パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

市議会議員さんについて

2016年03月15日 09時17分51秒 | あれこれ考えること

今日は少し手に負えない面白くない問題

政治的に無関心であってはいけないという思いと
たまたま時間があったので地元の市議会に傍聴に出かけた
ここ最近の新城市は住民投票やら市長リコールやら
はたまた少しばかり疑念を感じさせるような市議が関与する
市発注の水道工事の問題やら なにかと騒がしい

まずは市議会の実態を知るべくでかけたのだが
一般質問、委員会、予算決算委員会(だったかな?)
傍聴席で聞いていると、部分的には、そうなのかと
感じる場面がないわけではないが、全体的に通しては
必ずしも聞いて面白いものとはいえない
(面白い面白くないで判断はいけないかもしれないが)
それだけに多くの人が傍聴に来たり関心をもつのは難しそう 

自分のように以前は全くの関心のなかった人間にとって
市議会自体のシステムが分からない
段取り、順番、議会の進め方、話し合っている内容
それらは現場にいって聞いて頭のなかで今何が討論されて
いるかを想像するだけ
しかも、議会では法律用語のオンパレード
地方自治法の何条何項の何々が、、、
それだけではなく、問題となっている話に関連する独自の
法律的な制限やらが当たり前のように続く

これを傍聴席で聞いていても、そもそもの基本となる知識がないので
なんとなく何が話されているかわかるとしても
それについての良し悪しの判断がわからない
これを粛々と理解して進めていく議員さんの知識量は(まじめにやっているとしたら)
大変なものだと思うし、実感から言えば
市民はこんな専門的なことは自分の代わりに専門職として分業の意味で
議員さんにお任せするほうが現実的だ

市民は実生活で忙しい
働いている人は自分の仕事のことで
子供がある家庭は毎日何かが起こることに振り回されて
またお年寄りの家庭は病院や買い物などで、、、

市民生活が結局はまわりまわって政治に結びつくといっても
現実の世界ではなかなかそこまで想像は働かない
気づくのはいつもその問題の当事者になった時
気づかないほうが悪いと言ってしまうとそれでお終いになってしまいそうだが
大半がこんなだから、考え方のベースはこの様な人たちを
前提にしなければならない

ということで、分業として自分たちの代わりに専門的な知識や技術をそなえる
人を選んで議員さんとして送り出すということになる
(そんなことは当たり前のことじゃないかと言われそうだが
  改めて実感したということ)

それで、問題はこの議員さんが市民の代わりなのだが
市民の声を聞いているか?という問題
これに対して最近は疑問の声が多くなっているので
住民投票という(間接民主主義を補完する)直接民主主義に近い
方法が使われることも多くなった
そしてそれにともなって市民の政治参加、関心、市民自治等の
考えが育ってきたと思われているが、、、、 

しかし、単純に市民の声が100%良きものかと考えると
ここでまた問題が起きてしまいそう
ウィキペディアで調べると直接民主主義と間接民主主義の
長所短所があって、それは自分でも想像がついたり納得するのだが
どうも何をやっても完全なものはない
ドイツではナチスの台頭の反省もあって直接民主主義の要素は
取り入れていない政治形態らしい

人間様の行うことは失敗や経験を踏まえて
いろんなことを考えだしてきているが
「知性の限界」「理性の限界」「感情の限界」
という高橋昌一郎氏の本で面白く紹介されているが
自分たちが当たり前と思っていることは案外いい加減な認識の上で
成り立っていると実感する

しかし、現実の世界に戻すと
多くの庶民が政治に関心をもつことはいいことだ
庶民が自分たちの思いを政策に反映させるようにしなければならない
(ここで多くの庶民の声がいつも正しいかの問題が起こる )
そのためには庶民は情報・知識・方法を考え出して責任を取らねばならない
実はこの部分が現実にはとても難しいのではないかと実感する
まずは第一に関心をもつことが良いとしてもその数は結局は
どうやっても多くはならないのではないかという気持ち
(それでいいというのではなく、ある割合にしか結局は収まらないのではないかということ)
そして情報・知識・方法を考え出すにはその手段と時間(つまりはお金が)かかる
仕事をしている庶民に仕事の他に関心をもってなにかやってもらう
というのは言葉の上ではいいかも知れないが、これは高すぎるハードルになる
そして責任も負わされるとなると

やっぱり現実的な方法は、ちゃんとした議員さんに自分たちの代わりに
専門職としての仕事を行ってもらうというのが効率的なようだ
ただし、この議員さんは市民の声を聞いているとか
市民が声を聞いていないと思ったらそれについて説明責任を
果たすとかしてもらわなければ困る

議員さんはそれができているか庶民が判断するのが
選挙ということになるのだろうが、ここでまた現実の世界が、、、
地区の代表としての議員さんとして応援される

正直なところ、完璧な世界なんて存在しないだろうし
そんなに完璧だったら、生きにくいというか暮らしにくそう
自分は横着な人間だから、もう少し大概大概のところで
回っていくのがいいかなと思ったりするが
それにしても、この大概大概の基準が最近緩々になっているのは
少しばかり困るというところか

それでも、少しづつだが結局は当事者として考えざるを得なくなったせいかもしれないが
こうした面倒なことに関心を持つ人が増えてきたように感じる
(最初からいたのに自分が気づかなかっただけ?)

本当は堯のような事が行われているのが理想かな



 

 

 

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