パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

偽ベートーヴェンと曲の価値

2014年02月14日 19時57分50秒 | あれこれ考えること
今日はソチオリンピックの羽生さんの話題で
持ちきりだからへそ曲がりの自分は敢えて違った話題で

今からあれこれ言うと後出しジャンケンみたいな
印象を受けるかもしれないが、それでも誤解を恐れず
偽ベートーヴェン事件についてあれこれ思うことを並べてみる

まずは、どんな分野の音楽も分け隔てなく聴いて
いいものはいいと判断する傾向があるが(と自分では信じているが)
今回の佐村河内守氏の交響曲1番「HIROSHIMA」は
なぜだか関心がなかった

彼を知ったのは多くの人と同じようにNHKの番組
そこで異様にのたうち回るような人が絞りだすように
音楽を紡ぎだしている、、、
そんな映像だったが、そこで挿入される音楽は
それほどの緊張感を強いるものではなかった様な記憶がある

現代音楽は武満徹でも比較的聴きやすい吉松隆でも
もう少し聴き手に聴くことを強いる力
精神的な厳しさを感じさせるところがありそうなのだが
深刻そうな音形にしてもなにか全身全霊をかけた音楽とは
違う気がしていた
そして風貌、何かを追い求めている人とはどこか違う気がしていた

今だからそう言えるのではないか
と批判されそうだが
それでも自分は勢い、流行にのってその音楽を求めはしなかった
(単に自分の感性が鈍くなっていたせいもあるかも知れないが)

しかし別人の作品とわかった時点で
その作品の価値は低下してしまうものか
(商業的な価値とは別の意味で)
本当に作品自体に力があれば誰がつくろうが
曲自体の生命力はあってもいいのではないのか

難聴の人、正に現代のベートーヴェンの状況に近い人物が
曲を創りだしたと言う事実のみが価値が有るのであって
曲自体について一体どんな評価がされていたのだろう

そういえば、偽作曲家を偽った人物がヨーロッパにもいた
ベルリオーズ、彼は後に「キリストの幼児」で使われる合唱の一部を
パリの宮廷礼拝堂の楽長であったピエール・デュクレが1679年に作曲した
古風なオラトリオの断章」として発表した

悪意に満ちた偏見と先入観に基づく酷評に悩まされたベルリオーズが、
ひとつ先入観の無い批評を聞いてやろうじゃないか
と彼らしい思いつきで裏をかいたというわけだが
これは作品ありきの世界、まずは誰がつくるろうと素晴らしい作品
それがあって次にどんな人が作曲したかの順番となっている

そもそも音楽は音楽自体で評価されるべきと思うけれど
音楽を音楽だけで判断するのはじつはなかなか難しく
結局作曲者の背景や生き方、人生、曲にまつわるエピソードが
曲の解説になってしまうことが多い
そして今回はその典型

はたしてこの交響曲1番「HIROSHIMA」は未来に残る作品だったのか
本当はここからスタートすべきだったに違いない

時々思うことブルックナーの音楽とマーラーの音楽
ブルックナーの交響曲は4番のロマンティックを除いては
あだ名は無く(5番はあったかもしれないが)
単に交響曲〇〇番

一方マーラーは、巨人、復活、悲劇的、夜の歌、千人の交響曲、大地の歌
名前はキャッチーで何となくイメージしやすい
それが本当に曲の理解に役だっているかどうかは別として
音楽の聴衆を広げるのに一定の効果があるのは事実

しかし、問題はそこでわかった気になってしまわないこと
基本的にはやっぱり音楽は音楽で感じたり評価されるべき
だがまた難しい問題が発生する
音楽の素晴らしさはどう表したらいいのか?
結局言葉で表現するということになると
言葉になった時点でどこか違った感じになってしまいそう

思い込みかも知れないが
モーツァルトを好きな人の話を聞いていると
自分もモーツァルトが大好きだが
この人も自分と同じように感じて、その部分が好きなんだろう
と感じることがある
音楽が好き、分かるとはこういったことなのかもしれない
(小林秀雄が言うように)

いつものごとく脇道にそれたが
要は佐村河内守の楽曲とされた曲が
真に価値のある曲だったかどうかということ
現代は余りにも全てが商業ベースで成り立っていないか
少し小言を言ってみたくなったということ

コメント
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