他人から見えれば何の関連性もないことも
自分の中では必然としてつながっていることがある
ある本を読んで、そこで知った概念や人物に興味を持って
それを追求する場合がそうだ
最近読んだ中で、どの本だったか忘れたが、ハイエクという
人のことが書かれていた(全然知らない人だった)
大雑把な考え方の紹介だったようだが、少し納得するところがあって
名前だけは覚えておくことにした
そこで、便利な世の中の武器 インターネットを使って
「ハイエク」と調べるとウィキペディアにしっかりと出ている
経済学者でノーベル賞ももらった人であるとのこと
ウィキペディアは丁寧にも詳しく説明している
本当に興味を持ったなら著作を読んで理解に努めれば良いのだが
気力と理解力に自信がないので、横着することにしてつらつらと飛ば読みをした
そのなかで、多分自分はこの部分に共感できるのだろうと思った記述があった
そもそも、人間の理性は、文明社会そのものを創造する能力はもっていない。人間の行為は、一つは先天的で本能の欲求によるものであり、もう一つは人間社会が歴史的に経験を通して試行錯誤と取捨選択を積み重ねることにより発展してきた法(ルール)、伝統、規範に従ってのものである。文明社会は人間の営みの結果ではあるが、その本質的な構造は特定の意志により設計されたものではなく、社会の試行錯誤を経て意図せず生じたものであり、そのはたらきの機序を人は充分に認識しえない。よってそこに人間の理性(知力)が入る余地はわずかである。その本質において能力の乏しい理性に基づき「社会の設計(設計主義)」や「革命的な進歩」を目指した場合、認識しえない構造を基礎としている文明そのものを破壊する。人間社会に期待されるのは、所与の方向付けがされていない漸進的な自律変化である。道徳規則の形成も、人間の社会における実践的な営みの経験の中で成長したものであり、人間の理性による意識的な発明ではない
この中の何に納得できるかといえば、人間の理性の限界のこと
人間は現存の秩序をすべて破壊し、そこにまったく新しい秩序を建設できるほど賢明ではないとし、既存の秩序、つまり「自然発生的秩序」の重要性を説いた。
と別の欄でも書かれている
最近考える事、思うことは
確かに新東名高速道路等の強大な建造物を見ると
人間には無限可能性があるように思えるが、はたしてそれでもって限界がないと
するのはどうなのだろうということ
この発想は人間生活の暮らしにも、つまり社会生活の分野にも適用されるが
人間を理性的な動物、生き物、としてしまうのは間違っているのではないかということ
科学は一気に進んで殆どの人がブラックボックス化している世界に住んでいる
コンピューターを僅かに扱うことができるが、何故そのようになっているかはしらない
原子力を使って発電はできるが、その詳しいことはわからない
そしてこの便利な社会を実現している科学の、科学的とされる考え方が
現在は人の考え方の基本となって
(それは悪いことではないが、多様な解釈というより 、ある一部の解釈に過ぎないことが多い)
それは唯一無二の考え方になっているような気がしてならない
人間の限界を、残念だがもう少し頭に入れて
試行錯誤をして築き上げた知恵をもう少し活用できる世界のほうが良いのではないか
と思ったりする
これは西部邁さんの考えに近いのかな?
人はなにかを知れば知るほど、その先には謎が増えていき
人間の限界を感じるものだ
次々に出てくる謎に挑む姿、少しづつ解決していく姿は
良いのだけれど、そこで妙に自信を持ちすぎる連中が誕生する
この人達が一番問題
多分、世の中の神秘を求める人達は知らず知らず謙虚の気持ちを
持つようになる
そして何故かその何に見られる秩序の中に「美」を感じる
この美を感じる心がない人が、現実には社会的に発言力のある
ポジションを占めている(ように思える)
小林秀雄に「美を求める心」というのがあったが
この「美」を求める心も、筋肉のように常に鍛えておかないと
働かなくなる、、、といったようなことが書かれていた
(そんなこと書かれていなかったかもしれない)
いずれにしても、人間の行いはいくら無限大に可能性があるとしても
今行われている良いことは、現時点でのという条件付き
先を予想するのは良いこととしても、もうすこし謙虚に限界の認識も
持たないとなにか怖いことになりそうな気がしてならない
相変わらず話が飛んでまとまりのない投稿になってしまった
ま、いいか!