パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

投票に行かなかった人の意見(今更ながら)

2016年03月08日 20時16分48秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市では昨年5月に新庁舎建設の見直しに関して住民投票が行われた
それがとんでもなく妙な選択肢で、自分はそれに腹を立てて
今に至っているが、今日はそれはさておいて
問題となったのは、投票に行かなかった人の意見の解釈について

行かなかったのは、行けなかった(病気、足がない)関心がない
住民投票に意義を感じていない、どちらに入れていいか分からない
まだ他にあるかもしれないが、おおよそこんなもの

住民投票の勝利をおさめた側の意見を採用するが
負けた側とこのように行かなかった人たちの意見も
取り入れて(解釈して)見直し案に反映させることが民主主義だと
市長は口にした

少数の意見も無視することなく聞き入れることこそが
民主主義と言いたいのだろう
しかし前の市長選で庁舎問題が争点になった時
僅差で勝利したにも関わらず勝ちは勝ち!
と決して少数派ではない負けた人びとの意見を切り捨てている
だからこそ住民投票までなってしまった 

ところで、この行かなかった人の意見とはどんなものか
解釈の問題だからいろいろありうる
たまたま今日の市議会で市長は行かなかった人の意見を
「市長と議会にお任せ」 と解釈する旨の発言をした
ところが一方市長と対立する側は、行かなかった人の意見は
「住民投票で勝った方にお任せ」と解釈するほうが 筋と考えた

どちらが正しいか
法的な判断方法はあるのだろうか
ただ発表する権利とか力を持った市長は
自分の解釈こそが唯一無二の様に話し
いつの間にか広報にもその解釈が掲載され既成事実化されてしまう 

今更こんな問題をウダウダ取り上げるのは
この人のいろんな進め方がいつもこうだということ

話し合いの機会は設けます
でも何度もそういう言葉に裏切られた人たちは
結局は話し合いには応じてもらえないと判断せざるを得なくなる
そしてその行動を起こすと
今度は、話し合いの機会は設けているのにと批判する
でもそんなふうに判断せざるを得ない行動をしてきたのは誰なんでしょう 

ところで、前回の選挙戦の時の現市長の後援会のビデオ(youtubeだったかな)で
彼は自分の庁舎に関する選択に自信を持っていて(それはいいのだが)
スタッフの前で現計画を何処に行っても市民を絶対説得してみせます
それができない時は、、、 と言っていた

説得できた?
結果、住民投票になってしまったし、なおかつ自分の計画はノーの判定 

今日は市議会の中でやり取りで
少しばかり腹の立つことがあったので 文句を並べてみた
(大人げない?) 

 

 

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アリバイ作りに使われる?

2016年03月08日 08時20分27秒 | あれこれ考えること

先日の前松阪市長の講演会
しっかりメモを取っていたわけではないので
多少勘違いしているところがあるかもしれないが
気になったところがあった

それは行政の進め方
審議会、検討会(だったかな?)、パブリックコメント
この一連の流れは、アリバイ作りに使われやすいということ
つまり、キチンと段取りを踏んでいることを示しているが
それで手続き上は問題なしとされやすいということ
肝心な市民間の理解に及んでいるかどうかはわからない 

本来ならばパブリックコメントの内容に丁寧に対応すれば
大きな間違いは起きないはずだが、どうもパブリックコメントについては
それを求めたというか、どれだけの数が集まって
一応答えやすいものには答えたとすることで終了している 
(これは新城市の庁舎の時の話)

そして、昨日の市議会の小野田市議の「市の広報について」
の質問にあったように、せっかく職員が一生懸命やっても
市民間に情報が伝わらないのは何故か
それは単に技術的な問題か、段取りの問題か
ということになる

市民は多分、自分の問題となった時にだけ関心を持つ
どれだけ丁寧に説明の機会があっても、残念ながら情報は素通りする
そしてある意味では虫が良いことに、自分の目の前に問題が起きた時には
行政から説明を聞くのではなく、なにか苦情を言いたくなる

ところがこの苦情を発する機会がない
昨日の小野田議員の質問で、新城市は「お出かけ講座 」という
方法があって、わからないことを職員が説明に出向く
(ただしあまりにも少数では不可)システムが有るという、

このお出かけ講座は他の市も行っているようで
そこには
講座は学習の場であり、質疑や意見交換を行いますが、
苦情や要望等を受ける場ではありませんので、ご了承願います
 
とされているのが大半のようだ 

つまり、自分の苦情は表現する場所がない可能性がある
陳情や請願書などという方法があるというかも知れないが
それを多くの一般の人が知っているかは疑問

現実的には行政が開く審議会やら検討会で
苦情も含めた意見交換が行われるといいのだが
会が行われるときは、今日は先程の様に説明の場所であり
質問に対する答えはその範囲に収めるようにと釘を差されることが多い

初めて知った(知らない住人が悪い?)と思うようなことに
文句を言おうとしても、既に決まっていることです
説明を聞いて理解してくださいだけでは不満が残る

この不満をなくすためにパブリックコメントが
有効に利用されるといいのだが 現実は先程あげたとおり

これは新城市だけの問題ではなくて、
どうやらどこでもそうらしいので、特に新城市が悪いということには
ならないかも知れないが、言いたいことはステップを踏んだだけでは
市民の理解は得られない可能性があるということ


市民が気がついた時にはすべて決まっていたと
いうような印象を持たれないためには、
決めることのできるポジションにいる人が責任持って
庶民の考えそうな疑問を取り上げて十分に検討してもらうしかない
のかもしれない

少しまとまらない話になってしまったが(いつものように?)
段取りだけを踏んでいればそれで良いか
多少疑問があるということ
市民、住民が納得したという気分、雰囲気をどのように判断するか
その受け止める才覚がある立場の人には必要
(あまり面白くない話でした!)
 

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