以前は(昔は)もっと速く走れたのに!
それもそれほどの苦労をしなくても、、、
最近、ジョギングをすると感じるのはこのことだ
スピードの分かるランニングマシンで走る(歩く)と
自分の感覚では結構速いスピードのつもりでも
実際の数字は大したことないどころか、はっきり言えば遅い
そこで昔の記憶にあるスピードまで上げると
上げてしばらくはキープできるがすぐにしんどくなる
(練習・訓練不足?)
よくもまあ、昔はできていたものだとか
本当に昔出来ていたのか、、
フトそんなふうに思ったりする
自分の中で感じるスピード感と実際のスピードの違い
感覚的には昔と同じスピードで何かしてると思っても
物理的なスピードは明らかに落ちている
問題は自分の中では昔と同じスピードだと感じているらしいこと
話は飛んで、音楽の演奏 一般的な傾向として
同じ曲でも若い人の演奏は速く 年配の人は遅い
その年配の人も若い時の演奏はもう少し速かったということが
珍しくない
そこで先程の話に戻って、個人の中のスピード感の認識について
年配の人の演奏が遅くなるのは歳を重ねて一つ一つのフレーズの意味や
ニュアンスの変化を表現できるようになり、(普通は円熟と言われたりするが)
それがために遅くなったとするのが順当な普通の考え方だが
実は当の本人は「昔と同じスピードで」演奏していると思っているのではないか
と考えることはどうだろう
当の本人にすれば、昔だって今と変わらず意味やニュアンスを込めていた
のかもしれない
またまた話は変わって、闘争心について
闘争心とまで大げさなことを言わなくても、子供は誰かと競うことが好きだ
以前サッカーのコーチをしていた時はこのことをうまく利用した
練習に飽きてきたら誰かと競わせるようなメニューを取り入れる
子供たちは「じゃんけん」にすら燃える
この誰かに負けたくない、自分は勝てるはず
という気持ちは、多分若ければ若いほど大きいもので
若者(高校生以上の)は、その気持の表れとして誰かと
競ってみたい、自分を試してみたいと思うようになるタイプがいる
これは理屈というより衝動的な、一種の生命力なので
あれこれ理屈を言っても聞き入れてもらえないことが多い
若者は地方都市を出て都会へ行きたがる
確かに雇用の問題もあるが、この様な気持ちが案外大きいのではないか
田舎には刺激がない、戦う相手もいない、
歳をとれば何事もないことが素晴らしいことで、(実際には
何事もないことなどありえず、それなりにどんな場所でも時代でも
人として越えなければならない問題は存在するが)
田舎(地方都市)でも充実した生き方ができるはずと説く
地方の人の声は残念ながら若者には説得力がない
生命としてのエネルギーとか衝動
時間に関する感覚と闘争心
これは確かに年令によって差がある
かつて若者だった年配者は、過去の自分を忘れて
今の時点の知恵ある判断を絶対かのように若者に話しても
伝わらないかな
それでも、都市にばかり人が集中するのは
現実的に地方都市(田舎)に住んでいるものとしては
少々困るな、、
連休2日目 得意のグダグダとどうでもいい話
天気はいいし、さて何をしようか(何処へ行こうか)
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読みやすい「そしてメディアは日本を戦争に導いた」
半藤一利・保阪正康 からスタート