パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「誰がそれをした」と「その内容」について

2019年07月18日 08時36分47秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

 一月ほど前NHKローカルのニュースで、新城市議会議員の政務活動費の疑惑が報じられた
滋賀県の研修に実際は数人で車で乗り合わせて行ったにもかかわらず、交通費の精算は
新幹線を用いたものになっており、各人はその差額を懐に入れていたのではないかとの疑いだ

この差額は返却されたり書類上の処理が行われ一段落したかのように見えたが
先日の議会報告会では一部の市民からかなりの批判を浴びることとなった

この問題について気になったのは2つのこと
1つ目はニュースを見た人の関心事は、それは「誰が行ったことなのか」という点に集中していたように思われたこと
実際に自分もニュースを見た方から、「あれは誰のこと?」との質問を受けた
だがその内容について詳しく理解して、怒りに値するかどうかを知ろうとする人は少ないように思われた
これは国会でも統計の問題が政府側が悪い、、との理解は容易だが、そもそも何が悪かったのかは
イマイチわかっていない状況を思い起こさせる
人は具体的な「誰が悪い」という理解のほうが、抽象的な問題点を指摘するより理解しやすいようで
人を非難する快感は知らず知らずつい犯人探し的な方向に進んでしまう

もう一つの点は該当議員さんが「あれはミスだった」と説明している点
ミスだったとすれば、それがどのようなミスだったのか
そしてそのミスだったという説明は一般市民に説得力を持つかが気になる

そこでおせっかいながら足を運んでいろいろ確かめてみた
まずは政務活動費の精算の段取り
議員さんの活動は職員の業務ではないので、職員に行われる段取り(出張命令書、集計)ではなく
議員さんからの申請によるものとされている
決められた形式に沿って、政務活動の説明を書いて事務局に提出することになっているが
これがかなり大まかなくくり方で、具体的に書くようにはなっていない
そこで書き方にも個人差がある

交通費は旅費規定というのがあって、公共交通機関を用いた場合は経路検索を行って
事務局が調べた一番安価な金額を認めるというもので、議員さんが提出した数字と異なっている場合は
事務局が議員さんに手直しするように伝えることになっている

ところが、申請主義が原則というものの例外は存在する
議員さんが事務局に手渡す交通費は、結局事務局が計算をするのだから議員自身がしなくても
最初から事務局にやってもらえば楽できると考える人が出てくる
今回は最初から事務局にやってもらうとした横着な議員さんがいたということ
(議員さんはいろいろで、きちんと計算や交通費の領収書を提出するひともいるが、
 このように横着する人もいて、これまではなあなあで済まされていたかのよう)

事務局が計算した数字は、本来ならば事務局が議員さんに確認をするのだが
今回の場合は事務局が公共交通機関を用いたものと思い込んで計算をし
時間がなかったし、従来もそのようにしていたので、議員さんに確認とらずHPなどに
公表したが、そこである人たちから事実と違うと指摘されたことから騒動は始まった

ここで、問題は横着した議員さんは「車で行った」と事務局に伝えたかという点
事務局は公共交通機関を用いたものだと思いこんでいた
その勘違いは何処から起きたか
ある議員は伝えたといい、片方は聞いていない(記憶がない)との「言った言わない」論争は結論が出ない
ところが車で乗り合わせた議員さんたちは、ドライバー役の議員さんに割り勘で交通費をひとりあたり〇〇〇円支払っている
その事実を自覚している議員さんが、事務局に「計算しといて、、」と依頼する時に
何人が何人とも「車で行った」と言わなかった(事務局の記憶に残るほどに)ということは
そこに悪意(差額分は得できるかもしれないとの思い)が存在していた可能性を否定出来ないのではないか

確かに現象面では確認を怠った事務局の責任がないとは言えない
しかし、割り勘をして車の費用を各自支払った自覚のある人物が、そのような説明を事務局に記憶に残るように
していないとすれば、それは事務局のミスと言うよりは意図的な何かを感じてしまう

議員さんの説明が一般社会に通用するものか(上記解釈は個人的なものだが)
議員さんは説明責任がある
しかし議員さんの説明は、自分たちの議会用語、議会内理屈でなされることが多いので
まるで詭弁のようで一般市民にはイマイチよくわからない

残念なのは一部の市民にとって、何人かの議員さんは信頼に値する存在ではないということ
「新城市はピンチなのか?」が再び頭をよぎる





 

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「愛は限りなく」(ジリオラ・チンクエッティ)歌い方の変化

2019年07月17日 19時16分10秒 | 音楽

美空ひばりは何処に行っても同じように歌うように努めた
と何かで言ってた記憶がある
聞き手はレコードやテレビ・ラジオで知ってる歌を聞きたいので
自分の方から崩して歌うのは聴衆の期待に添えなくて失礼だというのだ

歌い手さんは同じ歌を何回も歌ってると飽きるだろうと同情を禁じ得ない
歌は(音楽は)年令を重ねると表現に対する感覚が変わってくる
たまたま歌い手さんの変化を感じさせる動画を見つけた
カンツォーネの「愛は限りなく」でジリオラ・チンクエッティの歌
彼女のサンレモ音楽祭、二度目の優勝曲だ

若い時期の歌いっぷりがこれ

 

そして比較的最近の歌いっぷりはこちら

歌よりも容貌がすっかり変わっている
だが、この人はいい歳のとり方をしたんだろうなと感じさせる
それがそのまま歌にも現れているかのよう
どうしても巻き戻すことができない時の経過、それに対する郷愁と諦めと憧れのようなものが
入り混じって人の感情に訴えてくる

これと比較すると若い時は、なんと初々しく希望に満ちているように感じられることだろう
どちらもいいけど、今はおばさんになってるほうが好きかも

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選挙演説の妨害に対して、警察は公平か?

2019年07月16日 11時00分50秒 | あれこれ考えること

ツイッターを利用している
フォロー数が多いとタイムラインにドンドンと新しいものが登場して
訳がわからなくなるので、フォロー数は控えめにしている
当然フォロワーもそれほど多くない

ところが、直近のツイートが何時になく反応がいい
それはある投稿にコメントを入れたものだが、良いねとかリツイートが
自分のものにしては多い

その投稿というのは、札幌(だったかな)の選挙演説で安倍さんが登場した時
一人の男が「安倍やめろ」と大声を出して、二三回繰り返していると、
警官がやってきてその男を囲むようにして何処かへ連れて行った動画を見て
「警察はどのような法的理由で彼を連れ去ったのだろう?」とコメントしたもの

すると直ぐ様「良いね」とか「法的根拠知りたいですよね」との反応があった
その他にも集合知とは凄いもので、しばらくすると
「これは公職選挙法の演説妨害は選挙の自由妨害として、刑事罰の対象となるもの」
との考えが紹介された
ここからがすごくて、このコメントを受けて
「とは言うものの、今回の一人が演説のじゃまになっているかどうか不明のような状態で
これが適用されるかどうかはわからない(裁判例を交えて)」と詳しい情報がアップされた

これらに反応した人は、こちらはどうなんだ、、と別の角度から問題適された
今度は京都で行われた共産党の演説に(山本太郎も参加)拡声器を持った男が演説の邪魔をしていても
警察は彼の周りを囲むだけで、結局は最後まで邪魔は続いた
同じようなことをしていても、警察は片方はその場から排除、片方はそのままにしている
果たしてそれで公平に行動しているのだろうかとの疑問の声があがったのだ

彼らの言い分は政権批判の野次は警察に排除されるが、与党側の野次は排除されないで
むしろ守られた状態になっているのではないか、、というもので
確かにそう思われても仕方のないようなことが多く見られる

世の中は想像以上に偏っているかもしれない
テレビ・新聞しか見ない人は気づかないかもしれないが
いろいろ気づくタイプの人間にとっては、今は危なっかしい世の中になっていると思えて仕方ないだろうな

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リップマンの「世論」、早く読みたいが(上)がまだ来ない

2019年07月14日 08時59分19秒 | 

大きな書店に行っても欲しい本が見つからないことがある
アマゾンでは悔しいくらいに、この本はいかがですか!
と的を得て薦めてくる
しかし、無駄が多いとしても書店での本との偶然の出会いは
それはそれで楽しい

欲しい本はアマゾンでもなかなか手に入りにくかった
上下の二冊に分かれたリップマンの「世論」がそれで
昨日届いたのが(下)の方

(上)の方は届くまでにはもう少し時間がかかるようだ
(二冊ともリサイクル品としてしか手に入らないから)

帯にあるようにこの本は「100分deメディア論」で紹介された本だが
参議院選挙を控えて、また最近の世論調査と実感との相違、やたらと単純化される議論の進め方
感情を煽るような意見が幅を利かすようになっている傾向、嘘か本当かわからない情報が飛び交っている様
などが、どうにも気になって急に手にしたくなった

(下)の扱っている内容は目次を見ると

第5部 共通意志の形成
第13章 利害関心の移行
第14章 「イエス」か[ノー]か
第15章 指導者たちと一般大衆

第6部 民主主義のイメージ
第16章 自己中心的人間
第17章 自己充足したコミュニティ
第18章 力、官職任命権、特権の役割
第19章 装いだけをあらためた古いイメージ  ギルド社会主義
第20章 新しいイメージ

第7部 新聞
第21章 一般消費者
第22章 定期購読者
第23章 ニュースの本質
第24章 ニュース、真実、そして一つの結論

第8部 情報の組織化
第25章 打ちこまれるくさび
第26章 情報活動
第27章 一般のひとたちに訴える
第28章 理性に訴える

これだけでもなかなか面白そう
今すぐにでも読みかけの本をやめて読み始めたいが、(上)が届くまでお預けとしよう

本を読むと、いろいろ情報が増えて今起きていることも過去の例に当てはめて
パターン化して捉えようとする傾向があるとの考えもあるが
過去の事例を知れば知るほど、同じことが起こそうな不安感を持つのはこれまた事実

思考がパターン化されるというものの、現在の政治家さんや評論家の方々はどのくらい
古典とされるこのような本が内面化されているのか、少し心配なこの頃




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少し荒れた議会報告会(千郷会場)

2019年07月13日 11時38分45秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市では7月1日から議会報告会が行われている
会場は地域自治区ごとの10箇所
18人の議員さんが適切に分かれて、共通の報告と
各地区の問題点を話し合うことになっている
以下は議会報告会最終日のある会場での話で
別の方からの引用

普通なら7時に始まって最初の30分は議会からの報告とそれに関する質問
その後は各地区に割り振られたテーマに沿って議会と市民との対話で終了は8時半
それが新城市の議会報告会のスケジュール

ところが昨日行われた千郷地区の議会報告会では最初からスケジュールどおりには進まなかった
もっとも、それは予め予想されていたことのようで運営側もさほど緊急事態と感じていなかったようだ
人口が多い千郷地区は市議会議員も浅尾・山田・澤田・鈴木・山崎・竹下議員が選ばれており
この議員さんたちは議決に際し対立する判断をすることが多い
昨日はこの6人に加えて、村田・山口・長田議員が参加して9人で行われた
(別の地区でやはり9人で行われている)

スケジュール通りに進まなかったのは冒頭から問題提起がされたからだが
その前にこの日の議会報告会の議員間の力関係を最近の傾向(議決判断)から紹介すると
浅尾・山田・澤田・山口議員のグループと、村田・長田・竹下・山崎・鈴木議員のグループに分かれる

冒頭から問題提起されたのは、テレビ・新聞で報道された政務活動費の疑惑について
ここでややこしいのは政務活動費の疑惑は2つあって、平成30年3月に東京へ赴いた件と
31年3月に滋賀県に赴いた時が問題となっている
テレビで報道されたのは滋賀県に行った時の方で、車で乗り合わせて行ったにもかかわらず
政務活動費は新幹線等を使ったとして精算を行ったのは事実と異なりおかしいのじゃないかという点
もう一つは新聞に掲載された件で、東京出張して一泊して2日目にある場所に訪れたと報告しているが、
その場所というのが現在は埼玉県の方に移転しており存在しない
結局は別の名称の機関(国立造幣局)を訪れていて、なおかつその日は土曜日で普段ならお休みの場所
何らかの方法でそこに立ち寄ったとしても議員さんの所感等が存在しないので、
果たして本当に有効な視察出あったのか、、、と疑いの目を持たざるを得ないとするもの

この日冒頭からこの点について詳しく情報を知る人から鋭い(きつい)指摘が突きつけられたのだが
怒りを覚える感覚は理解できるが、あの会場にいた人たちがこれらのことを詳しく知っているとは思われないので、
もう少し会場での事実確認・共通認識を確保をしてからの進め方のほうが良かったと思われる

千郷地区はややこしい問題がこのところ起きている
少し前は地域自治区の活動交付金の不正受給問題で、山崎議員が政治倫理審査会にかけられ
その結果「議員辞職」を議会から受けているし、中こども園の建て替えの候補地については現在のところ、
別の所と割れていて、この地区選出の議員さんの間でも意見が割れている
この意見の対立構造が若干いろんなところに現れているようだ

会場にはそれぞれに応援団が集まると良いのだが、昨日の場合は明らかに政務活動費の件で旗色が悪いので
そちらの陣営の方々の参加は少なかったようだ
この地区の人間ではない自分は成り行きを眺めていたわけだが、政務活動費について追求する方々の理屈はよくわかったので、
今度は「(事務局が)ミスをした」と弁解する方々のミスとは一体何だったのか、どのような作業のなかで起きたのか、
それはミスなのか、それとも悪意のあったものなのかどうなのか、、、が知りたいと思った
そしてそのミスの説明が一般常識からして通用するものなのかを確認したいと実感した
議員さんや職員の方々は難しい言い方をするので(国会でも)実際には説明が「言い訳」にしか思えないことが多い
この言い訳が、一般人にストンと落ちるものか、それともモヤモヤが残ったままになるのか
会場に漂う雰囲気を感じたいと思ったが、昨晩は怒りを表明する方々が多かった

議会報告会に集まった方々は(現実には)議会で議決された内容を詳しく知っている人は多くない
今回の議会報告会では議決が割れた案件について、配られた資料に賛成・反対の理由も記されていたが、
残念ながらその細かな部分まで理解が進まない
そこで問題となったのは浅谷地区の養鶏場の買上げの議決判断の問題
この議決では、予算執行に関し、養鶏場を買い上げるのには反対はしないが、まだ不明なところの多いまま拙速に物事を進めるのは好ましくない、
9月議会に再度検討すべし、、との意見の浅尾・澤田・山田・山口議員のグループと、
この機会をは絶好のチャンスで長年に渡って懸念されていた悪臭問題が解決されるとの判断を下した村田・長田・山崎・竹下・鈴木議員の
グループが同席しているので、特に後者のグループの議員さんに最終的な議決判断の根拠を伺いたいとの質問が会場からでた

それに対しては、
1.長年の悪臭被害をクリアする絶好の機会、
2.今を逃すと他の民間業者の手に渡ってしまうかもしれない、そうなればまた苦情が起きることになるかもしれない、
3.この養鶏場の場所は工業団地の計画の場所で将来的に買い上げておいても無駄はない、、という行政の説明をまるっきり同じだった

しかし拙速に進めないほうが良いとする方は
2.の今を逃すと他の業者に渡ってしまう可能性について、少し首を傾げている
それは現時点での立地とか条件が果たして企業が投資対象とする場所なのか(道が狭い)
仮契約を結んでいるのだから、あらたに別の企業が購入に割り込んできても、仮契約状況を縦にすぐさまの行動には至らないでのはないか
そして3.の工業団地用についても、現在はその計画もできていないし造成費用もどれだけかかるか試算もできていない

問題は、これらの慎重にとする派の意見を踏まえた上での反論や討論がもう一つのグループからはなく
結果として議員さんの間で熟した議論はされなかったことだ(議場でも報告会でも)
結局は片方は疑いを持ったまま、片方は行政の言ったことをそのまま信じ、採決になったということだ
会場の方々はテレビや新聞で知った政務活動費の件では、怒りを覚えることが多かったようだが
この少しばかり難しい判断を要する問題について、初めてその内容を聞いて、どのように感じただろう
チャンス到来、逃すべきではない、多少の小さなことはあとでなんとかするほうが良いかもしれない
と感じるか、それとも
どうも不明なこと(面積・鶏糞処理等)が多すぎるので、慎重にことに当たるべき
と感じたのだろうか

そしてその会場にいた議員さんたちは、その空気をどのように感じたのだろうか

議員さんたちは住民投票の年の荒れに荒れた議会報告会のことがトラウマになっていて
現在は議会報告会は意見を聞く場所というものの、現実はやっただけのアリバイづくりに終始している
と思ってしまうのは、ひねくれた感じ方かな

それにしても、、、、








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原文のリズム・音のほうが余韻がありそう

2019年07月12日 08時59分57秒 | 徒然なるままに

一頃ほどではないが書店には万葉集絡みの本が並ぶ
今のタイミングでこれらの本を購入するのは少しばかり気恥ずかしい
でも、時々気ままにページを開いて時間つぶしには役立つので
先日このシリーズの本を手に入れた(1と2)

画像は二冊目で、令和の出典は一冊目の方にあると帯にある
いくつかあるうちでこのシリーズを選んだのは、書店で立ち読みした時に
現代語訳が読みやすかったからだ

パラパラと見ていくと割合面白いのが歌の前に書かれている何時・誰誰が
どこに行って作った歌という部分で、当時の人たちの生活を感じられる
歴史家たちはきっと歌よりもここに書かれている行動の方に興味があるのだろう

小説のように順番に読んでいかなければならないことはないので、適当に開いて見てみると
知っている名前が出てくる山部赤人とか柿本人麻呂とか、、、
そのなかでこの名前を見る度に気になる人が、坂上郎女だ
たった31文字の歌だが、個性とか感性とか人格とか、、そういったものがそれとなく感じられて
この女性の感情に訴える歌は男の自分でもなんとなくわかるという気を起こさせる

そこでまた一つ感じたことがあった
歌は昔の言葉なのですんなり分かるわけでなない
必然的に現代語訳を見ることになるのだが、それらを読むとどうも味気ない
意味はわかっても余韻がないとか意味がストレートすぎてつまらなく思えてくる
比較すると意味はわからなくても、原文のリズムとか音のほうが豊かな世界が感じられそう

瀬戸内寂聴さんは源氏物語を楽しむには究極的には原文を読むことが良い
と話されことがあったが、なるほどそうかもしれない、、と実感する

ところで坂上郎女の、適当にパタパらして見つけた歌は

我が背子(せこ)に恋ふれば苦し暇(いとま)あれば拾(ひり)ひて行かむ恋忘れ貝

我が背子が着(け)る衣(きぬ)薄し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで

あまり意味がわからなくてもなんだかいい感じ

 

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アドバイスのつもり(説教?)

2019年07月11日 09時41分33秒 | 徒然なるままに

外国の報道番組の街頭インタビューのシーンでは、政治的な問いかけにも
若い女性が照れ笑いもしないで自分はこう考えるとシンプルに答えている

同様な質問を日本で行うとどうなるかと想像すると
わからない、、とか、苦笑いしながら答えそうなイメージがある
そんな人ばかりではなくキチンと答えてる人もいるだろうが
イメージとしてはこちらのほうが浮かぶ(偏見かな)

実際は外国の報道番組でも要領を得ない答えをしている人がいても
編集でカットされ、刺激的な部分だけ強調されているのかもしれない
でも、日本人がこうした問にちゃんと答えられないのではないか、、
との思いが、現在おっさんの身には多少心配

いつの時代も「今の若いもんは、、、」と苦情が出てくるものらしいが
自分の過去を棚に上げて敢えて物申すとしたら
「今の若いもんは、やってみなきゃわからないことを、頭でっかちに端っから結論を決めている」
と愚痴をこぼしたくなる

若者に嫌われるのは「説教、自慢話、昔話」らしいが、それでも自らの経験で得た(と思われる)知恵は
おせっかいな親切心からも伝えたくなってしまう(それが説教になるのかもしれない)

とにかく、やってみな!
結果が報われなくても、その間に経験したことは別のことできっと役に立つ何かが得られるから、、
人の能力のなかで肝心なのは、寄り道した時にそこで何かを得る能力だそうだ
そして、実際に身につくことは、あがくようにして自ら深く体験したことに落ち着くと実感するから

今の若者は情報通で賢い、でもひ弱
昔こんなCMがあった
「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」
外国の若者と比較すると、このたくましさが欠けるよう思えるのが、おっさんは心配




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見続けると人となりが見えてくる

2019年07月10日 09時11分52秒 | あれこれ考えること

人は長く話すと性格や人格が垣間見える
だが初対面の相手は大きく見えたり自分より優れているかのように思う
名の知られた人に対してはその肩書や情報によって、つい無条件に
信頼すべき人のように思ってしまう

ところが我が国の首相のあの人物
付き合いが長くなっているので無条件に尊敬に値する人物とは思えなくなってきている
むしろ、彼のアラが見えてきている
国会での質問への長々と関係のないことを話すこと
自分で野次を飛ばしておきながら、相手がやじるとムキになって非難する
直近の選挙絡みでは、笑いを取るために「民主党の枝野さん、、名前がコロコロ変わるから覚えられない」
と批判する
自民党総裁でありながら自民党が行ったトンデモ本の配布を知らなかったり、読んでないという
意気込みは気負って言うが結果責任としての政治上の成果は出していない(北朝鮮との対話、拉致被害者、北方領土)
統計においても、統計はユーザーの目的によって  云々と官僚が述べているが、野党が別の視点からその統計の数字を
持ち出すと一切受けつけず、自分たちの数字のみが正しいものと言い張る
そして不安を煽るのは、その人間性(最終的な判断を下す元となる)が信用できないということ

これらはまるっきり反対の心酔者も存在するから、一面的な見方と言えるが
ただ言えることは、長く話す(付き合う)と根っこの部分の人間性が見えるということ

例えば政治的な面において、人は自分に人を見る目があると何を持って自信を持つのだろう
直感と言うのは恥ずかしいので、政策・マニフェストによって判断すると言うかもしれない
しかしそのマニフェストを一般の人はどれだけ理解して、その後の検証をするだろうか
結局のところ人は人物像で選んでいるのではないか
(利害関係がある場合はそれに従うに違いないだろうが)

人の本性を垣間見せるために、数年前、3人が舞台に立って話す機会を設けた(期間を開けて3日間)
一応ルールは決めた(各自話す時間は3分間)
しかし、そのルールを破っても途中でストップはかけることはしなかった
何故ならば、そこにその人物の根っことなる人間性が見られるからだ
3分の音がなっても平気で話し続ける人か(誰かみたい)
それとも3分の音がなると途中でも慌てて話をやめようとするか
そうしたところが見えた
これは話すときだけでなく聞いている時の対応も違いが見られた
「時間オーバーしてるぞ」と聞こえるように指摘する人
オーバーしてても黙って聞いている人
そのどちらが良いかはその場にいた人が決めること

人を見るのには時間をかけて見たほうがいい
肩書だけではわからない何かが見えてくる
現在新城市で行われている議会報告会
そこにいる人達は長い時間見続けられて尊敬の念が増える人物か
それとも、呆れられる人物か(最近不祥事が多すぎる)
選挙のときだけでなく、こういう機会を生かさないと適切な判断はできない、、

それにしても、、、

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無意識的に同調する傾向と個人の判断

2019年07月08日 08時41分35秒 | あれこれ考えること

読書好きはベストセラーを読まない傾向にあるらしい
他人の価値判断よりも自分自身の選択基準があって、それに従って読む本を決めるから
ベストセラーとか本屋大賞はさほど気にならないと思われる
これは自分自身が納得する

話は飛んで、参議院選挙を控えていろんなアンケートとか世論調査結果が
メディアに公開されている
選挙すればでてくる結果にもかかわらず、その前に過度に予想数を報道するのは
果たして意味あることなのだろうか
そして、それは危険性を孕んでいやしないだろうか

自分の意志が他人の意見に左右される  といった実験がある
ソロモン・アッシュの実験がそれで、
右側の図には三本のそれぞれの長さが違った戦が描かれている
左の図にはそのうちの一本と同じ長さの線が描かれている
三本のうちどれが同じ長さの線かを問う実感だ
ぱっと目に答えはわかる
この実験を一人で行ったときはほとんど正解を答える
しかし、答える側にサクラを入れて、そのサクラが間違った答えを耳にする機会があるときは
人は答えを間違える傾向にある
自分は間違っているかもしれない、、と不安になって、多くの意見に心ならずも従ってしまう傾向があるのを
明らかにした実験だ
つまり、人は同調圧力に屈する傾向があるということ

ここでソロモン・アッシュの実験についてのページはこちら→人は誰でも同調圧力に屈する

またまた話は飛んで、若い世代には安倍さんや自民党の支持率が高いと報道されている
ところが、いくつかの質問に答えることによって、
自分が本当はどの政党を支持しているのかをわかるようにした調査をした場合
その結果は、世論調査のような結果に落ち着くだろうか

現実に、ウエブ上に「政党との相性診断」というページがある
それがこちら→政党との相性診断

これを行うと若者は無意識に答えていた自分と違う自分が発見できるかもしれない
いやそれどころか、多分、答えは多様性に分散すると思う(勝手な想像だが)
この結果を踏まえた時、若者はもしかしたら心のなかで支持しているかもしれない政党を支持するのか
それとも世間的に有名な、みんなも多そうな政党を支持するのか
これをソロモン・アッシュの実験と合わせて考えるととても興味深い

読書好きは自分の判断基準を持っているから、世間がベストセラーをいくら騒いでもあまり気にしない
その時読みたい本を、まるで導かれるような運命的な出会いとして、自らのうちに湧き上がってくるものに従う
本に対する情報とか理解度が高いから自分を信じることができるのだろう
ところが、政治のような一種抽象的な話に対する情報や知識を持っておらず、判断すること自体が不安を覚えている若者は
ついつい寄らば大樹の陰のような判断をするのではないか
その結果が現政権への無意識な支持となっているのではないか(と思ってしまう)

ミシュランガイドの店に行ってみる、評判の観光地・スポットに行ってみる、トレンドになっている商品を購入してみる
そしてそれらを実体験していることを公にし、一種の見せびらかしを行う
それは全世界的に行われているから、人はそういうものなのかもしれないが、少しばかりへそ曲がりはこの状態を悲しいと思う

他人に左右されすに自分で何かを決める
映画「新聞記者」には「誰よりも自分を信じよ、そして疑え」
映画「ボヘミアン・ラプソディ」では「I decide who I am」
少しニュアンスは違うがエーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」などで
自分自身の内面を信じることの大事さを説いている
これは多分大雑把な言い方をすれば「個の確立」に集約されるだろう

日本の社会は世間様に左右される
この世間が「誰かが見ている」という倫理的なものならばいいのだが、
どうもそうではなくて、世間と違うものを受け付けない、、ようなニュイアンスが強い
過度に同質性を要求する社会に思えてならない



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アンコール上映の「主戦場」を見に行った

2019年07月07日 20時10分07秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

名古屋に行くのは土日がいい
最寄りのJRの駅から名古屋往復はウィークデイは1960円、土日は1640円で
電車賃が320円も違う
最近はこの手の細かいことに気がつくようになって、ヨーグルトなどは
売出しの安い時しか買わなくなっている

今日名古屋にでかけたのは映画「主戦場」を見るためだ
慰安婦問題を真正面から取り上げたドキュメンタリーで
昨日からアンコール上映が始まっている
日本の慰安婦問題を取り上げているが殆どが字幕入りの英語だ
しかもそのテンポは速い

先日見た「新聞記者」と観客層は被るかもしれないが、今日のほうが年齢層はバラバラで
比較的若い人もいた(今日は日曜で、新聞記者のときは平日の昼の時間だから仕方ないか)

ドキュメンタリー映画は退屈になることが多いが、この映画は退屈することはなかった
とても見通しの良く論点が整理された、まるで補助金申請のプレゼンのような(上手な論文のような)
まとまりの良さだった

慰安婦問題については、映画の中にあるように日本人は(自分も)あまり詳しく知らないことが多い
その理由がある時期の政府の方針から来ているのはわかったが、どちらの立場に立つにせよ
どうも感情的な対立ばかりが目立って、お互いが冷静な対話ができていないのが現状だ

ただ通して見ると(それが狙いだったのかもしれないが)歴史修正主義者、慰安婦問題などなかった
と口にする人たち(杉田水脈・櫻井よしこ・ケント・ギルバート、、、)は自分たちに都合の良い情報は
独自解釈で大声を上げるが、相手側の言い分には耳を貸さない、、読もうともしない、、傾向がみられた
そして、あの状況に置かれたひとがフラッシュバックのように踊ってくる屈辱感や嫌悪感に対する想像力・共感力が
全くと言っていいほど感じられなかった
奴隷という言葉一つをとっても、足に鎖をつけられて自由がないのが彼らは奴隷としているが、現実的には
自分の判断で自由に何かをできない状態は奴隷状態と言える

この映画を見て内容とは少し別なことに不安を覚えた
それはこの骨格のしっかりした作品は日系アメリカ人が作り上げたもので
ここまで精緻な作品を今の日本人が作り上げることができるのだろうかということ
社会的・政治的な空気とか情に訴えがちな日本的演出が直ぐに頭に浮かんで
日本人の感性ではできないのではないのか、、、そのような気がしてならない

一気にいろんな情報を目にしたので頭の中が整理されるのにはもう少し時間がかかるかもしれない
でも、この映画は最近見たなかでは出色のものと言える
不意に以前読んだ「天皇機関説事件」を思い出したが
現在がいつのまにか戦前になってしまわないようにと願わずにはいられない
(今はそんなふうに感じさせる空気を感じてしまうのだ)





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