パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

表現の不自由展騒動から連想したこと2つ

2019年08月07日 09時14分35秒 | あれこれ考えること

愛知県のトリエンナーレの表現の不自由展(その後)では
慰安婦像の展示騒動に端を発し展示会事態が中止になってしまった

そこで思い出した2つのことがある
一つは「天皇機関説事件」山崎雅弘を読んだときに感じたことで
とんでもなく強引な無理筋の理屈が、力によっていつの間にか空気となってしまうこと
天皇機関説はその分野の専門家によれば天皇制を敷いていない国でも理解可能な
「機関」としての捉え方で、最初は国も認めていたし
先日のNHKの「御前会議」ではイギリス留学経験のある人間として天皇自身も
受け入れやすい概念であったように思われる

ところが天皇制を崇め奉る人間たちによって、あるときは暴力、あるときはプロパガンダ
によって、今度は正論を口にすることさえできなくなっていった
そしてその結果導いたものは戦争への道と悲惨な国の姿
天皇機関説事件を主導した人物は戦後に自殺したらしいが
間違った情念や思いが国とか庶民の将来を破壊することになるのもかかわらず
雰囲気的に受け入れやすいというだけで、つい漂ってしまいそうな空気を
(嫌韓・慰安婦問題・南京事件等で)今も感じてしまう

現在読書中の「群集心理」には、ひとりひとりはまともでも集団となると
一気に理不尽な行動をし勝ちになる実例をあげている
そしてそれは残念ながら「群集心理」が書かれた過去のことではなく今も
現実に起こってると思わざるを得ない

もう一つは「慰安婦」の少女像について
少し別の資料でも確かめなければいけないが、「帝国の慰安婦」によれば
慰安婦の年齢層はこんなに幼くなかった、、らしい(何人かはいたかもしれない?)
ところが、幼い少女を主人公にしたある小説で、それが劇的であるがゆえに慰安婦についての
イメージができてしまい、更にそれは政治的にも有効であったので利用されることになったとあった

話は変わるが日本人の大好きな「坂本龍馬」は一次資料から推察される人物像ではなくて
おそらく司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで、あるいはその原作のドラマを見て
彼の行ったことをそのまま信じていることが多いと思われる
それは小説上の出来事でもいつの間には本当に起こったこと、、と信じてしまう人が多いということ
どうも人は事実の積み重ねを個々で調べ上げて人物・事件理解をするより、読みやすく理解しやすい
フィクションの方を信じやすいということで、これは百田尚樹の「日本国記」の読み安さゆえの
都合の良い歴史理解に繋がりそう

現実的なところ人はあらゆる分野で専門的な知識や情報を持つわけにはいかない
どうしても専門家の話を聞くとか、わかりやすい話で理解したいと思ってしまう
そこで必要なのはボイテルスバッハ条約にあるように「意見の対立があるものはあるものとして」
意見を交換し合う癖をつけるということ
自分以外の意見を排除するのではなく、そのような捉え方もあるのだと認めた上で
丁寧に討論していくという癖、、、それが今、かけているように思えてしまう

それにしても、日本は先の戦争の総括をどのようにしたのだろうか
総括する前に新たな戦争への危機の前に、アメリカを中心とする現実優先で時が過ぎてしまっただけなのだろうか
世の中はそういうものだと思いながらも、、、もう少し、じっくりと国民の共通の記憶として
残すべきものはあったと思われる

コメント
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