一冊の本のなかで、印象に残ったり気になったりするところは
全体の印象を除けば、自分の能力の範囲ではそれほど多くない
それじゃいかん、ということで最近は付箋をつけるようにしてるが
面倒なのでついつい疎かになり、
あとで、あれはどこの部分に書いてあったかな?
とバタバタすることが恒例になっている(情けない)
そこで反省も踏まえて最近読んだ(読み直した)本の気になった部分を
備忘録を兼ねて抜き出してみる
最初は加藤陽子氏の「それでも日本人は戦争を選んだ」から
映画の東京裁判でも、また先日のNHKの特番の拝謁記でも問題となった天皇の統帥権
それにつながる戦争責任に関する部分だが、実際の現実的な天皇の統帥権に関して
こんな記述があった
日清・日露の2つの戦争に関しては、開戦から始まり講和条約の締結まで、明治天皇の決断と言うよりは、元老による政治主導が優先されていました。
第一次世界大戦期になりますと、大正天皇でもなく、元老でもなく、内閣の判断によって進められる。
この点、大日本国憲法には、第11「天皇は陸海軍を統帥す」とありますが、天皇の統帥大権ついての輔弼(ほひつ)も、
内閣はこれを行いませんが、別に設置するところの統帥機関、すなわち陸軍大臣、海軍大臣、海軍司令部長(1933年からは軍令部総長)、侍従武官長によってなされるものでした。
また、宣戦講話の大権と条約締結の大権についても、憲法13条では「天皇は戦を宣し和を講し及諸般の条約を締結す」と定めておりますが、実際は、国務大臣による輔弼がなされていました。
この部分を読むと、法令上は天皇に統帥大権があるというものの、現実の世界では全部をコントロールしきれるものではないと思われるし
この雰囲気は「御前会議」でついに押し切られる様子に繋がる
天皇が「道義的責任」の言葉を口にしているのは、人としても正直な感情の現れなんだろう
この統帥権の問題はあとの「天皇機関説事件」の美濃部達吉氏への軍部の批判にも関係するが
その前に、まるっきり別の件で気になったところがあったので抜き出すと
(長野県の飯田市付近の村に満蒙に移民する人たちが多かったという話の後で)
満州に初期に移民した人々から、満州が「乳と蜜の流れる」土地であるという国家の宣伝は間違いで、
厳寒の生活は日本人に向いていないのだとの実情が村の人々に語られはじめ、移民に応募する人々は38年くらいから減ってしまった。
そこで、国や県は、ある村が村ぐるみで満州に移民すれば、これこれの特別助成金、別途助成金を、村の道路整備や産業振興のためにあげますよ、という政策を打ちだします。
このような仕組みによる移民を分村移民というのですが、助成金をもらわねば経営が苦しい村々が、
県の移民政策を担当する拓務主事などの熱心な誘いにのせられて分村移民に応じ、結果的に引き上げの過程で多くの犠牲者を出していることがわかっている。
この部分などは、補助金頼りの地方とその未来への警鐘のように思えてしまう
もらってしまうお金はよく考えないと怖い(悪銭身につかず?)
再び統帥権がらみの話題に戻って、今度は「天皇機関説事件」から
天皇機関説はその概念が発表されてから30年近く問題なしとされていたのだが、
ある年から急に批判されることになった
そこには美濃部達吉氏への個人的な恨みもあったようだ(天皇機関説事件から抜き出し)
この時期の日本軍人は美濃部達吉という個人に対して強い反感や敵意、恨みの感情を抱いていたのです。
一つは1930年4月22日に日本政府が締結した「ロンドン海軍軍縮条約」に関し、日本海軍の司令部(軍事作戦の計画立案などを行う幕僚組織)が
「帝国憲法に定められた天皇の「統帥権」を干犯するものだ」として強く反対したにもかかわらず、
美濃部が自分の憲法解釈を採用して政府の判断を「正しい」と弁護したこと。
ところでロンドン海軍軍縮会議とは、各国の保有する軍備に制限をかけようとする国際的な協議で採択された条約で、
日本政府は欧米各国との交渉の末に調印を決定し、1930年10月1日の枢密院(大日本国憲法の規定に基づく天皇の諮問機関)本会議でこれを可決、10月2日に批准。
海軍軍令部等の言い分
艦艇の保有数に関する条件の交渉と最終的な決定の権限は、交渉を担当した海軍省ではなく、天皇がもつ統帥権を補翼(補佐)する海軍軍令部に属するもので、
軍令部が条件を了承していないのに政府が条件を締結したのは「統帥権の干犯」ではないか、結果としてそれは「天皇の統帥権」をないがしろにする行為ではないのか、
美濃部達吉氏の言い分
外国との軍縮交渉の締結は、単一の軍事作戦の計画やその実行(軍令)とは異なり、国家の運営に関して様々な分野に影響を及ぼすものであるから、
海軍司令部には不満な条件であっても、内閣の総合的判断に基づく決定を受入れるしかない」
「たとえそれ(海軍軍令部の意向)が、上奏によってご裁可を得たものであるとしても、法律上から言えば、それは単に軍の希望であり設計であって、
国家に対しては重要な参考案としての価値を有するだけである。
内閣はこれと異なった上奏をなし、勅裁(天皇の決裁)を仰ぐことは、もとよりなし得ることでなければならない」
実際のところ法律は難しい
専門家でないものはよくわからないというのが実感
だが、国の条約締結は生活の分野にも及ぶことなので、一視点だけの判断ではよろしくなく
総合的な見地からの判断からなされるべきなのはよく分かる
(最近の日本の韓国に対する措置は、、地域の観光業への影響を考えたのだろうか、と疑いたくなる)
法律(天皇機関説)は難しいから、その道の専門家に任せておけ、、という立場が当時の政府にもあったのが
いつの間にか変わってしまい、排除されただけでなく、その結果として、それいけドンドンといった風潮に変わっていった
現在この手の本を読むということは、今現在との比較を前提としている
二度と繰り返さないためには、過去に何があったのか
何をどう間違えたのか、、
国民の共有の記憶として何が残されているか、、、
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ビスマルク
(日本人は賢者の道を歩いているか、ちょいと不安)