パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

今年の夏

2019年08月11日 09時00分53秒 | 徒然なるままに

連日の猛暑がニュースで報じられている
確かに暑い、でも自分の住んでるところは去年ほどじゃない
流石に昼間はエアコン無しでは暮らせない
でも夜になるとエアコンは必要ない
窓を開けて風を呼び込むと気化熱で体を冷やしてくれるので
直ぐ様眠りにつける

今朝は4時位に一旦目覚めると寒いくらいだった
ほったらかしにしてあったタオルケットをかぶって二度寝に挑戦
次に目覚めたときはいつもと違うセミが「カナカナ」と鳴くのが少しだけ聞こえた

田舎はいいな
涼しいし、ご近所付き合いでいろんなものもらっり譲ったり、、

さて今日は、豊橋でリーズナブルな価格のオーケストラコンサートがある
プログラムはショスタコーヴィチの5番とドヴォルザークのチェロ協奏曲その他
上手い下手は度外視して楽しむことにしよう
これが済むと来週の18日は愛知祝祭管弦楽団の「神々の黄昏」

今年の夏は案外充実している、、かも

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「群衆心理」から、一部抜き出し

2019年08月08日 08時30分51秒 | あれこれ考えること

そのときそのときに夢中になることがある
今年の一つには「源氏物語」がそうだった
現代語訳を読んで、関連本を読んで、聖地巡礼にいって(宇治、六条院跡、夕顔史跡、葵祭など)
全身で想像の世界を楽しんだ

それがひと段落すると今度は少し真面目なテーマに移ってきた
最近はかた苦しい政治とか社会に関することがメインだ(昔からは想像つかないが)
購入して読んだ(読みかけの)本は、生々しい現在の話やら古典やらで
具体的には明石順平の「データが語る日本財政の未来」「国家の統計破壊」
ウェーバーの「職業としての政治」リップマンの「世論」朴裕河の「帝国の慰安婦」
そして現在読書中がル・ボンの「群集心理」

これらはアマゾンの賢いおすすめ本につられたというよりは、自然発生的な興味で読むようになった
(と思いたい)
何故、ネトウヨという人々は物事を単純化して、理性的な活動をし得ないのだろう
人を非難(攻撃)するときのほうが力を持ったり支持を受けやすいのは何故なんだろう
そもそも集団としての判断を理性的に行うことが可能なものか(民主主義は本当に機能するか?)
漠然と思うこれらについて、なにかヒントを!と、たどり着いたのがこれらの本というわけだ

現在読みかけの「群集心理」は洞察力に満ちた内容とは少し違い、むしろ報告書のような趣がある
オルテガの定義した「大衆」とは違い、個々ではちゃんとした判断ができるにもかかわらず
集団となるとどこに向かうか怪しい存在となってしまう群衆
ひとかたまりとして考えるのは化学のコロイドの研究に似ているかもしれない
(コロイドは単なる集合体ではなく、独自の性質をもつ)

「群集心理」の一部を抜き出すとこんなことが出てくる

群衆は、推理せず、思想を大雑把に受け入れるか斥けるかして、論議も反駁も許さず、しかも群衆に作用する暗示は、
その悟性の領域を完全におかして、ただちに行為に変わる傾向を有することを説いた。
また過度の暗示を受けた群衆は、彼らに暗示された理想のためには、進んで一身を犠牲にすることを述べ、
最後に、群衆は、強烈で極端な感情のみを知ることを説いた。群衆にあっては、同感はただちに崇拝となり、
反感が生まれるやいなや憎悪に変わる。これら概括的な説明によって、すでに群衆の抱く確信の性質をうかがうことができる。

群集心理から(第4章群衆のあらゆる確信がおびる宗教的形式)

これなどは、あのネトウヨと言われる人々を彷彿とさせる
もっともその反対の立場の先鋭化している人々も似ているかもしれない

昨日からのテレビで話題になっている小泉進次郎と滝川クリステルの結婚報道
これなどは、祝福することはいいとしても、過度なそれは危険な「群集心理」を作り出す要因になってしまわないか、、心配
パンとサーカス状態に知らず知らずなっていないかと、、、


 

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表現の不自由展騒動から連想したこと2つ

2019年08月07日 09時14分35秒 | あれこれ考えること

愛知県のトリエンナーレの表現の不自由展(その後)では
慰安婦像の展示騒動に端を発し展示会事態が中止になってしまった

そこで思い出した2つのことがある
一つは「天皇機関説事件」山崎雅弘を読んだときに感じたことで
とんでもなく強引な無理筋の理屈が、力によっていつの間にか空気となってしまうこと
天皇機関説はその分野の専門家によれば天皇制を敷いていない国でも理解可能な
「機関」としての捉え方で、最初は国も認めていたし
先日のNHKの「御前会議」ではイギリス留学経験のある人間として天皇自身も
受け入れやすい概念であったように思われる

ところが天皇制を崇め奉る人間たちによって、あるときは暴力、あるときはプロパガンダ
によって、今度は正論を口にすることさえできなくなっていった
そしてその結果導いたものは戦争への道と悲惨な国の姿
天皇機関説事件を主導した人物は戦後に自殺したらしいが
間違った情念や思いが国とか庶民の将来を破壊することになるのもかかわらず
雰囲気的に受け入れやすいというだけで、つい漂ってしまいそうな空気を
(嫌韓・慰安婦問題・南京事件等で)今も感じてしまう

現在読書中の「群集心理」には、ひとりひとりはまともでも集団となると
一気に理不尽な行動をし勝ちになる実例をあげている
そしてそれは残念ながら「群集心理」が書かれた過去のことではなく今も
現実に起こってると思わざるを得ない

もう一つは「慰安婦」の少女像について
少し別の資料でも確かめなければいけないが、「帝国の慰安婦」によれば
慰安婦の年齢層はこんなに幼くなかった、、らしい(何人かはいたかもしれない?)
ところが、幼い少女を主人公にしたある小説で、それが劇的であるがゆえに慰安婦についての
イメージができてしまい、更にそれは政治的にも有効であったので利用されることになったとあった

話は変わるが日本人の大好きな「坂本龍馬」は一次資料から推察される人物像ではなくて
おそらく司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで、あるいはその原作のドラマを見て
彼の行ったことをそのまま信じていることが多いと思われる
それは小説上の出来事でもいつの間には本当に起こったこと、、と信じてしまう人が多いということ
どうも人は事実の積み重ねを個々で調べ上げて人物・事件理解をするより、読みやすく理解しやすい
フィクションの方を信じやすいということで、これは百田尚樹の「日本国記」の読み安さゆえの
都合の良い歴史理解に繋がりそう

現実的なところ人はあらゆる分野で専門的な知識や情報を持つわけにはいかない
どうしても専門家の話を聞くとか、わかりやすい話で理解したいと思ってしまう
そこで必要なのはボイテルスバッハ条約にあるように「意見の対立があるものはあるものとして」
意見を交換し合う癖をつけるということ
自分以外の意見を排除するのではなく、そのような捉え方もあるのだと認めた上で
丁寧に討論していくという癖、、、それが今、かけているように思えてしまう

それにしても、日本は先の戦争の総括をどのようにしたのだろうか
総括する前に新たな戦争への危機の前に、アメリカを中心とする現実優先で時が過ぎてしまっただけなのだろうか
世の中はそういうものだと思いながらも、、、もう少し、じっくりと国民の共通の記憶として
残すべきものはあったと思われる

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水やりは葉っぱへも、、、

2019年08月06日 17時11分11秒 | 徒然なるままに

朝の水やりをしながら考えた
当たり前のように水を根本(ねもと)にかけているが
木は人間がシャワーを浴びるように葉っぱにかけてほしい
と思っていないだろうか

そんなことを思うと気になって仕方ないので
ホース口を細かなものにして空に向かってシャワーのようにかけることにした
高いところまで水は届いたが、葉っぱは受けきれず直ぐ様落ちてくる
ほんの表面が濡れただけ
でも涼しいと思うだろうな!と、少し良いことをしたような気分になる

根本の葉っぱにかけるとカエルが飛び出した
トカゲも、見つかってしまった、、というようにさっと隠れる

昨年は立秋になると秋の虫の声がした
今年は二三日前、聞こえた気がした

立秋は8月8日
秋まであと少し(?)


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朝の水やり

2019年08月04日 08時33分39秒 | 徒然なるままに

去年の今頃は股関節が痛くて何もしなかったが、幸い今年はゴソゴソできている
数少ない自分の役割が庭の水やり
今年は2本の木が枯れて植え直したものだから庭師さんに
「この2本には今年はしっかり水をあげてください」と言われてたので
朝と夕方に言われなくても自発的に行っている

朝は気持ちのいい空気の中で行うが、困るのが虫
小さな虫が脚、腕、手に知らず知らずかゆみの元を残していく
それで虫よけスプレーを「ちゃんとやっときなさいよ!」と言われて
もうじき空になりそうなのをケチって使ってる

水をあげるのは動物に餌を与えているみたい
現実は土の表面を濡らしただけかもしれないが、やった感覚、満足感はそれなり
葉っぱに水がかかると所々で蛾が飛び立ってくる
葉の裏に隠れていたのだろうか、急に水に濡れることになってびっくりしたかのよう
彼らは雨は理解できるかもしれないが、人工的な予期せぬ水はどんな気持ちでいるのだろう
蛾なら良いが、蜂が葉陰から出てきたりすると、君たちへ意地してるわけじゃないよ
と少し弁解じみた言い訳をそっと心の中で言ってみたりする

葉っぱにいるのは蛾や虫だけじゃない、知らないうちに蜘蛛の巣がかかってる
それはいつもいつもなので、蜘蛛は一体どうやってここまで来ているのだろうと
不思議に思ったり、待つだけの戦術で間に合うのだろうか、、と少し心配したり

セミも遠くで鳴いてることは多いが我が家の木に止まることは何故か少ない
たまたま珍しく一匹が存在感たっぷりに鳴いていた
逃げないようにとシズシズとセミを探すと、いたいた、お腹を前後に揺らして必死に大声をあげている
セミってこんなふうに鳴くんだ、、と改めて認識したと同時に、そのひたむきさ故に
セミの寿命はどのくらいなんだろう、、健気だな、、楽しかったと生きてるうちに感じてほしいとも

庭は秋になると知らないうちに虫が鳴き出す
今のところはその兆しは無いが、葉っぱの裏できっと出番を待っていることだろう
木も虫も生き物
生き物が人に与える安心感のようなもの、、
木も花も虫も、名前はさっぱり覚えられないが、長生きしてほしいものだ

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セミの声(セミの種類)

2019年08月02日 07時45分56秒 | 徒然なるままに

朝、覚めたらセミの声が聞こえた
夏の朝だ、今日も暑くなるのだろうか
まだ眠たい頭でぼんやりとそんなふうに思っていた

突然、松尾芭蕉のあの俳句のセミはこの種類のセミじゃないなと頭に浮かんだ

「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」
山形県の山寺で作られたこの俳句は、蝉時雨の騒音が聞き慣れるうちに静寂に
変わっていく様を「岩にしみ入る」の言葉で表している
でも今朝のセミの鳴き声は、どれだけ集まっても「岩にしみ入る」よりは
「岩にしみ付く」という感じだ

芭蕉の聞いたセミは何という種類のセミだったんだろう
イメージの中のセミよりは、現地に赴いて実際に味わってみたい気分になった

イメージの中の映像とか音というのは、本当のものより効果的に感じる
詩人は、イメージをデフォルメするので実際の姿を描写しているわけでないともいわれる
芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」は
蛙がポチャンと池に飛び込んだあとの静寂をイメージしているが
蛙は実際には飛び込まず、しずしずと池に入っていく方が多い、、と文句をいう人もいた

「荒海や佐渡によこたふ天河」
の俳句も、荒海の状態の天候では天河は見られないのじゃないのか、、という人も
しかし、イメージされる世界は、実際には無いとしても、とても侘びしかったり壮大な感じがする

よく映画よりは原作の本(小説)のほうが面白いと言われることが多いが
きっとイメージしている世界のほうが、わかりやすく目前に示された世界よりは豊かなんだろう

ところで、山寺のセミの種類、、きっと調べている人はいるだろうな
一人が思うってことは、何人かが思うってことだから

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ゴッホ・ブルックナー・ドストエフスキー

2019年08月01日 08時28分24秒 | あれこれ考えること

その時代の空気・感じ方・考え方・表現方法などは
どの分野(芸術と言われる分野)で一番早く発揮されるのだろう

絵画・音楽・文学、それらは無意識的な何かと意識的な何かが
混在して形になっていると勝手に思っているが、自分の好みの
ゴッホ・ブルックナー・ドストエフスキーは表現方法こそ違うが
根っこのところでみんな同じことを表現しているような気がしている
(何の根拠もない思い込みだが)

ゴッホもブルックナーも技術的すぎるしドストエフスキーは饒舌すぎる
そんな声があがっているが、素人はどこが技術的すぎるかわからない
ただ作品を通して実感する何かは、部分というより全体の体験のような気がする

ゴッホもブルックナーも経験なキリスト教徒だった
ドストエフスキーもロシア正教の信者だった(?)
三人に共通しているのはキリスト教
日本には馴染みの薄い教えや、そこで体験し身につけた感覚が
彼らのバックボーンになっているものと思われる

3人の生きていた時間は
ゴッホが、1853年3月30日から1890年7月29日
ブルックナーが、1824年9月4日から1896年10月11日
ドストエフスキーが、1821年11月11日から1881年2月9日

こうして調べてみると思いのほか同じ時代の空気を吸っていた人たちのようだ
長生きするのは音楽家の例に漏れず、この中ではブルックナーが一番長生きしてるが、
それでも72歳で、ドストエフスキーは59歳で、ゴッホは37歳で亡くなっている
思いが形に現れるのは非言語芸術である音楽・絵画のほうが現れやすいのかもしれない
無意識を無意識として何かよくわからないまま形にしてくほうが
無意識を突き詰めて探っていく作業を要する小説家よりは早く形になりやすいようだ(と思う)

それにしても、、、、暑い
そろそろ二階から逃げ出さねば、、、

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