2012年に五山の送り火を見にいって、その時の京都の暑さが
サウナにいるような猛烈なもので恐怖さえ覚えたので
いくら京都が好きでも夏は行こうとする勇気がない
一番最近の京都は葵祭の見学だった
その日立ち寄ったところで印象に残ったことがある
立ち寄った先は三十三間堂で、修学旅行、ある年の成人の日以来の(多分)三回目
久しぶりに見る三十三間堂はなかなか興味深いものだった
千手観音が所狭しと並んでいるのには驚くことはなかったが
風神雷神の彫刻がそこにあるのに驚いた
俵屋宗達の風神雷神図はこれをお手本にしたのだろうか
と素朴な疑問が浮かんだ
この風神雷神と並んで28部衆像が並んでいたが、
そもそも28部衆がどういうものかわからないまま、眺めることになったが
随分肩に力の入った戦闘的な像ばかりだなと思っていると
ちょうど中央辺りに肩の線の柔らかな、女性を連想させる穏やかな表情の像が目に入った
それはホッとして緊張感から開放されて、どこか救われるような気がすると同時に
戦いばかりの男の世界だけじゃ世の中はしんどいからなあ、、、と自然と頭に浮かぶものがあった
力には力で対抗する限界、、無力に見えても祈りのほうが救いがあるのかもしれない
カラマーゾフの兄弟で雄弁な大審問官に対して、キリストは何も言わずに口づけをするだけ
ゾシマ長老もアリョーシャも言葉に言葉で応じるのではなく、ただ静かな行動(祈り?)だけで自分の意図を示した
言葉の限界を感じるとき、共感とか感情とか、言葉に出来ないかもしれないが
そうしたものに身を委ねることも大事なのではないか、、とフト思ったりする
(厄介なのはこの感情というものは、ときにとんでもない事態を引き起こしてしまう)
つまりは、28部衆のなかにあのような優しい像があって救われたということ
ところで、その日の見物客の中には修学旅行中と思われる男子学生がいた
ところどころに賽銭箱が置いてあったのだが、その男子高校生のグループの一人が
賽銭を投げ入れた
せっかく来たのだから、そのくらいはするだろうな、、と通り過ぎようとすると
何と彼は、2礼してパンパンと2拍して、また1礼をした
おいおい、、ここは神社じゃないぞ、、とおせっかいをしたくなったが
その後に続いて別の男子学生が、2礼2拍1礼と続き、
その後も別の学生が、ここではそうするものだ、、と疑いもせずに行った
ここまで自信たっぷりに行われると、それはそれで良いか、、という気にもなった
(でも彼らはいつか気づかないと恥をかく事になってしまうけれど)
三十三間堂でのこの2つのこと、
女性と思われる像の存在でホッとしたこと
男子学生が間違って参拝し、少し笑えたこと、、
覚えていることはどうも大事なことばかりでなく、どうでもいいようなことが記憶に留まるようだ
(何故なんだろう)