然である。
 これを許すと、神とイエスの「主体」たる地位を脅かすことになるからである。
 面白いのは、丸山先生が言うところの「血の連続性」、正確には「ゲノムの連続性」が、genitum (もとは gingere :生む) という動詞によって表現されているところ。
 これによって、神→イエスの連続性(ないし同一性?)は、ゲノムの同一性を根拠としていることが明らかとなる。
 ちなみに、このゲノムの同一性を「フォルム」(イデア)によって判定するのが、(ユダヤ=キリスト教を含む)西欧文明を通底する思考であるというのは私の仮説である(「父」の承継?(4))。
 ここで、聖母マリアの存在が無視され、神がイエスを生んだという表現になっているのは、マリアのゲノムが混入することを認めるのはさすがにまずいためだろう。
 以上に対して、西欧のゲノムに相当するものが、日本の「イエ」(苗字、屋号)であることは言うまでもない。
 この点、丸山先生は、
 「家系(いえ)の無窮な連続ということが、われわれの生活意識のなかで占める比重は、現代ではもはや到底昔日の談ではない。」(p422)
と指摘するが、果たしてこれは正しいといえるのだろうか?
 中央政界について言うと、歴代の首相の経歴を見ただけでも、「家系(いえ)の無窮な連続」は続いているのではないだろうか?
 まあ、今秋にも予想される総裁選の顔ぶれを見れば分かるのだろう。
 ・・・待てよ、その前に都知事選があるではないか!
 ポスターや政見放送をみる限り、都民はむしろ「イエなき子」になってしまっているのではないか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映像の落とし穴

2024年07月06日 06時30分00秒 | Weblog
 「音楽と映像がとても深いところで一体化して、見る人、聴く人に迫ってくるこのコンサートは、感動の力が通常のコンサートや通常の映像の鑑賞では想像できないほどの力でみなさんの心に押し寄せてきます。
それが何といっても最大の見どころ、聴きどころです。
 その感動を、ぜひ多くのみなさんに体験していただきたいと思います。
────加古 隆

 2016年から開催されている「映像の世紀」コンサート。
 オケは東フィル、ピアノ演奏と作曲は加古隆さんだが、加古さんはメシアンの弟子だそうである。
 そうなると、どうしても先日の東フィルの「トゥルンガリーラ交響曲」を思い出してしまう(愛、あるいは無秩序を包摂する”森”)。
 もちろん、指揮はコバケン先生ではなく、秋山和慶さんである。
 さて、このコンサートを分かりやすく説明すると、オケとピアノの演奏を聴きながら、大スクリーンで主に戦争の映像を観るというもの。
 ほぼ大半が戦争の映像といって良い。
 具体的に言うと、目には、
・死体(黒焦げの死体が折り重なっている、戦死者が荷車で運ばれ無造作に地面に降ろされる、など)や爆撃シーン(神風特攻隊の突撃、原子爆弾の投下・爆発)、アウシュヴィッツ収容所のやせこけた裸のユダヤ人たちなどの、目をそむけたくなるような映像のオンパレード
 耳には、
・加古さんが作曲した「パリは燃えているか」などの、美しくも哀しい・あるいは戦争を描写した衝撃的な音楽
が入って来るという、視覚と聴覚に同時に訴えかけるコンサートである。
 「眼をそむけたくなるような」という反応になったことについて、この数十年、テレビの自主規制によって、この種の映像をテレビでみる機会が減ったことが一つの要因であることを痛感する。
 「映像の世紀」が放送された1995~1996年ころは、まだこういう死体などの映像がテレビで流れていた。
 印象的だったのは、アウシュヴィッツで虐待されていたユダヤ人たちの映像だけでなく、今年のイスラエルによるガザ侵攻で被害に遭った親子の映像も出て来たこと。
 被害者と加害者は入れ替わったが、集団と集団の間の暴力の連鎖は、今も続いているわけである。
 ところで、コンサートが終わった時に私が気付いたのは、「映像の落とし穴」というものがあるのではないかということである。
 どういうことかというと、ライブ公演によく行く人間として常々思っていることだが、
 「生の演奏・演技と、映像(ストリーミング配信など)の演奏・演技は、全く別ものである」
ということである。
 映像は、いかに現実に似せて構成したといっても、結局は人工物であり、現実のうちのわずかしか伝えていない。
 むしろ、これによって人間は安全圏に逃げ込み、生の現実から遠ざかっているという見方が出来る。
 分かりやすいのは死体である。
 実際の死体は、まずもって匂い(腐敗臭)が物凄いのだが、これを映像は全く伝えない。
 こんな風に、映像には功罪両面があるということが出来そうだ。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レパートリー追加

2024年07月05日 06時30分00秒 | Weblog
ワーグナー:オペラ「ローエングリン」よりファンファーレ
(当初プログラムより変更)
オネゲル:交響詩「夏の牧歌」
Honegger: Pastorale d'été
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 Op.58
Beethoven: Piano Concerto No.4 in G-major op.58(ピアノ:反田恭平)
ウィンケルマン:ジンメリバーグ組曲
Winkelmann:Simmelibärg-Suite(アコーディオン:ヴィヴィアンヌ・シャッソ)
メンデルスゾーン:交響曲 第4番 イ長調 Op.90「イタリア」
Mendelssohn: Symphony No.4 in A-major op.90 ”Italian”

 バーゼル室内管弦楽団は初来日ということで、私を含め殆どの人が初見のはず。
 冒頭の「ファンファーレ」だが、トランペットが今一つ安定せず、モヤモヤした感じのまま、オネゲル「夏の牧歌」に入る。
 弦楽器は上手いようだが、やはり金管楽器はやや弱いという印象。
 次に反田さんが登場し、ベートーヴェンのコンチェルト4番がピアノ・ソロで始まる。
 この始まり方は当時では画期的であり、初演がなされたウィーンのファンには大きな衝撃を与えたらしい。
 1楽章のオケはまずまずだが、目だったのは反田さんの動き。
 ときおり手を動かして指揮をしそうになる。
 ここで私はハタと気付いた。
 推測だが、反田さんは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲(おそらく全曲)を、自身の「弾き振りレパートリー」に加えたいのではないだろうか?
 ちなみに、「反田恭平&ジャパン・ナショナル・オーケストラ 2024夏ツアー」(9月)では、反田さんが「皇帝」を弾き振りする予定である。
 さて、バーゼル室内管弦楽団だが、後半で特色を前面に出してきた。
 「ジンメリバーグ組曲」は、スイスの民謡で構成された、実質的な「アコーディオン協奏曲」で、聴いていて心地よい。
 ラストの「イタリア」も、25名前後の編成にはピッタリで、良い感じである。
 おそらく一番楽しい曲は、アンコールのロッシーニ「La Danza」だろう。
 コントラバスやチェロの奏者が、ときおり楽器を回転させるのである。
 ダンスを踊っているのは、何と楽器だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パクリ疑惑(5)

2024年07月04日 06時30分00秒 | Weblog
 「音楽監督のパッパーノが最後の日本公演で日本の観客に披露したいと固執したのが、この『リゴレット』。パッパーノの絶対の自信作ですから、感動の記憶として生涯残るはずです。・・・
 日本公演には、パッパーノ指揮はもちろん、タイトル・ロールにはその才能とテクニックにパッパーノが太鼓判を押すエティエンヌ・デュピュイ、ジルダ役にはこの役で世界的に活躍しているネイディーン・シエラが登場。マントヴァ公爵役がイタリア・デビューだった“驚異のテノール”ハビエル・カマレナによる「女心の歌」もけっして聴き逃せません。

 私は、ジルダ役のネイディーン・シエラ(Nadine Sierra) の澄明な声と、よく考えられた舞台装置に感動した。
 他方、リゴレット役には”醜さ”が、マントヴァ公爵役には声量が、やや不足しているように感じられた。
 私見だが、リゴレットはやはりロベルト・フロンターリ、公爵はフランチェスコ・メーリ(Francesco Meli)かルチアーノ・ガンチあたりの方が良さげに思えた(但し、メーリの公爵役は聴いたことがないし、レパートリーにも見当たらないようだ。)。
 ネイディーン・シエラは、ヴィジュアルも声もジルダそのものだが、グノーの「ロメオとジュリエット」ではジュリエット役を演じている。
 なるほど、ジルダ≒ジュリエットということなのか?
 舞台装置で唸ったのは、二階建ての建物という設定で、その二階を、1幕ではジルダの寝室に、3幕ではマッダレーナと侯爵が寝る部屋に仕立てたところ。
 1幕の「慕わしい人の名は」をジルダが二階の寝室で歌っている最中に、彼女を拉致するため黒服の男たちが路上に次々と参集してくる場面は素晴らしく不気味であるし、3幕の「四重唱」では、路上にリゴレットとジルダ、二階に公爵とマッダレーナを配置したのが効果的で、両者のテンションの違いが際立っている。
 なお、背景に使用されるカラヴァッジオなどの絵画は、公爵が”女性コレクター”であることを示唆しているようだが、本当に効果的かどうかは不明である(このメッセージは、絵画に詳しくない人間には分かりにくい)。
 ところで、「リゴレット」を鑑賞するたびに、私はバルザックの「ゴリオ爺さん」を思い出す。
 「醜い老人と、美しいその娘」という取り合わせが共通しているからだ。
 私は、てっきりバルザックがユーゴ―の「王は愉しむ(Le roi s'amuse)」(「リゴレット」の原作)をパクったのかと思っていた。
 確かに、「王は愉しむ」の初演は1832年11月22日であるのに対し、「ゴリオ爺さん」の連載開始は1834年12月なので、ユーゴ―がオリジナルであるようにも思える。
 だが、「王は愉しむ」は一晩で上演禁止とされたらしいので、台本が市中に出回っていたとは考えにくく、これをバルザックが入手していた可能性は低そうである。
 というわけで、「パクリ疑惑」は撤回しておくのが無難なようだ。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観ていない映画について語る(9)

2024年07月03日 06時30分00秒 | Weblog
 「父の死により久しぶりに再会した兄弟は、父の遺品によって予期せぬ事件に巻き込まれていく。
 パンクロックグループのリーダーである弟のアルトゥルは、コンサート会場にやってきた兄イェジから、疎遠になっていた父が亡くなったことを告げられる。父のフラットを訪れた兄弟は、彼が膨大な切手コレクションを残していたことを知る。父のコレクションに計り知れない価値があることを知った兄弟は次第にコレクションへの執着を募らせ、偏執的になっていく......。

 このシリーズの掉尾を飾る「デカローグ10」の表題は、「ある希望に関する物語」。
 十戒で言えば、「汝、隣人の財産を欲するなかれ」に対応している。
 切手コレクターの父が死に、莫大な価値のあるコレクションを相続してそれまでの生活が一変する兄弟(兄:イェジと弟:アルトゥル)が主人公である。
 父のコレクションで唯一欠けているのが「赤いメルクリウス」。
 これは、「お金では買えない」代物である。
 映画版について詳しい解説が載ったサイトを見つけた。

 「「赤いメルクリウス」を手に入れようと切手商の男と会うのですが、取引に血液検査?血液型?の診断結果が必要って。兄弟は欲深くなっているから疑うこともなく、切手とその男の娘に腎臓を与えることに🩸に応じる。あぁ人間ってーー!
 兄イェジーの手術中に全部盗まれちゃうんですよ。兄が心配なアルトゥルは病院に泊まっていた、その夜に。アルトゥルのファンだというナースまでグルだったことが映像でわかります。
 退院して兄弟はこれまでの生活に戻るのですが、ある日、郵便局の窓がふと目に入り、切手を書います。トメクから!!!(あ、デカローグ6で自殺未遂をおこしたトメクがね!!兄弟に切手を売ったんですよ。元気になってよかったーーー。)

 二人は、「赤いメルクリウス」を手に入れようとして騙され、父のコレクションの全部を失ってしまう。
 それどころか、イェジは父の借金返済のため処分した車と、自身の片方の腎臓まで失い、相続開始前よりも状況は悪化する。
 だが、二人はそこで絶望するのではない。
 おそらくそれほど高価でない、「新しいシリーズの切手」(3枚セット)を、二人は偶然にもそろって購入し、見せ合って喜ぶ。
 「新しいシリーズだ!
という二人の声は、希望に溢れている。
 台本を書いた須貝英氏も指摘するとおり、監督らが言いたかったのは、(やや月並みな結論かもしれないが、)
 「すべてを失くしてしまっても、また始めればいい
ということだろう。
 ・・・というわけで、私がまだ観ていない映画版「デカローグ10」には、肝心かなめの、
 「新しいシリーズだ!
と兄弟が声を揃えて叫ぶシーンが出て来ると推測する。
 ところで、この「デカローグ10」と似た状況を卑近な例で例えると、
 「サマー・クラークで、夢にまで見た”ヨンダイ”の内定を獲得し、猛勉強して司法試験本番に臨んだが、不運にも失敗して不合格となり、採用担当パートナーから『内定取消し』を告げられるロースクール卒業生
などというものが考えられる(ロースクールにおける人格蹂躙とクソな競争)。
 だが、全く絶望する必要はない。
 これによって、もはや怪しげな猫やキツネがあなたに寄って来ることはなくなるだろうし、自身が「最後の一人」に近い状況に置かれたことによって、法の原点(「最後の一人」を守る)に近づくことが出来たのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観ていない映画について語る(8)

2024年07月02日 06時30分00秒 | Weblog
 「性的不能と宣告された夫は妻に事実を告げる。夫を励ます妻だが実は妻には既に若い恋人がいた。
 40歳の外科医ロマンは、同業の友人から性的不能になったと診断され、若い妻であるハンカと別れるべきではないかとほのめかされる。夫婦は診断結果を話し合い、お互いに別れる気はないことを確認するが、実はハンカは若い大学生マリウシュと浮気をしていた......。

 「デカローグ9」は、「ある孤独に関する物語」で、モーセの十戒で言えば「汝、隣人の妻を欲するなかれ」に対応している(と思う)。
 これも例によってMovie Walker Press のあらすじの方が詳しい(ややネタバレ気味ではあるが・・・)。

 「中年にさしかかった心臓外科医のロメク(ピョートル・マカリカ)は医師に性的不能を宣告される。彼は妻のハンカ(エワ・ブラシュスク)に正直に打ち明け、別れてもいいと言う。妻は肉体関係だけが愛ではないと励ますが、彼はそれも愛だと答える。果してハンカには以前から物理学科の学生マリウシュ(ヤン・ヤンコフスキ)と情事を重ねてきた。妻は早くこの関係を清算しようとするが、マリウシュが逢引きの時に車のダッシュボードにノートを忘れ、ロメクはこれを見つける。ロメクは電話を盗聴して二人の関係を確かめて妻を尾行。マリウシュと会うアパートに張り込み、妻が若い男の肉体を貪る姿まで目撃する。ある日。ハンカはアパートの衣裳棚にひそんだ夫に気づく。なじる妻に彼は自分には愛される資格はないと答え、ハンカは彼を抱きしめる。二人は冷却期間をとろうと決めて、ハンカはスキーに出かける。だが、マリウシュが彼女の後を追ったのを知り、悲嘆に暮れるロメク。ハンカはスキー場で彼に会い、胸騒ぎがして夫に電話。入れ違いで彼は出かけた後だった。急遽家路につくハンカ。それを知らず涙を流しながら、工事中の道路を全速力で駆け上がり、つきあたりで転落するロメク。ハンカは家で置手紙をみつけ、後悔と不安に泣き暮れる。そこへ九死に一生を得たロメクから電話が。妻は夫の声を聞いて微笑んだ。

 現在の日本の裁判実務において、性的不能は十分な離婚原因となり得る。
 つまり、(倫理的に正しいかどうかは別として)、法的観点からは、性的関係は、婚姻の中核的要素と見なされているのである。
 なので、ロマン(映画では「ロメク」)が自ら離婚の話を切り出したのは無理もない話であった。
 だが、妻:ハンカは、
 「肉体関係だけが愛ではない
とロマンを励まし、離婚を拒絶する。
 反面、彼女はその裏で、物理学科4年生のマリウシュと情事を重ねていた。
 このハンカの不貞がバレる過程においては、古いダイヤル式の電話が活躍する(つまり、携帯電話が普及した現在では、このストーリーは成立しない)。
 すなわち、
① ロマンとハンカの自宅の居間にある黒電話(ロマンとハンカが使用)
② ロマンの部屋にある子機の白電話(ロマンが使用)
③ 空家となっているハンカの母のアパートの白電話(主にハンカが使用)
④ 街角の公衆電話(劇中ではマリウシュとハンカが使用)
の4台である。
 ロマンは、ハンカとマリウシュとの間の会話(①とマリウシュ宅の電話の間でなされる)を子機(②)で盗聴し、次の密会の場所と日時を知る。
 ロマンは、密会の場所:ハンカの母のアパートに張り込み、ハンカとマリウシュの交合をドアの外から覗き見る。
 その後、ロマンはハンカからアパートに母の物を取りに行くよう頼まれたが、車の運転席の下に落ちていたマリウシュのノートから、彼の電話番号を知る。
 ロマンは、預かった鍵を複製して合鍵を作り、次の密会の際は、何とアパートの中の箪笥の中に入って待ち伏せする。
 密会する二人だが、ハンカはマリウシュに別れ話を切り出し、彼を冷たく追い出す。
 すると、箪笥の中から嗚咽が聞えて来て、ハンカは不貞がロマンにバレていたことを知る。
 ここからの展開は意外というほかない。
 ハンカは、
 「あなたと別れたくない・・・あなたをこんなに傷つけてたなんて・・・
 「もうあなたに隠していることはないわ。・・・養子をとりましょう!
と述べて、アッサリと関係を修復させてしまう。
 それからしばらくして、ハンカは、母が住むポーランド有数のスキー・リゾートであるザコパネに一人でスキー旅行に出かける。
 まだ疑いを抱いているロマンは、マリウシュの家に電話すると、彼の母親らしき人物が、
 「マリウシュはいません、ザコパネに行きましたよ
と答えたため、ロマンはまたしてもハンカに裏切られたと思い込み、自暴自棄となって道路を自転車で疾走し、転落して重傷を負う。
 実際は、マリウシュはハンカの会社の同僚から彼女の行き先を聞いて、追いかけてきたのだった。
 真相を知ったロマンとハンカは和解し、抱き合うところで幕切れとなる。
 ・・・この物語から分かるように、夫と妻の関係は、生物学的な親子関係とは全く異なり、その性質上極めて不安定である。
 というのも、夫/妻というものの本質は、当事者の、その場面場面における思考に応じて、相対的に定まるものだからである。
 どういうことかと言うと、ロマン(ロメク)が当初考えていた「夫」は「性的な能力を持った男性であること」を本質に含んでいるが(それゆえ、性的に不能となったロマン(ロメク)は「夫」たる資格を欠く)、ハンカにとっての「夫」はそうではなくて、「子どもを一緒に育てるパートナーであること」がその本質である、といった具合である。 
 ・・・というわけで、私がまだ観ていない映画版「デカローグ9」には、
 「ハンカに裏切られた絶望の余り、ロマンが、自殺目的で道路を自転車で疾走し、どんづまりで下に転落するシーン
が登場すると推測する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする