パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ブログ書籍化サービス(庁舎用地外移転補償費騒動)

2019年07月06日 20時24分20秒 | 徒然なるままに

何ヶ月か前、新城市の住民投票とその後行われた実務協議のことを記したブログを書籍化したものを
住民投票で中心人物だった方に、その記録の一つとして、またご褒美としてプレゼントした
するとその方から二・三日後にメールが届いた
「いただいた本を懐かしくて一気に読んでしまいました。忘れかけてた様々な怒りが思い起こされました。
 ありがとうございました。」
そう、あのときは様々な怒りが自分にも次々と襲ってきて、眠れぬ夜もあった

当初は自分は市民運動など関わっておらず、行政の言い分が正しいのか、市民が訴えることのほうが正しいのか
それを判断する知識・情報を持っていなかったので、自分なりに市役所へ行ってはいろいろ調べ物をした
そうして調べたこと、確認したことをブログに文字起こしをして自分の頭の中を整理していた
だから今になると少しばかり勘違いしているところもある
でも、それ故に特別な存在ではない(議員さんや職員ではない)市民が理解しているのは
この程度のことと一般化できるのかもしれない

この住民投票とその後の経緯の書籍化したものは、一部の仲間内に「懐かしい」と評判だったので
それに気を良くして、今度は例の行政裁判絡みのカテゴリーの部分だけを書籍化することにした
今度は小さな本のサイズで、ページ数もそんなに多くない
これは書籍化する前に一部分プリントアウトしたものを渡した人がいるが
時系列に読んでいくと、事件の全体像がわかりやすい、、との声があった

最近つくづくこのような一市民の記録が大事なものと思うようになっている
諮問しておきながら受け取りを拒否するようなことが平気で起きているこの国
時間が経てば公文書は都合よくまとめられてしまう
その時の空気感とか雰囲気、実態はそうではない、、
とささやかな抵抗をするのは、後の歴史の検証ためにもとても必要なことと思われる

ところで出来上がるのはいつになるのだろう
頼んだら、出来上がりが待ち遠しくてならない



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蚊がやってきた

2019年07月05日 16時37分29秒 | 徒然なるままに

虫に文と書いて「蚊」この字を作った人はお笑いのセンスがありそう
昨晩、蚊が寝床にやってきた
でも音はしなかった
気がつくと手と足が痒くなっていた
注意してみると、とても小さな小さなか弱そうな生き物が
手と足の上を頼りなげに、、

小さいからといって優しくする訳にはいかない
「蚊取り線香ある?」
そこで我が家の始末屋さんが引っ張り出してきたのは、昨年使った電気蚊取り
肝心な薬の部分はティッシュで包んである
「去年、そう使わなかったから大丈夫」

はいはい!それで効果があれば大儲け
とりあえず使ってみましょう、、、

ということになったが、これが効いたのかどうかわからないが
その後蚊に食われることはなかった

いよいよそういう季節になってきた



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忘れるから、、、じゃ、困るけど

2019年07月04日 08時44分32秒 | 子どもたちのこと

一昨日の火曜日は低学年の外国出身の子の勉強のお手伝い
昨日の投稿(ちびさんたちがおりこうさんになりますように)とは別の話題

「僕に教えて、、、」とねだる子が一人いない
「Eくんは?」
と聞くと、
「Eくんね、来ないって」
どうやら先日お手伝いの大人からひどく叱られたので、
ささやかな抵抗をしているかのよう

そこで、ちょっとばかり手こずる難しい子に聞いてみた
「Rくんもこの間、僕にしっかり怒られたよね」
「うん、でも忘れるから大丈夫」
この返事には驚くと同時にほっとするような気分になった

前回彼は悪い子だった
帰る時になって、勉強した紙を忘れそうになったので、手渡そうとすると
手を払って受け取ろうとしない
そこで、こちらは怒り爆発(本当な怒っていないけど)というわけで
大きな声で叱った
怒ったのではなく叱った
どこが悪いのか、どうして大きな声を出すようなことになったのか
叱っているのは君のためだ、、、
いつもは怒らない男の人間が、真面目な顔をして大声を出すと流石にビビるようだ
彼は泣きそうな顔になった
でも、こちらの話をしっかり聞いている

結局のところ、彼は自分が叱られても仕方のないことと認めたのだと思う
だからこそ怒られても(叱られても)次は休もうとは考えずに
忘れるから、、と来たのだと思う

実感として叱る場合、大人が真剣に自分のことを思っていると
子供が感じるならば、子どもは大人を信用するようになるような気がする
昔から、子どもたちに通用する大人になりたい
と思ってきたが、今の自分は少しは通用してるのかな、、

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市政モニター・アンケートからわかること

2019年07月03日 20時57分09秒 | 市政、市議会に関することなど

地元新城市の話題
別のブログからの転用

6月の新城市議会で滝川議員が新東名高速バスについて一般質問を行った
「山の湊号」と名付けられたこの高速バス事業は実証実験として
1年に(結果的に)約4000万円ほどの経費を計上することになっている
今年度は実証実験の最終年で、来期も継続するか中止しするかを判断することになるが
どうやら今年9月くらいまでに大体の方向を決めるらしい

継続する、やめる、、そのどちらの判断をしても困る人は出てくる
ここで肝心なのはコストベネフィット分析で、かけた費用分の効果が出ているか
を数字できっちり考えることだ
抽象的な「〇〇の効果もあるものと考えられる」という一種言い訳のような分析は
税金の使い方を考えれば、あまりにも無責任に思えてしまう

ところでこの高速バスについて、新城市は継続的にアンケート調査を行っている
新城市政モニター・アンケートがそれで、スタート時の2017年から2018年、2019年と
3年間の変化も見ることができる
(新城市政モニター・アンケートは他の問題についても調査している)

そこで3年間の変化のエクセルの表でまとめてみた
その表が以下で、知名度、利用度、利用したいか、どうすれば利用するかの問がある

表をグラフ化したのが以下
ここで少し驚くのは、知名度が3年目が2年目よりも下がっていることだ
(知ってる人は下がり、知らない人は増えている)
1年目は何かと話題になったから頭に入ったが
走っていることが普段の生活になってしまった3年目は、もう人に訴えないかのよう

3年目は2年目より冴えない残念な傾向は、利用度の項目でも見られる
利用したことがあるという人は2年目よりも3年目が下がっているし
利用したことがない人は2年目よりも3年目のほうが増えている
誤差の範囲と言い訳があるかもしれないが、こうしたトレンドは偶然で済ますことができない


不安がもっとはっきり現れるのが次の項目だ
今後利用したいか?と問に、なんと利用したくないと答える人が年々増えている(緑が3年目)

更に次のグラフは更に驚く
どうすれば利用するか?の問に、
グラフの右から二番目の「どんなに便利になっても利用することはない」が年々増えている


このグラフから見れば(その傾向から見れば)この高速バスは市民の支持を失いつつある
というのが現実ではないのか
ここで、このグラフは意地悪なデータのグラフではなく、市が行っているモニター・アンケートの
数字を基に作ったもので、悪意を持って加工したものではない

でも本当に残念なのは、このような結果が出ることはある程度予想できたことではないのかという点
やってみなければわからない、、との考え方があるが、やらなくてもある程度の予想がつく
ということもある
今回の場合、行政も議会も現実的な計算なり思考をしたのだろうか、、、
と疑いを持ってしまう
ところで、この事業はどうのよな結末が待っているのだろう、、、まさか、、、

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「ちびさんたちが おりこうさんに なりますように」

2019年07月03日 08時20分48秒 | 子どもたちのこと

前回に続いて外国出身の子の勉強の手伝いでのこと
昨日火曜日は低学年の日
会場の入口には笹が立てかけてあった
この教室の中心となる方が7月7日の七夕に向けて用意したものだった

勉強がスタートすると中心人物は白紙に笹の葉と短冊の絵を描いて
今からしようとすることをざっくりと説明をした
七夕の行事で日本人ならわかるかもしれないが、そのような文化のない彼らには
その意味はあまり良くわからなかったかもしれない
それでも子どもたちに短冊を一枚一枚渡して
そこに欲しいもの、なりたいもの、夢みたいなものを書くように促した

まずは鉛筆で書いて、書けたら今度はマジックで書くように伝えた
5分もかからない作業だが、これがなかなか進んでいかない
とにかく気が散って仕方ない

それでもようやく書き終わると、書いたものを見せてもらった
全部ひらがなで書いてある
「ぼくはもとにほんごがうまくなりたいです」
残念、もとじゃなく、もっとなら小さな「っ」を入れなくちゃ

「すいっちがほしいです」と書いたのは別の男の子
すいっちって何?
自分だけでなく手伝いに来ている別の大人もつい彼に聞いてみる
すいっちを扱う動作をしているのを見るとどうやらゲームの機械のよう
「それならカタカナで書かなくっちゃ!」
ひらがな、カタカナ、それに漢字、、、日本語は難しい

「僕も書いてみたよ、読んでみて」
と自分の短冊を見せる
「ちびさんたちがおりこうさんになりますように」
ひらがなばかりだからとりあえず読むことはできる
「この意味わかるかな、、ちびさんたちって誰のこと?」
「僕たちのこと?」
「そう当たり!なら、おりこうさんの意味はわかるかな?」
それを聞いてた手伝いの方が
「おりこうさんというのは、、、、」
と説明をする

こうして出来上がった短冊を今度は笹の葉にくくりつける
それだけのことだが、昔自分たちが親たちからしてもらったことを思い出した
何かに見守られているような安心感、何もかもが肯定されているような気分
彼らは今どのように感じているのだろう
今は何も感じていないとしても、おとなになった時、フト思い出してくれると良いのだけど




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従順の意味を聞いてみた(外国出身の男の子に)

2019年07月02日 09時27分47秒 | あれこれ考えること

火曜日と木曜日の午後は、知り合いの方の奥さんに声をかけられて
外国出身の小学生の勉強をみる手伝いをしている
火曜日は1.2年生 木曜日は3年生以上で
宿題をするのを見たり、問題集に取り組むのを見て、間違いや気づく点を指摘したりする

残念ながらここに来る子達は落ち着きがない
少しだけ漢字の書き取り、計算をするとすぐに隣の子と話をしたりする
「集中、集中」と言っても効き目はない

だが、この子達は何故、そんなに落ち着きが無いのだろうか、、
と考えると、そこにはとてつもなく大きな問題が存在しているような気がする

漢字の書き取りがあった
よくできましたの意味のハナマルの印が大きく描かれたページの漢字をもう一度別のベージに書いて
覚えるというものだが、このハナマル印を見てつい首を傾げてしまった
そのページには送り仮名が必要な文字に送り仮名はなく単に漢字の形を覚えさせるものだった
例えば、笑うという字は「笑」を書くだけ、測るも「測」と書くだけ
これでハナマルはもらっていてもこの子達は意味を理解しているのだろうか、、と不安になる

二文字熟語があった
いろいろ書いているが果たして意味はわかっているのかと不安になって聞いてみた
「従順って書いたけど、この意味わかる?」
「わからん」
やっぱり、、そうか
「この字 従は他になんて読むかな」
「えっと、従う」
「そう、それから想像すると、、なんとなくわかりそうかな
 えっとね、使い方はNくんは従順じゃない、、って使い方するよ
 だって、こうしなさいと言っても君は聞かないだろう、、従わないだろう」
「そうか!」
「大体の意味はわかったよね。でも従順ばかりが良いわけじゃない」
「死ねといって従順になったら、死ななきゃならない、、、これって変」
「エライ、よく気がついた。確かに従順ばかりがいいわけじゃない。
 従うべきか、従わないべきか、それを自分で決めなくてはならない。
 これは難しいけど、その判断が間違わないように自分がしっかりしなきゃならない」

ちょいと6年生には難しかったかもしれないが、彼には従順のの意味はしっかり頭に刻まれたようだ
だから隣の子が「従順」と書いているのを見て
「お前、従順の意味わかるか」と説明をしだす
「あのなあ、素直に従うってことだけど、もし死ねといったら
  従順だったら死ななきゃならいないぞ、、、」
少しばかり極端な説明だが、こうして人に教えることによって人はより物事を理解するようになる

それにしても、、、、、
一番の不安は、彼らが理解していない上でも(理解していないように見えても)ハナマル印を付けて
どんどん授業を進めて行ってしまうような状況が垣間見えたこと
彼らの落ち着きの無さは彼ら個人に責任の大半があるとしても、もしかしてよくわからないにもかかわらず
わからない勉強をせざるを得ないところにあるのかもしれない
仮に彼らが言葉の壁、ハンディキャップのせいで理解が困難ななかで、どんどん授業が進んでいったとしたら
そこに座って勉強するのはとても苦痛なのは想像できる

理解が進んでいないのは言葉のせいなのか、個人の能力のせいなのかわからない
でも現実として、理解が遅れていると思われる子が存在する
この子たちは、放って置かれる、、見て見ぬふりをされるとしたら
この子たちの将来はどうなるのだろう、、、

自分たちにできるのは週に一度、一時間の面倒見だけ
それだでではとても追いつかない、、やるべきことが無尽蔵にありそうな気がする
子どもたち、あるいは弱者たち、、
そうした存在に見て見ぬふりをしない社会になってほしいと切に思う




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