パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

花より団子(真理よりご利益)

2014年01月07日 20時13分19秒 | あれこれ考えること
今年の各地の初詣の人出はどうだったんだろう
天気が安定していたからそこそこだったと予想されるが

この地区の初詣といえばまず頭に浮かぶのが豊川稲荷
昨年B1グランプリを開催したせいもあって
新聞では前年より多いと報道されていた

しかし、メディアの(テレビの)扱い量は
稲荷は稲荷でも、岐阜県のおちょぼさん(千代保稲荷)の方が
多い様に感じる
参道に濃いキャラクターの店主が自慢の商品を頑張って売っている姿が
いかにもテレビ向きなのだが
実際のところ初詣に限らずお宮やお寺さん参りの楽しみは
あるかどうかわからないご利益より
現実にその時楽しむことのできる買い物、飲食のほう

お伊勢さんにしてもお祓い横丁、おかげ横丁があるから
楽しいのであって名物「赤福餅」のお土産がなかったら
楽しさは半分以下になっただろう

多分これは弥次喜多の時代からそうだったに違いない
つまり花より団子ということ

その点で我が豊川は参道が短すぎるかもしれない
あっという間に目的地についてしまう
あれこれ迷う隙がない
もう少しもったいぶって出し惜しみするみたいに
参道が長かったら参拝者も楽しめるかもしれない

もっとも長すぎる参道は参拝者がいない時期には
無用の長物でしかないので
必要以上に長いものは実際にはやっていけないのかもしれない

そこで話は飛んで人間の生活はどんな時も
「花より団子」の傾向がある

イエスは奇跡を起こしたから信じられたり、頼られたりしたが
ある時期になって「人はパンのみにて生きるにあらず」などと
突っ放してしまったら、今度は信じてついてきた方が困ってしまう
彼らが望んだのは本質的な人間の生き方などではなく
もう少し簡単な頼ることのできる何か
(カラマーゾフの兄弟の有名な大審問官の章にこの辺りの話が出ていた)

同じことは多分仏教でも見られる
仏陀が追い求めたのは認識論にちかい哲学的な真理
解脱といっても個人の体験に終始する
だがそんなことを多くの人に要求したところで
多くの人はそんなものを望まない
何を唱えたり、何かを拝んだりすればご利益がある
こちらのほうがずっと簡単でありがたいと考えやすい
その発想に辿り着いた人物が
たとえ人に対する無限のやさしさから思いついたことだとしても
その本質はいつかどこかに飛んでいって
いつの間にかご利益の有無が一人歩きをする

ご利益のない宗教なんて経済が回って行かない
これが悲しいかな現実
なんだかんだ言ってご利益をストーリー展開しないと
人は喜んでくれないし自分のところもやっていけない

こうしてみると確かに人は経済に振り回される存在
と思わないでもないが、しかし不思議なことに時々
それに振り回されない人物が突然変異のように現れる
そしてその人物がいることによって、ある種の人間は
「人生は生きるに値する」と感じるキッカケを得ることができる

それにしても、お金を儲ける能力と
人としてちゃんと生きる能力は
必ずしも比例しないから
平凡な小市民の優しい人達は自分たちの生き方に
もう少し自信を持っていいのかもしれない
(と思いたい)
コメント
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