小林秀雄に「美を求める心」というエッセイがある
いつものごとく内容は忘れてしまったが、冒頭に音楽の話が出てくる
音楽がわかるとは一体どういうことか?
そんな話からスタートしている
今日はその音楽の話
最近、FBの「フルトヴェングラーを聴こう」に承認されて
そこでのやりとりを楽しんでいるが、なによりも不思議なのは
同じように感じている人が多いということ
ある演奏について(レコード)良いというのはもちろんのこと
その感じ方がほとんどいっしょではないのか?と思ったりする
言葉は理性的な部分で説明できるため同じ考え・印象を落つことができるが
音楽の様な非言語の芸術は個々の感性に委ねられそうなのだが
どっこいそれほど個人差で左右されるものでは無いらしい
その共通の印象を持つのは何故なんだろう
同じものを聴いているから同じような印象を持つというのは
当たり前かもしれないが
人が育ってきた環境や経験が違うにもかかわらず
同じような感じ方をしているらしいことは
人は案外理性の部分だけでコミュニケーションをしている
のでは無いということかもしれない
本当に楽しいのは、もしかして音楽会が終わった後
急いで家路に向かわず、ゆっくりとその日の演奏の感想を
交わし合う時間を持つことかも知れない
そこでの交流は理性の部分だけでない分興味深い
この手の会話をすることで演奏会は真に深い体験となり、
音楽の聞き方の進化にも繋がりそうだ
それにしても、つくづく感じるのは
類は友を呼ぶ
これは、本当だ
いつものごとく内容は忘れてしまったが、冒頭に音楽の話が出てくる
音楽がわかるとは一体どういうことか?
そんな話からスタートしている
今日はその音楽の話
最近、FBの「フルトヴェングラーを聴こう」に承認されて
そこでのやりとりを楽しんでいるが、なによりも不思議なのは
同じように感じている人が多いということ
ある演奏について(レコード)良いというのはもちろんのこと
その感じ方がほとんどいっしょではないのか?と思ったりする
言葉は理性的な部分で説明できるため同じ考え・印象を落つことができるが
音楽の様な非言語の芸術は個々の感性に委ねられそうなのだが
どっこいそれほど個人差で左右されるものでは無いらしい
その共通の印象を持つのは何故なんだろう
同じものを聴いているから同じような印象を持つというのは
当たり前かもしれないが
人が育ってきた環境や経験が違うにもかかわらず
同じような感じ方をしているらしいことは
人は案外理性の部分だけでコミュニケーションをしている
のでは無いということかもしれない
本当に楽しいのは、もしかして音楽会が終わった後
急いで家路に向かわず、ゆっくりとその日の演奏の感想を
交わし合う時間を持つことかも知れない
そこでの交流は理性の部分だけでない分興味深い
この手の会話をすることで演奏会は真に深い体験となり、
音楽の聞き方の進化にも繋がりそうだ
それにしても、つくづく感じるのは
類は友を呼ぶ
これは、本当だ