ワールドカップ決勝戦の前半、グリーズマンとエムバペが機能しなかったのは
大いに気になる点で、戦術好きの人たちには口をっ酸っぱくして語りたいところだろう
その答えとしてアルゼンチンの選手の配置が挙げられている
グーリーズマンの側にディマリアをおいて、彼のドリブル力・キープ力が生きたために
グリーズマンは彼本来の力を発揮するよりは守りに力を注がねばならなくなった
エムバペもアルゼンチンの攻撃が自分のいるサイドではなく反対側だったので
ボールも滅多に来ず、活躍のしようもなかった
これは日本対ドイツ戦の久保の立場と似ている
あの時の久保がよくなかったと言うよりは久保のサイドにボールは来なかった
ドイツは大きな展開で日本の右サイドを上手く使った
PKとなる時もそこに侵入されていた
だから森保監督は後半はどのように対処するか見どころだった
戦術とか選手の選択とか配置は監督の判断だが、その監督の指向性は
現実優先というものの国民性を反映しているように思える
決勝戦の解説で当たり前のようにでてきた言葉が
「メッシは守りをしない、エムバペは守りをしない」だった
彼らの秀でた力は攻撃のときに使ってもらうためだ
両チームともそれは了解の上で戦っていた
ところが日本はそのようにできるか?
日本人は守りをしない攻撃陣を許容できるか
今回のFWの前田大然は点を取るための選手ではなく
守備のきっかけをつくる、いわばDF用の選手だった様に思う
ひたむきに走り回る
これはゴン中山の影響が今も生きていると思われる
少し前では岡崎も走り回った
そして南野もやはり走り回るタイプだ
(それは所属チームで使ってもらうために自分をアピールする手段でもあったが)
日本はそろそろ特別な能力のある人は、その能力を活かすべく使い方をすべきだと思う
そのためには超えるべき壁がいくつもある
そしてそれは従来言われていたことが本当なのか?
と疑うところから始まるかもしれない
攻撃も守りも「数的有利」という概念が日本人は好きだ
一人ひとりの力が対戦相手と比べて劣る日本人は
みんなで守ってみんなで攻める方法しかない
と無条件で信じ切っている
ところが厳しいリーグで戦っている選手たちは、
徐々に必ずしもそうではないと実感するようになる
(それは個の力のアップという言葉で表される)
少ない人数で守れるならそれに越したことはない
これは普段は茶の間に受ける発言をする松木安太郎氏が
サッカー関係者と真面目に話したときに出た言葉で
監督経験者として実感したことのように思われる
このように当たり前のこととして定まっていることに
疑いの目を向けるのは必要だと思う
守りも日本はボールを奪取することをもっと磨いたほうが良い
これも松木さんの実感で、イタリアとかスペインの試合を見ると
そしてアルゼンチンの戦いを見ると、本当にそう思う
確かに無駄にボール奪取にトライするとかわされて
相手に有利な状況を作ってしまう
自分の経験でも、高校時代ドリブルが大好きな先輩に対峙したとき
ボールを取ろうとすると上手く行かないので
まずは動きを止めさせることを選んだし、それが知恵として蓄積された
でもこればっかりでは進歩しない
やはり取れる時は取るという技術なり手段を身に着けたほうが良い
これは少ない人数で攻撃から守ることに通じる
今回のワールドカップで勝ち残ったのは傑出したFWのいるところ
アルゼンチンもフランスも、ポルトガルも守りを免除されたような
特別な選手がいる
野球で言えばエースで4番みたいな選手が
大谷みたいに立派な人間でなくても
ちょいと変人でもその力ゆえに認めるということは大事だと思う
世界的に点取り屋は変人が多いらしい
(それは仕方ない傾向かもしれない)
真面目な選手を優秀なFWに育てるよりは
変わり者の優秀な力を持ったFWを、普通の人間に教育するほうが
効率が良いとの考えもあるようだ
(普通の人間性になったらスーパーな力は発揮されるかは疑問だが)
ということで、サッカーの世界でも多様性を認めるとか
前提を疑うということが大事だな、、ということ