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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

偏った興味

2012年01月10日 22時14分58秒 | Weblog

NHK大河ドラマ「平清盛」を見た
なかなか面白そう、というか
このあたりの時代に興味があって
続けて見て行けそうな気持ちだ
(初回の視聴率は芳しいものではなかったらしいが)

去年は見なかった
坂本龍馬がそんなに好きじゃない(興味ない)から
司馬遼太郎も好みじゃない

そういえば坂本龍馬、織田信長、西行、柿本人麻呂、中原中也
石原裕次郎、立川談志、木村拓哉、忠臣蔵など
一般的に日本人に人気のある人(もの)にはほとんど興味がない

自分が興味を覚えるのは、すこしばかり運のない人達
大津皇子、村山たか女、上杉謙信、土方歳三、只野真葛、立原道造、
古今亭志ん朝などなど

それが何故かは問わないことにしよう
ただ、この好みは人から見れば
チョット偏っている
と思われるのは仕方ないかな

 

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健康的過ぎるのは少々疑問が

2012年01月08日 15時07分12秒 | Weblog

先のAKBに続いて、最近の歌は全然知らない
いろんな所で流れてくる音楽
それは別段画期的な魅力に溢れているのもではなく
全て時代の中の一つ、その中での背比べみたいな気がしてならない
音楽的には未熟でも何か圧倒する迫力がある
などというものはあまり感じられない

特に最近の歌で少し違和感があるのは
若い人の歌う歌が健康的過ぎる点
前向きな、つながりを大事にした、努力を前提とした肯定的な、、、
そういう歌が多い

しかし、若いって時は果たしてこんなに体制的な
感覚を無条件に受け入れる時期なんだろうか?
もっとやりきれない、多少不条理な考え方、自分勝手な考え方をする時期
なのではないだろうか

恋愛的にも満たされない苦しみや焦燥感
そんなものはさらりと流され、次に向かう姿勢に
取って代わられる
これなんか、どうなんだろう、、

こういう感覚自体が古いのかもしれない
しかし、年配者としてあえて言うならば
健康的な若者ばかり・若者時代ばかりは多少心配が残るということ

しかるべき時にしかるべき体験・経験をしなくては
人としてまともに成れないのじゃないか
しかるべき時、その1つとして若い時期に人の中の
矛盾だらけの気持ちを自覚しないことには
そしてそれを表現する人がいて、
世代間の共通の感覚として持つことができないとするならば
その世代はやばいんじゃないのか?

相変わらず、どうでもいいことの羅列
酒を飲まずにこんなんだから、
ある意味困ったもんだ
若者にはうるさいだろうな

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AKB48のメンバー

2012年01月08日 14時47分02秒 | Weblog

自慢じゃないが、全然誰が誰だかわからない
どんな人がいて、そんな活動をしていて
それから誰が人気があるのか
そんなことは全然知らない
そして、そんなことを知りたいとも思わない

知らなくても取り残されているような不安感などないし
焦りなどない
開き直るといったような捨て鉢な感覚というより
本当に関心がない

これは年齢を重ねた証拠ともとれるかもしれないが
例えそうだとしても
年令を重ねることにとって
関心のないものは見ないとか無視するとか
自分の好きな時間の使い方をするようになれることは
悪いことではない

マーケティング的にAKBは素晴らしいとも言われるが
そもそもAKB自体に関心がないから
どんなにマーケティング的に素晴らしかろうが
どうでもいいことに終始してしまう

もし言う事があるとすれば
なにか気持ち悪い感覚がついて回ってしょうがない
服装・化粧・歌  

否応なしに入ってくる映像から判断するに
どうしても気味悪い感覚を覚えてしまう
幼稚だからか?
それとも、、、

ま、どうでもいいこと
そっちはそっちで好きかってやってくれ!
と言う感じ

考えてみれば、
実際のところ、こんな話もどうでもいいことか

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セレンディピティ

2012年01月05日 20時25分59秒 | Weblog

GoogleのCEOだったかが重要な能力としてあげたのが
セレンディピティ

何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能
あるいは
失敗してもそこから見落としせずに学び取ることができれば成功に結びつく
といった能力らしい

しかし、実際のところ普通の人は
「自分探し」の言葉に代表されるように
何を探しているのかさえもわかわらず
道草して、またはそこで自分の人生を左右するものにぶち当たる


最初から一途にそのものだけを求める人は、それはそれで立派だけれど
それだけが人生ではないということかもしれない

少しニュアンスは違うけれど
目標は高く掲げてそれに向かって努力する
小さな目標は己を小さいものにしてしまう
と言う意見もあれば
まずは目の前にチョット頑張ればできる目標をおいて
それをクリアして徐々にステップアップする
最初からできそうもできないような目標はリアリティーがない
と言う考え方もある
どちらが正しいのではなく、
多分受け入れる側の性格によるものだろうけれど
結局このセレンディピティのおかげになることが多いかもしれない

簡単に言ってしまえば
人生は、生まれた、生きた、死んだだけに過ぎず
生きている間に何を経験したかが肝心となるだけ
この生きている間になにかピンと来て、
自分にとって良さそうなことを感じ取れれば
世間の価値とは関係なくそれはそれで幸せなこと
そんな風に考えるのは小市民的すぎるかな


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侘び寂び、ではなくて雅

2012年01月03日 10時02分22秒 | Weblog

時々考えることがある
何でこんなに京都に惹かれるのかと
ここ数年は年2回は訪れていて
最近は11月24日に紅葉狩りに、
そして昨日は初詣に行ったばかり

だいぶ慣れてきて物珍しいモノはなくなってきたにも関わらず
必ず心を奪われるというか、時を忘れる瞬間がある
昨日も下鴨神社でそんな瞬間に

白と朱色のすっきりしたコントラストの佇まい
舞殿の開放的だけでない美しさ
それから本殿も、とにかく美しい
この美しい!という感覚がどこから来ているのか
少し考えてみた

仮定にすぎないが、それは王朝関連の趣味の良さが
反映しているのではないか
日本の美とは侘び寂びが思い出されるけれども
多分自分が感じているのはこの方向の美ではない
利休の凝縮した世界も美しいと言うか深さを感じることはある
しかし、それでもどこか頭で考えている小さな世界に留まっているのではないか

以前御所の一般公開の時に感じたのもこの感覚
お公家さんたちの趣味の良さは半端じゃない
そしてこれらはそんじょそこらでは
身につかないもののように思えてならなかった

よく思い起こしてみると自分が心奪われる瞬間は
侘び寂びの世界よりもお公家さん絡み(天皇絡み)のものが多い
確かにお公家さんたちも侘び寂びの世界観に
近寄っているものもあるのだろうけれど
それすらも基本に雅の美が存在しているのではないか

京都の紅葉狩りの美しさは侘び寂びでの系統ではなく
もう少しおおらかなしかし少し人工的な部分も
あるけれどお公家さん趣味によるものの様に感じる

ま、こんなことはどうでもいいことだけれど
自分がこんな風にあれこれ思いつくきっかけを作り続ける
京都の存在 ホント飽きないどころか益々魅入られていく

まだまだ桂離宮も修学院離宮も行っていないし
歴史を勉強すればもっと楽しめそうだし
今年は開き直って何度でも京都に行ってみようか!

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決め手は働く人の様子

2012年01月02日 20時49分29秒 | Weblog

初詣に京都 下賀茂神社に行ってきた
その印象は又の機会に譲るとして
帰りの御土産選びでのこと
最初から漬物にしようとしていたから
特に迷うことはなかったが
京都駅地下のお土産売り場には漬物屋さんが3軒

大安・西利・土井しば漬け
念のためゆず大根の漬物の試食をして
一番美味しいと感じたところを選ぼうとしたのだが
正直なところそんなに差は感じなかった

さてどうしよう!
と思い、ふと店員さんを見ると
これは漬物以上に差があった

若い髪を染めている男の子を店員さんに使っているところ
清潔な制服で若いしっかりした女性の店員さんのいるところ
そして落ち着いた制服で手馴れた感じで年配の方が働いているところ

自分は、この会社はしっかりしている会社なんだろうな!
と想像がついた2番目の店で購入
勿論、それぞれの店にはそれぞれの考えで社員を採用し
教育もしていくのだろうけれど
少なくとも自分に一番しっくり来たのが
2番目の店ということ

いろいろ判断に困るときは
社風・社員の様子をみることは案外役立つかもしれない

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聴き始めはK330のピアノソナタからトリスタンへ

2012年01月01日 19時11分34秒 | Weblog

予定通り新年最初の音楽はモーツァルトのK330のピアノソナタ
ギーゼキングの演奏のレコード
気張って聴きこもうとしたのだが意外や意外
最初の音に軽い驚きを覚えてしまった

音がもっと明るいと思っていたのが
こちらのコンディションのせいか予想したより沈んだ音色
短調と思わせる程ではないが自由奔放な音とは離れている
モーツァルトの音楽はただ明るいだけじゃないということか

その後K219のヴァイオリン協奏曲第5番 オイストラフの演奏で

これもしっくり来ないので急に思い出したのが
バイロイトのハイライトのレコードから
ベームのトリスタンから前奏曲・愛の二重唱・愛の死

これはまずまず
そうなると聴きたくなったのがフルトヴェングラー指揮のトリスタンの愛の二重唱
EMIの全曲盤の方ではなく1947年のベルリンでの実況録音からのものを聴いた
本当は全曲盤の方を聴きたかったのだけれど
あのオーケストラがまとわりつくように雄弁にロマンチックに語る演奏は
あまりにも印象的・感動的すぎて、もう一度聴いて
あの濃密な感動が薄れてしまうことが怖くなって無闇には聴けないでいる

ということで比較は全曲盤とになるのだが
出来自体は全曲盤のほうが素晴らしい
しかし、それでもロマンティックな濃密な感覚は漂っている
同じ箇所をバーンスタインとカルロス・クライバーの指揮のものと
比較すると正直同じ時間が経過しているとはとても思えない

バーンスタインもクライバーもサラサラ流れていく
それはそれで美しいかもしれないが時間の濃さというか
何かが足りない

これが芸の力というものか

フルトヴェングラー指揮の演奏は第9も名盤として通っているが
これも無闇矢鱈とは聴けない
大きな構えで途中から興が乗ってくる感じの第1楽章
楽器が出たり引っ込んだり立体的な第2楽章
瞑想的なうっとりするような、そしてトランペットのファンファーレの直後の寂寥感の第3楽章
いつまでも続くような物凄いフェルマータの合唱部分が終わった後、
最弱音から始まる歓喜の歌のフレーズの劇的な効果
そして演奏するという行為自体をも忘れさせるような熱狂の第4楽章
これらは本当に半端じゃない感動を覚えた記憶があるので
その記憶を汚すことが恐ろしくなっている
だからこのレコードは持っているが2度と聴かなくても
後悔はしないと思っている
一度でも奇跡のような瞬間を味わうことができたのだから

同じことがEMIのトリスタンでも言える
つまり持ってはいるけど、あの感動が来ないことに対する恐怖で
聴けないということ

名盤は繰り返し聞けるものでなく
たった一回でも一生の印象として残るような演奏のもの

フルトヴェングラー以外にはリヒターのヨハネ・マタイ受難曲なんかは
この部類に入ってくる

しかし、もしかしたら演奏自体よりも聞き手の感性が
若い時はもっとしなやかだった!
ということに過ぎないかもしれない
結局どっちでもいいけど、フルトヴェングラーがやっぱり凄いことには間違いない
(リヒターも)

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