パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

1942年のフルトヴェングラーの第9

2014年11月26日 20時23分54秒 | 音楽
とんでもないものを耳にしてしまった
フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの第9
1942年のベルリン・フィル演奏

フルトヴェングラーの第9といえば
今まではバイロイトの有名な演奏とルッツェルンを聞いていて
それで十分と思っていた
しかし、最近のFBのコミュニティで紹介されたこの演奏を
Youtubeで耳にした途端、釘付けになってしまった
貧弱なパソコンのスピーから流れる音からも只者ではない雰囲気が伝わる




貧弱な音だからこそ想像力で補った音になっている
などといった軽い考えをはるかに越えている
何かが明らかに違う
時代背景がそうさせるのか
それともフルトヴェングラーの天才性がなせる技か

これは音楽体験なのか
それとも何か別の体験と言っていいのか
そんな気さえしてくる

感情を込めた演奏というのとも違う
精神に特化したものとも違う
そこには音と音の必然の流れと構成と効果
演奏者の思いと気持ち
そんなものが深いところでつながっている様に思える
そしてあくまでも音楽という快感を引き起こすモノによる
人間の体験で、まるで全人格的なめったに経験することのできない
ものとさえ思えてくる

この演奏はフルトヴェングラーがバイロイトでの演奏より約十年前
まだ気力があふれている頃の(ナチとも闘うような)時期の演奏
彼が全盛期にどんな演奏をしていたのか
つい勝手に想像してしまう

そしてそれはやはり天職というか、
時々神様が気まぐれに地球上にもたらす特別な使命を持った人の
特別な仕事のようにさえ思えてくる

このような演奏を聴くと
音楽を聴くという行為が何をなすのか
いや音楽は何をなすことができるのか
と考えてしまう

この演奏を聴いて、最初の音を聞いただけで
なにか特別な何かを感じる人もいれば
何も感じない人もいるだろう
しかし、感じる人には確かに感じられる圧倒的に
印象的な演奏だ

しかし、このような演奏はもう体験できないモノになってきているのかもしれない
音楽は全人格的な体験ではなく、耳と体に対する即物的な快感
あるいは消費される家具のような商品となって直ぐに忘れられるものとしか
存在し得ないのかもしれない

だが、この演奏の体験は聞く人の心の奥底まで
動かす可能性があるので、そこから数少ないが何かを感じる人達の
輪を創りだそうと動き出す人たちが出てくるかもしれない

フルトヴェングラー、指揮者以上の音楽家、哲学者
凄い!

コメント
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