パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

映画「イエスタデイ」を見に行った

2019年10月14日 08時08分37秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

テレビで千曲川の氾濫や秋山川のそれを見て、被災した方々のこれからを思うと
少し落ち込みそうな気持ちになる
だからお気楽な投稿などは控えたほうが良いのか、、と思ってしまう
この感覚は多分多くの人がごく自然に感じること
確かにラグビーのワールドカップで初のベストエイトに勝ち進んだのは喜ばしいことだが
それを無邪気に間髪おかず、定番の心のない文章の投稿をする我が国のお偉いさんには
違和感よりも怒りを覚える人が少なくないのは理解できる

でも自分でも気になっているのは、台風以外のことがあるのも事実で
人は自分と関係ないところでは冷たい態度を取りうるものだ、、とも実感する

その関係ない話とは、、

ビートルズの音楽は好きだが実は「イエスタデイ」も「ロング・アンド・ワインディング・ロード」も
それほど好きな曲ではなかった
ところが昨日見た映画「イエスタデイ」で主人公の人物によるカバー(映画では初めて披露する曲)を
聴いたときは思わずうるっとなりそうになった

美しい、いい曲だ、純度が高い、、、
まず頭に浮かんだのはこの感覚
特に「純度が高い」は我ながら本質をついた表現ではないか、、と思ったりする
映画の半ばの作曲能力を競うシーンで主人公と争った人物が
彼(ビートルズの音楽)はモーツァルトで自分のはサリエリのそれだ、、と愚痴るところは
その適切な比較には大いに納得する

「ボヘミアン・ラプソディ」「ロケット・マン」ので伝記的要素の映画とは違って「イエスタデイ」は
今流行りの「パラレルワールド」の世界のこと
世界中が突然の停電に陥って、それをきっかけに「ビートルズが存在しなかった世界」に入り込むというもの
ご都合主義の内容だが、各種矛盾点をあれこれ取り上げるのは野暮なこと
まずは楽しんだもの勝ちと開き直った方がいい

この映画はビートルズが好きな連中ならいろいろ連想できるシーンが沢山ある(ルーフトップのライブなど)
先程の停電が起きて別世界に突入する時の画面に流れる音楽(音響)は、サージェント・ペパーズの
あの最後の重厚な音響で、それだけで何事か起こるのは想像できる

主人公が住む事になった世界はビートルズだけでなく、オアシス、コカ・コーラ(カム・トゥゲザーの歌詞に合わせて?)
タバコ、そしてハリーポッターの存在しない世界だ
これらのちょっとした欠けてる部分はイギリス風の余裕のあるジョークでサラッと表現される

この映画はクイーンやエルトン・ジョンのそれとは違って、シリアスな伝記的な要素はなく
また自作ではなく単に慣れ親しんだ曲をカバーしているだけにたいする主人公の葛藤が描かれているわけでもない
だから深さという点では物足りないかもしれない
しかし見終わったあとの感じは、あの二作よりもほのぼのとしたものを感じることができた

この映画は悪人が出てこない
唯一悪人らしき人物は女性のやり手のプロモーターくらいなもので、彼女はデフォルメされているので
非現実的で最初から、おちょくられている存在としてしか見られない

主人公と幼馴染の女性との関係は、まるでアニメの設定にもありそうなもので
両人のダメさ加減が普通の人っぽくてつい感情移入をしてしまう

でもこの映画の一番はやはりビートルズの音楽だろう
彼らの音楽は純度が高い
これに尽きる気がする

ビートルズの音楽が無かったら、、、と設定したのは、
実はこのようなパラレルワールドを面白おかしく描くためというよりは、
現在の世界が「ビートルズは知らない」という人々が多くなっていることへの皮肉ではないのか
と思ったりする

ショービジネスの世界と音楽的な完成度・純度の関係
できることなら、その両方がバランスよく成立していれば良いのだが
特に我が国のそれは、とても不安を覚える

 

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台風被害(我が家の)

2019年10月13日 08時47分46秒 | 徒然なるままに

 去年は屋根とカーポートに被害があったものだから、今年の台風は少しでも風音がすると不安になるのだった
テレビで各地の被害を見るにつけ、今年の我が家は一安心と言いたいところだが
朝一番、「おーい、萩の木が一本折れているよ」の声があがった

眠たい目とはっきりしない頭で庭に出てみると、なるほど萩の木は可愛そうな状態

夏の時期に水遣りするときも、萩の木は葉がしっかり茂って頭が重くなっていた
木のトンネルができて、木漏れ日が気持ちいい反面、このようなことがあるだろうなとは想像できた

こうして実際にこの光景を目の当たりにすると、失望感が襲ってくる
これでお気に入りの形の良い雑木林の庭なのにバランスが崩れる、、、
でも一番落ち込むのは、生きているものがその生命を失うことになったことへの悲しい感情
萩はせっかく頑張って大きくなってきたのに、、

萩の木は折れたところから鋸で切って、生き物から単なるモノに変わる

植物はたくましいから、そのうち復活するかもしれない
隣のアズキナシの木もどん底から復活したのだから、、

可愛そうな萩の木
同居人は細かな枝が出すぎて嫌い!と言ってたが、
生きてるものがこうなってしまうと、少しばかり精神には良くない



 

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「原発ホワイトアウト」と「東京ブラックアウト」を一気読みした

2019年10月11日 08時44分13秒 | 

本を読むのが速い方ではない
だが図書館から借りてきたこの二冊は一気に読んでしまった
一冊目は再読となる「原発ホワイトアウト」

そしてもう一冊は続編の「東京ブラックアウト」

どちらも現役の官僚さんが覆面作家の形で出したもので発刊当時は
そのあまりにも生々しい内部告発のような内容に省内で犯人探しが行われたとか

これらの本を手にしたのは現在の関西電力の時代劇を思わせるような金銭授受の
ニュースが世間を騒がせているからで、テレビ画面を見ていて
「何かこのうような話があったぞ」と思いだして図書館まで出かけたのだった

フィクションの形をとっているが、登場人物は名前が少し変えてあるだけなので
誰のことかすぐに分かる
そしてその内容は内側の人間しか知りえないお金に関するシステムや官僚文学のテクニック
洗脳、邪魔者を潰す方法、官僚さんの心に潜む野心、そしてこの手におえきれない怪物にたいして
誰も責任をとらない姿が、恐怖感を感じさせるような筆致で表現されている

原発推進のためのお金のことや、避難方法が確立された上での安全宣言とすべきなところを
曖昧なままで対策は充分としたり、事故が起きてしまったら許容値を勝手に(解釈して)引き上げたり
つまりは現在行われていることが、特に二冊目の「東京ブラックアウト」には書かれている

どちらかといえば一冊目のほうが読み物としては読みやすい
これらがすべて真実とは言えないだろうが、このようなことがあるかもしれない
と心の中にとどめおくのは必要なことと思われる

原発も怖いけど、一番怖いのは「人」なのかもしれない、、と思ったりする

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柔らかい頭と執着心

2019年10月10日 08時44分19秒 | あれこれ考えること

今年のノーベル化学賞はリチウム電池の開発に寄与した吉野彰氏
テレビでは彼の業績や難しい理論よりわかりやすい彼の人柄を報じている
その中に「柔らかい頭と執着心」というのがあった

この地方のテレビCMで、ある会社の社員に対して宴席で同席した女性が
彼の肩書、話しっぷりをみて「頭が固いだろうな!」と決めつけるシーンがある
CMのオチは、固そうに見えても意外にそうではないかも!となるのだが
前半の頭が固いとするイメージは、すんなり人の感情に受け入れられるのではないか

よく言われる理系・文系の分類からすると、頭が固いのは理系のほうだとイメージされやすい
でも、吉野さんではないが理系の方の頭はあらゆる可能性を探る癖ができていて
それは固いという範疇では収まらない

結局のところ、難しいことをあれこれ考えている人は頭が固い!
と言っているに過ぎないような気がしてる

子供の頭は柔らかいと言われる
言葉の組み合わせが大人の常識的なものとは違って、新鮮な感じがして
それが柔らかいと感じるのは事実だ
だが、なぜ柔らかいか?と少し考えてみると、子供は何も知らないからで
常識的なパターン化された考え方や表現に慣れていないからのように思える

理系の人はこの子供のようなあらゆる可能性について、あるときは前提すら疑うような
思考をするのではないか(本庶佑さんはそんな感じのひとだった)
(※不意に高校で習った数学的帰納法は使い方はなんとなく覚えているが、
 なんで正しいのか疑問に思ってしまった)

ということで、自分がわからないことを考える人を、頭が固いと決めつけるのは
間違いだということ(いちいち面倒くさい考え方をする人!というのは当たっているみたいだが)

でもこの投稿は、頭が固い、、と評価されるのだろうな、きっと!

 




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「司令塔」という言葉に対する違和感

2019年10月08日 08時23分14秒 | あれこれ考えること

ラグビーのルールはよく知らないし、強いチームは身体的能力以外にどこが良くて
勝ち続けているのかわからない
だが、日本人(のメディア)が好んで使う「司令塔」には少し違和感を感じる

司令塔の言葉でイメージされるような、命令に沿って選手は動いているのだろうか
むしろ瞬間瞬間の自己判断や、自動化されるまでにいたった効果的な戦術を
反復練習で身につけていて、司令塔という言葉自体が存在しないことこそが
強い証なのではないのか
(ただキャプテンというか、気持ちの上でのリーダーは必要だと思うが)

サッカーでも司令塔の言葉は日本ではよく使われる
いやサッカーに限らずどのスポーツでも最近は、〇〇ジャパンと監督の名前を
一番最初にあげて、チーム自体が縦の関係にあるような印象をもつ

ヨーロッパのサッカーチームはいつもではないが監督と喧嘩をする選手が現れる
あの監督が嫌いだから代表に呼ばれても参加しないとか
少し変わった例では飛行機が怖いから遠い国への試合には参加しないとか、、
そこには自分は自分だという「個」が存在するように思われる
(実際のところ良い選手は自分の言葉で語ることのできる個が確立している)

日本人は命令されることが好きなのではないか
自己判断は責任を伴うので誰かに命令されたことをしただけ
とするほうが気が楽だ、、、と思いたがっているのではないか

何も大げさに考える必要はないが、日本は「個の確立」ができていない
というか、最初からそれを求めていないような気さえする
これは明治に西洋思想を受け入れた時代でも、少なくない知識人が実感したことようだ

新潮社や小学館の内部でブレーキを掛ける人物がいなかったのか、と思われる事件や
関電や日産の奇妙な金の流れなど、そこには「個人としての判断を放棄した存在」がある
圧倒的な自分の立場の現実があるとしても、何かしら違和感を感じたことに自分を偽って同調する

世の中はそんなものだ、と言い切ってしまい、それが世間の知恵とするのは
「美しくない」との価値判断を自分はしてしまうが、
世の中のひとの多くがこうした「青い思い」を持てるようになったら
社会はもう少し生きやすいに違いない、、と思ったりする

 



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怒りと失望を覚える「新潮社」のバカげたキャンペーン

2019年10月06日 08時43分42秒 | あれこれ考えること

ラグビーワールドカップで日本対サモア戦で大騒ぎしている頃
ネット(ツイッター)上で大騒ぎになっていた事件があった

その事件は個人的にショックだった
その試みが本体(新潮社)からツイートされたのを見て、一体これはなんだ?
と驚きを覚え、そしてその次には、とても不快な気持ちになった

その試みとは、「夏の騎士ヨイショ感想文キャンペーン」と題されたもので
百田尚樹氏の作品「夏の騎士」のヨイショした読書感想文を書いた方に
図書券を贈るというもの
今は削除されているが、そのキャンペーンを紹介したツイートには金粉の
百田氏の画像が使われていた
百田氏は稀有なストーリーテラーかもしれないが、ツイッターの投稿では
かなり下品な文体で決めつけが多く、その時点で彼の作品を読む気は失せている

ショックだったのはそれを新潮社が行ったことだ
新潮社は今まで信頼できる出版会社と認識していた
特に文庫本は、他に集英社、文春文庫、角川文庫、岩波文庫などがあっても
作家陣をしっかり揃えた品揃えや、その装丁が雰囲気があって
若いときからとてもお世話になっていた
そして先程見た本箱の文庫本の大半は新潮文庫だった
(単行本も少なからずあった)

その新潮社がまるで自滅するような軽い試みを企画し、それを世間に発表した
それを見た自分は、不快どころか怒りとか失望すら覚えた
その怒りはもう新潮社の本は買わない!との思いに至った
長年培った信用とか信頼とかブランドは、一瞬にして崩れ去れものだ
もう他人事のように冷ややかに新潮社を眺める自分がいた

容易にヨイショしてはいけないような人の作品に対して
軽いノリで賛同者を求め、それで社会の空気を作る、、
その試み自体がプロモート上どれほど効果があるかわからないが
(結局はまったくないことがわかったが)
それは分別のある人間のすることではない

この新潮社のキャンペーンに反感を覚える人、失望感を覚える人の数多く
批判のツイートがあったために、ヨイショ企画は中止となった
批判のツイートの中には、怒りの発露の他に、社内にこの企画のブレーキを
かける人はいなかったのだろうか?との疑問の声も多く見られた
自分も怒りを覚えた中にはこの要素もある
普通に常識的に考えれば行うべきでないことを、問題視しないで行ってしまい
そして誰も最終的には責任をとらない体質
現在の日本社会に多く見られる歪んだ傾向が、今まで信頼していた出版社にも
当たり前のように存在しているとは、、、

出版不況下での炎上商法との説もある
でも、何にせよ、もう受け入れられないような気分にさせられたのは事実だ
今までは作品(タイトル)が購入の目安だったが、今後は出版社の名前も購入判断を
決めることになってしまいそうだ

今回の新潮社の行いは「本好きの人間」の心象をひどく傷つけた
彼らの復讐は「本を買わないこと」となることを、組織の人間は想像しなかったのだろうか

 

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絵と似てる松

2019年10月05日 10時18分37秒 | 徒然なるままに

先日、伸び過ぎとなっている樫の木の剪定を我が家の偉い人から頼まれた
我家の庭には小心で慎重な小市民の、お金に苦労したくない気持ちを反映して
語呂合わせで「貸し」(樫)「借りん」(花梨)の木が植えられている

この樫の木が我が家の土との相性が良いのか、とても元気が良い
夏のはじめに樹形が見えるほど切り落としたシラカシの葉や枝が
しばらくすると猛烈な勢いで葉っぱが盛り返す

もう一つの樫の木も、小さな芽がニョキニョキと伸び、その一部が
道路側にも出始めていた
この時期の恒例で、こうして誰かさんのちょっとばかりキツめの言い分を聞いて
それに従うというのも、幸せなことかもしれない

いつもなら、「今年の作業は終了!」で大した感慨も無いのだが
今年は不意に目に入った松の枝に少し驚きを覚えた

絵心が無いので自分が感じたものを撮り切れていないが、その松を見たとき感じたのは
「絵と同じだ!」ということ
襖や能の舞台に書かれた松、それと一緒だという印象
感心したのは、絵師が自然の松をいかに本物に近く描写したかという点ではなくて
絵師が描いた松が(その生命力のようなものが)目に前にあるということ
どちらが先かといえば、絵師の松のほうが先にあって本物の松が後追いしているような気がしたのだ

でもその思いも瞬間的なこと
日本人が松が好きなのも、何となく分かるな、、という思いに落ち着いた
我が家の偉い人の言うには、松も時間をかけてやっと味わい深くなってきている、、とのこと

なるほど、ところで自分は時間をかけてどうなっているのやら




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言語化できないが、感じることはできる

2019年10月04日 08時28分26秒 | あれこれ考えること

 理解しているということが、うまく説明できたり言語化されることだとしたら
自分の読書などは落ち込むほど理解していないことになる
読書を終えたあと、残っていることといえば「面白かったな」とか「すごいな」とか
「自分と同じ考え方だ」とか部分的に気になるセンテンスくらいなもの

あとがきなどを読むと、時に自分は何を読んでいたのか、、と思うことがある

先日、本を読んでいて、急に次はリルケの「ドゥイノの悲歌」を読もうと頭に浮かんだ
進行中の本とは全く関係のない本で、何故そんなことを思ったのか見当がつかない
だが、「ドゥィノの悲歌」を読もうと思ったことは、とても必然で有ったような気持ちがしている

「ドゥイノの悲歌」は以前読んだことがある
今でも覚えているのは「すごいな!」という印象だけ
何か(熱狂)が舞い降りてきて、その勢いのまま突っ走っているような
全体として中身の詰まった作品というようなおぼろげな印象

それでも9番目だったかに、「一度だけ、、、」云々の歌は切実感に満たされ
あのときも泣きそうになったようなことも、今思い出した

結局のところ、記憶は何故それが残っているかわからないような奇妙な選択として
残されていることが多い
夢などはその典型なのだろう
なにか本を読む、音楽を聴く、絵画を見る、身体的なパフォーマンスを見る
そこでは「何かを感じる」ことしかできない
その「何かを感じる」あるいは「何かに気づく」感覚は自分にとっては
喜びにもつながるとても大事なものだ

全ては「何かを感じる」「何かに気づく」からスタートするのだろう
それが、教科書通りの理解の仕方、感じ方でないとしても

書店で「ドゥイノの悲歌」を購入した
最初だけ読んでみた
やはり何かが舞い降りてきたような、、その感覚は今回も感じられた
ちゃんとした理解云々は専門家でもないし、人に伝えるのが仕事でもないので自分勝手に楽しむとしよう
楽しめそう、、と感じているのは、間違いないことなので

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戦前回帰「大日本病」の再発(山崎雅弘)

2019年10月02日 09時38分43秒 | 

読みかけの本を傍らに置いて、一気に読み終えたのが「戦前回帰 大日本病の再発」山崎雅弘

山崎雅弘氏の著作は「天皇機関説事件」以来
一部の方々には評判が悪いだろうが、とてもスッキリとまとめられた内容

本を読むということは、そこに書かれた内容を覚える(理解する)ことと
その内容をイメージとして体験すること
この体験は人ぞれぞれで、気になる体験は本質とは違っていることはままある

戦前からの歴史、その時の空気感、それを支配したのは一体何だったのか、、
そうしたものを交通整理の行き届いたまとめ方で進められている

ここで自分が印象に残ったのは、「個人」と「全体」との関係
客観的に見れば兵力差が存在し、必敗は予想されるにもかかわらず
精神論でカバーできると戦いに勢いで突っ走ったこと
世界の中の日本、その相対的な立ち位置(文化的にも社会的にも)を理解することなく
全てに優っていると思いこむメンタリティ
自分たちの残すべきは人の命であってメンツではないのに、無謀な体当たり作戦を実行したこと

この最後の人命軽視の命令は、同じ様な玉砕命令を発したドイツでは、現場の個人の判断で
命令に従わず多くの命を救うことができたとある
ドイツでは上官の命令でも、覚悟を決めて断る
日本では無謀な命令でも従ってしまう
この差は一体なんだろう、、それが気になる

その差は教育のせいだ
公の利のためには個は犠牲にすべし、、との教育
(現在はこの意識づけを正当化する憲法改正が計画されている?)

でも上からの命令や指示に弱いのは、教育だけの問題だろうかと思えてしまう
現在でも官僚の世界でも、企業の中でも不祥事を起こすパターンは
盲目的な命令に従うことで、そこには個人の判断の存在が存在しないようにさえ思えてしまう

戦前回帰を目指す人々の大嫌いな「個人」としての自立
実はそれこそが今のこの国に一番必要なのではないか!とさえ思えてしまう

この本はネトウヨと称される人が、自分たちと考えを異にする人たちはどう考えているか、、
を知るためには参考になる本だと思うが、手にしないだろうな

もっとも、自分も彼らの推奨する本を読む気はないが、、



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