パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

彼はなぜ突然怒ったのか?

2021年09月18日 11時15分51秒 | 市政、市議会に関することなど

選挙を間近に控えると、同じ仕事をしていた仲間もいきなり競争相手になってしまう
そこで人の持つ負の部分が表に出てしまうことも無いわけではない
現在進行中の自民党の総裁選も、我々の見えないところでネガティブキャンペーンが
行われていても不思議ではない

新城市では年に4回行われる市議会定例会、任期の最後に当たる9月議会が昨日で終了した
その最後の一日は、褒められたものではなかった
そのみっともない話は新聞記事にもなって、要点だけが掲載されている

それは8月の全員協議会の最中の出来事で、ある議員が突然大きな声をあげて
威嚇するような態度、行為をある議員に対して行った
そうした態度や行いは市民の代表たる議員にふさわしくない行為とされ
数名の賛同を得て選挙前の今回の議会で問責決議案が提出された
そして可決されたと報道されている

たまたま現場にいた(傍聴していた)が、提出理由の説明、それに対する質疑
(提案者に疑問点を質問すること)には、ものすごく時間がかかった
普通なら主だった議決も終了し、お開きとなる議会が
突然でてきた議員提出の議案に、いつまでも訳もわからないまま付き合わされた行政には
少し同情を覚えてしまった(最近この例が異様に多い)

現場にいて、問責に賛成反対のどちらの味方をするのでもなく、成り行きを見ていた
確かに大声を出して威嚇するようなことはよろしくない
彼にはその傾向がある(声も体も大きくて)
これは否定できない事実だ

ただ彼の言い分によれば、その事件が起きた場で謝罪し
議長の指示で次の全員協議会の冒頭で謝罪は行ったので
議長は「この件はこれでおしまい」の意思を示したとのことらしい
だが、議長はそんなことはない、と首を振っていた
この部分は言った言わない論争になりそうで、どちらが正しいかわからない

だが質疑の途中から、怒りっぽいとしても彼が、なぜ突然怒り出したのか、、
が猛烈に疑問に思えてきた
怒るには理由がある
その理由も確かめずに、行った行為だけで判断を下して良いものだろうか?

「そりゃ、誰でも腹をたてるよな、、」
と言った理由はなかったのか、、とまるでミステリーを読むような気持ちになった

その理由は、対象議員の強引な、それ故に反感を持たれても仕方ない弁明の機会に
明らかにされた

それはコロナ感染症のせいで中止になった議会報告会に関係している
年に一度以上行うとされている議会報告会ができくなったので、
議会は代わりに意見を市民から募集した(メール、FAX?)
この中にひどく個人的攻撃的な内容のものがあった
それはある地区の三人の議員名が書かれていて(その中に彼は入っている)
妙に詳しいような、思い込みの激しいような、批判が主となっていて
書かれている事自体が客観的な事実かが疑われるものだった

この市民の投書について、どのように扱うか?は当然のことながら
議会で話し合われた
話し合うのは全員ではなくて、そのての役割を受け持つ機関で
そこでは一旦は、客観的な事実が確認できないので、市民にオープンに
するのは控えるとされたようだ

ところが、投書の扱いについて決定権を持つ議員(この議員が大声で威嚇されることになったが)
「これも市民の意見」という解釈で個人攻撃的な要素の多い投書は
「自分の判断でオープンにすることにした」とされた
そこでこの議員に対し瞬間湯沸器のように反応してしまったというのが一連の流れらしい

全市に明らかにされるものの中に、公然とネガティブな印象を与えるものを
「それも市民の意見」との扱いで出されてしまったならば、
選挙を控える当人たちは冷静にいられないのは想像はつく
行った行為(大声・威嚇)は、確かにひどいが、その原因を考慮せずに議決したり
背景を説明するなく、それだけを報道するメディアも突っ組み不足なのでは無いか
と思えてしまう

ここからは、ちょいと絶望的な気分に陥ってしまそうだが
投書の内容自体が議会内のことを知らないとかけないような具体的な描写で
(彼の)いつもの言い分や行動に近い内容の近い内容であるために
市民と称して投書された文書の投稿者は
実はいつも三人に対抗心をもつ〇〇(議員)ではないのか!
と想像することができると名指しで批判された三人の議員は考えているようだ
そして個人的にもそうだと想像する
(彼の新庁舎の建設に関するの実務協議の際行ったことを彷彿とさせる)

不意に「ひとつの腐ったリンゴが樽全体をダメにする」のことわざが頭に浮かんだ
この事件の全体像は明らかにされない
背景は想像でしか無い
その背景の想像があっているかあっていないか、わからない
しかし、そのような想像ができてしまうという実態こそが情けない

人が人を選んで、その人に一旦役割を任せる
というシステム、だがその実態は、とても危ういところで成り立っている
と感じるこの頃

国も市も、、、選挙が間近
それにしても、、、



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「親ガチャ」という言葉を知った

2021年09月17日 09時18分31秒 | あれこれ考えること

若者言葉は知らないものが多いが、先日「親ガチャ」という言葉を知った
コインを入れるとカプセルの中の景品が手に入る子供にはおなじみのガチャガチャでは
当たる景品は開けて見るまでわからない運任せなことを
どんな親のもとに生まれるかも運任せと表現している

親の経済力の差によって、子供の未来がある程度決まってしまう現在の状況は
少し想像力を働かせばわかる
就職の際に良い企業に就くための要因となる大学にしても、経済力がある家庭は
受験対策が家庭教師なり予備校でしっかりできるし、また娯楽の分野でも
少しばかり優雅なものに触れられ、人間性を育む機会は大きい

親が裕福でないところに生まれた人は、少しばかり自虐的な意味合いを込めて
親ガチャに外れた、と言うらしい

これは偶然、昨日扱った下の所得階層の人は上の階層に行けるか、、
という話につながる
明らかな傾向として下の階層(一番下)の人は上の階層まで行けない(確率が高い)
(アメリカン)ドリームはドリームに過ぎない、、と考えるのが現実だ

問題はここからで、現在の若者の認識は自分の運命は親次第(今の境遇次第)で
ステップアップするのは簡単じゃないと感じている
こうなると若者の中には自虐的にいろんな夢を諦めるとか無気力になる人も出てくる
一方、このような固定した社会になっているのは何かがおかしい
誰かが独占的に得しているせいだ、、と考える人も出てくる
両極端だが、それらが生まれるのは心情的に理解できる

社会的な影響力を持つべき若者にはどのような行動が望ましいかと考えると
無気力なのはいただけないし、一方的に何かを攻撃して自己満足されるのも困る
望ましいのは程よい理性的な行動なのだが、残念ながらこの手はあまりにも平凡で
他への影響力は小さい
むしろ過激な仮想敵国のような目標をもった感情に直接に訴える方法のほうが
わかりやすさのために支持を得やすい可能性もある

だが、この馬力のある怒りの行動は、何故か若者の中には起きない(と思えてしまう)
自分たちの境遇や未来は自分たちで掴んだり作るのではなく
自分たちが選んだ(しかし選挙にはいかない)人任せで
その選択すら多くの人が選んだのだから間違いはないだろうと思考停止して
安易に現状を容認している(ように見える)

なんでそうなってしまっているのか?
は外国人による日本人論を期待したほうが客観的に理解できるかもしれない

ただ明らかに固定化されつつる、豊かな中間層のない今の社会を、
時間がたっぷりある人たちは、自らどうしようとするのだろうと考えると
少し不安になってしまう

 

 

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イラつくこと、不安なこと

2021年09月16日 17時44分01秒 | あれこれ考えること

見ていないのでいい加減なことは言えないが(と言いつつ取り上げているが)
「君の名は」だったか「天気の子」は恐ろしく世間との関係が希薄で
個人の周囲の出来事で、あるいは気の持ち方で自己完結していると
警鐘を鳴らした人がいたようだ

昔も世間に関わりたくなくて、肝心なのは自分のことと歌った歌があった
井上陽水の「傘がない」で、自殺する人が社会で増えても
政治家が深刻な顔をしていても、今自分に必要なのは
恋人に会うために雨から身を守る傘だと開き直っている

若さゆえの残酷さとまではいかなくても、この気持ちは当時納得した
だが、冒頭に社会状況を取り上げているところに、対比効果だけでなく
実は考えなくてはならない問題と認識しているとうかがわせる気がする

話は飛んで、アメリカでは経済の階層を5段階に分けて、
一番下の階層がより上位の階層に行けると思うか、、
とアンケートをとったところ、アメリカンドリームのような努力次第で
上に行けるだろうと答えた人は昔よりも減ったのだそうだ
それは驚くことに階級社会のヨーロッパよりも数字は低かったそうだ
現実として下の階層から上の階層にアップするのはとても難しく
それは個人の努力の域を超えている
ところが、全ては自己責任とする傾向のあるプロテスタント系とかでは
全ては気持ちの持ち方で処理される
そしてそれは、ここからが肝心なのだが日本でも自己責任の名で処理される

現実社会を見れば、現在恵まれない境遇にいる人は、映画のように努力次第で
うまくいくなどという可能性は極めて低い
この現実を踏まえて若者は、実は自分たちのことであるにも関わらず
社会に無関心でいられるのだろうか、、と不安になる
(つまり自己完結する解決法だけでいいのかということ)

確かに自分も若いときはノンポリだった
でも社会に必然的に生まれる弱い人達を、今の自分がそうではないからと言って
無関心でいることは心が傷んだ

社会の出来事を全て「気の持ちよう」とか「自己責任」とか「努力不足」
で括ってしまうのは良くないし、正しくもないと思う
少しイライラのほうが先立って上手く説明できないが
好むと好まざるに関わらず、人は社会と関係していく
何事も自分の考えもなく、多数の方に流れがちな若者を見て感じる不安

また小言を言ってしまったのかも



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重心が低すぎる戦い(以前の日本代表を思いだした)

2021年09月16日 10時14分22秒 | サッカー

情けないと言うか、順当な結果と思われたワールドカップアジア最終予選のオマーン戦
(0−1で敗戦)
次の試合の中国戦はリアルタイムではなくDAZNの録画で見た
まずは勝点3を取れた(1−0で勝利)ことで一安心といったところだが
一番印象に残ったのは、日本のことより中国の戦い方だった

中国は5バックで守っていた
点を取られなければ負けはない
守りを多くすればパチンコの釘みたいなもので誰かに当たって
ゴールに入る可能性は少ない
シュートは左右の真ん中辺りから撃たれるのがゴールの確率が高いが
そこを抑えれば(人数で)なんとか失点は免れる

戦い方はいろんな方法がある
良し悪しは、結果でしか判定されないが、見て思い出したのが
南アフリカのワールドカップの日本の戦い方だ
それは、今回の中国と似たものを感じさせる

ベスト16まで勝ち残ったあのときの日本は、PK戦で負けて先に行けなかったが
時間内に勝つ可能性はとても低いもののように記憶している
それは重心がとても後ろにあって、いざ攻撃となってもゴールまでの距離が大きくて、
更に人数もかけられず、カウンター戦術というものの得点の可能性は低かった
この状況にイライラを感じていたのは本田を始めとする選手たちで
その後の日本の戦い方は相手のゴールの近くで試合を進める方法にチェンジした
それは当時主流になりつつあったバルセロナの戦い方を手本とした

一時期のバルセロナはアーセナルのヴェンゲル監督が「テレビゲームみたい」
と称した戦いっぷりで、メッシ、シャビ、イニエスタ、アウベス等が
相手陣内に入り込みボールと時間を支配し勝ちを狙うものだった
例えばボールを失うことがあっても、直ぐに近くの選手がプレスをかけて
2.3本のパスが繋がらないようしていた

チームプレート言っても結局は選手の能力に依存すると実感するのが
バルセロナも人が抜けていって、選手が交代すると、その戦術は完成度の高いままで
実現できなくなった
それに相手チームの進化も激しく、バルセロナに対する戦い方も現実的な対処が
徐々にできるようになった

にもかかわらず、理想を求めたのが日本のブラジル大会で、重心が後ろにありすぎた戦い方を
先進のポゼッションで行おうとしたのだが、既にポゼッションサッカーに慣れている選手の多い
強豪国の選手たちは日本のレベルのポゼッションには戸惑いを覚えることはなかった

試合はいつも何が不足しているかに気づく機会となる
パスのスピード、パスの正確さ、シュート技術、攻めから守りの速さ
そうしたものが、ブラジル大会では不足を感じた

現在の中国の選手たちは、後ろに重心のある戦い方では勝てない
と感じているに違いない
それで次には多少のリスクを覚えても重心を前目に持っていく方法を
取るかもしれないと想像する

サッカー戦術はある意味、試行錯誤の繰り返しだ
実感を踏まえた対処法を常に進化させる
そしてそれが当たり前のように選手個人に蓄積される

確かに最近のサッカーは戦術的な意味合いも馬鹿にできない
そして守りの部分では富安、遠藤の進歩によりある程度上手く行っている
だが点を取るという課題に対してはどうなのだろう

日本には先日のACLでハットトリックでチームを助けた名古屋グランパスのシルヴィツォク
のようなゴリゴリのストライカーがいない
いいボールが来るのを待ってシュートではなく、自らもシュートに持っていき
正確なシュートコースを実現できるストライカーがいない

いつもそこで感じるのは日本という国の持つ雰囲気で
日本では突出したストライカーは(そういう人は変わり者が多いが)
生まれにくいのだろうかと思えて仕方ない

日本の海外で出て活躍している選手は圧倒的にMFが多い
韓国はソン・フンミンというストライカーが目覚ましい活躍をしているが
それは何故なのだろうか、、といつも思う

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本に書かれていた忘れてはいけない部分

2021年09月15日 09時38分47秒 | あれこれ考えること

またもや本からの話
付箋を付けておけばよかったと思う部分をやり過ごして
後で、どこにあったかな?
と該当するページを探しても見つからないときがある

つけ忘れて、しまったと思うその例は、少し前に読んだ「絶望を希望に変える経済学」
の中のある調査の結果が紹介された部分だ
その中に、金銭(報酬)がある程度保証されて、やってもやらなくてもその差がない場合、
人はモチベーションを失ってあまり積極的には働かないというステレオタイプの認識は
必ずしもそうではないという調査結果が紹介されていた

人が真面目に働くのは、金銭的な要素だけでなく、そのその人の人生観に
よる部分も大きく作用しているとしたものだ
(なぜかどんな時でも真面目に働く人がいる)
つまりは人の行為を金銭の損得だけで判断するのは、一見合理的なように見えても
片手落ちということだ

ところで最近の行動経済学における人間という生き物の認識は
「人は必ずしも合理的な行動をしない」ということらしい
その証拠にいろんな例が挙げられ、その一つ一つが心理的に
「そうそう」と納得がいく
行動経済学は、経済の話なのか心理学的傾向の話かよくわからないところもあるが
「アンカリング」やら「損は得よりも心理的に大きな影響を果たす」とする
誰もが実感する経験は、人というものの理解の幅を広げる

先の例以外にも世の中に当たり前のように存在する多くのステレオタイプの認識は
実は一度疑ってかかる必要があるかもしれない
(女性は理数系に弱いとか、黒人はリズム感が良いとか)

何ごともいちいち疑うのは、面倒くさい人間だと嫌われるかもしれないが
そういう人は世界のバランスを取るために一定数必要だと思われる

もう一つ、本から得た重要なエピソードが「国家はなぜ衰退するのか」にあった
タイムリーな話題でアフガニスタンに関することで、
アメリカがアフガニスタンに兵を送って、一旦収束したかのように思えた頃、
世界はアフガニスタンに多くの支援金を送ったが、その大半は肝心な現場に届けられず
その金銭を管理する団体に留まったり、使われてしまったというのだ

「収奪的」とさえ思えてしまうこれらの、怒りを覚えそうな行為は
実は何のことはない日本でも同じようなことが行われていると
読んでいる最中に思い浮かべてしまった
それはいわゆる「中抜き」と呼ばれる行為で、東北大震災でも
今回の持続化給付金でも末端に届いたのか、
別のところで使われていないかの検証は絶対必用なことと思われる

とまあ、面白くもないことを相変わらず扱っているが、
この面白くもないことが内面化されつつあるのは事実で
それは幸せなことか不幸なことかはわからない
(それは心理的傾向で仕方ない)

ところで今朝、興味深い言葉を知った
「親ガチャ」がそれで、これは真面目に考える価値がありそう







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命令されたこと、他人の意見に振り回されること

2021年09月14日 09時57分38秒 | あれこれ考えること

本を読んでいても枝葉末節なことにしか印象に残っていない不安はある
例えばフーコーの「監獄の歴史」では、有名な概念である中心部に監視塔の存在する円形の監獄塔
(監視塔からは各独房が見えるが、独房からは監視員が見えない
 そこで常に監視されている意識が働き、自ずと規律化された従順な身体を形成するというもの)
のエピソードよりも、冒頭に紹介される人間の残酷さのほうがショックを覚えた

支配者が手向かう者、あるいは犯罪者に罰を与える
その罰がとても嫌悪感を感じるようなエゲツないもので
両足首をそれぞれロープで縛り、その先は馬につないで
それぞれ反対の方向に走らせるように鞭打つというものが紹介される
読んでいて気持ちの悪くなるような話だ

人は何という残酷なことを考え、なしうるものか、、
(それが例えば身内が殺されたための復讐の気持ちを果たすためであっとしても)
それがショックだった

この残酷なことは他にも思いだすことはできる
ナチスがユダヤ人に対して行ったこと「シンドラーのリスト」か「戦場のピアニスト」か忘れてしまったが
まるでモノのように人を銃で撃つ殺すシーンがあった
その時も吐き気がしたものだった

その実際の実行者は主体的な意思ではなく、命令されて行っているのだが
命令された人物はそれがどんな内容であろうと
個々の内面に関与することなく実行してしまうかもしれない
不意に浮かぶこの恐怖は、実は今の世の中にも形を変えて多く存在するかもしれない

現在はその実験方法自体が非人間的なために禁止されてしまっているが
命令されたことを人はどの程度行ってしまうかを調べたものがある
(「服従の心理」 アイヒマン実験 スタングレー・ミリグラム著)

ある問題に答える人が部屋のかなにいる
重要な問いを投げかけてイエスかノーか答えるようにする
実は被験者はこの人ではなく、次の行為を行うように言いつけられたひとで
その人物は答えが違っていると、罰として電流が流れる装置のボタンを押すことになっている
このとき、電流が流された人の痛みを訴える姿が声が見聞きできる場合とか
ボタンを押す命令を下す人物が上司であったり、、などと条件を変えて行われ
人としての傾向性が明らかになった
そこでは、命令されたことは自責の念を持たずに実行してしまう可能性を
人間の心理的傾向として捉えていた

人は他人の声にどの程度影響されるか
次に気になるのはこのような点になるが
人は自分で思っているほど自分の考えを守りきれるものではないようなことは
「ソロモン・アッシュの同調実験」で明らかにされた
左に一本の直線、右に三本の直線があって、右の直線と同じ長さのものはどれか?
と被験者に問うのだが、答えは比較的わかりやすく直ぐに正解を見つけることができる
ところが実感はここから先で、被験者に「その答えは違っていて多くの人は違うものを選択している」
と伝えたならば、その被験者は答えを変えるかがこの実験のポイントで
残念ながら被験者のある程度は自分が間違っていたと答えを変えてしまうというのだ

これらのことから、人は命令されればどんな残酷なことをなしうるし
自分の意見も他人の影響で容易に変えさせられる可能性がある

これら踏まえると、特にみんなの声の影響の方だが、メディアが膨大な時間を費やして
雰囲気の醸成を図っているように思えてしまうことはとても怖いことだと思う

テレビ広告の世界では総視聴率(GRP)、到達度(R)、フリークエンシー(F)という考え方があって
それらの関係はGRP=R✕Fとなっている
ここで総視聴率というのはテレビCMを流した時の視聴率の総和
到達度は一回でもそのCMをを見た広がりの割合
そしてフリークエンシーとは、その広がりの人が見た回数を表している

テレビ広告は多くの人に伝えることができる
だが、一回見ただけでは頭に入らない
頭に入るためには何回見させることが必要かの検討材料としてフリークエンシーがある
CMの質によってくるので、頭に入るまでの回数は差があるが
おおよその必要な回数は慣れたところは把握しているようだ

そもそもテレビCMはそうした目的をもって流されるものだが、これをCMではなくて
報道の内容と置き換えると、これは一気に不安を覚えさせるものとなる

現在の総裁選の、まるで戦国時代の駆け引きのような内部暴露を中心とした報道は
到達度もフリークエンシーも十分すぎるほど達成されている
そして多くの人が思うことについ左右されてしまう人のメンタリティもゆるく支配されている

つまりは自分自身が感じていなくても、知らずしらず何かに支配されつつあるかもしれないということだ
もちろん現実的に、すべてのことがらからフリーにいられることは不可能だ
だが、少なくともこうした現実を認識した上で、ことに当たるのは必要なことと思われる

それにしても、テレビ局は無邪気に面白そうに伝えているだけなのか
それともある種の意図をもって、伝えているのか 不安とか恐怖を覚えてしまうこの頃








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月曜日と木曜日

2021年09月13日 08時50分32秒 | 子どもたちのこと

今月はもう再スタートしているはずだった
少し冴えない天気が続いた夏休みが済めば二学期の開始
それに伴っての朝の近所の子どもたちとの校門までのウォーキングも楽しみにしていた

「ねえねえ、おじさん(おじいさんでないのが嬉しい)食べ物で何が好き?」
「ねえねえ、おじさん、今日なんの日かわかる?(誕生日だった)」
「あ、あそこに虫がいる!」
会話というよりは、頭に浮かんだことをそのまま言葉にしている子どものおしゃべりは
何も考えていないだけに心洗われる

だが新城市でも毎日のように報告される新型コロナ感染症のため
地元の小学校は分散登校とかリモート授業となって
今のところおじさんたちの出番はなくなっている

この学校までの付添は、月曜日と木曜日
このおかげで曜日感覚が把握できているのだが、それがないので家では
「今日何曜日だったっけ?」
と会話を交わすことになる

早くいつものありきたりの日常に戻って欲しい
子どもたちとの会話を家に帰って「こんな話が出たよ」と話すのは
子どもたちの会話と同様に、なかなか心が落ち着く

そういえば月曜と木曜は、この子どもたちとのデートだけではなくて
生ゴミを出す日でもあった
今は中学生になって恥ずかしさを覚えて、あいさつもできなくなっている子が小学4年の時
「おじさん、時間を測って!」
と、生ゴミを抱えて集積場所までの往復時間の計測を頼まれたことがあった

そんなことはもうすっかり忘れてしまっていることだろう
でも、こちらは楽しい思い出として刻まれている
この付添(あいさつ推進運動)は感謝されることが多いが
実はやってる本人が楽しみが多くてその機会があることに感謝したいくらいだ

ということで、月曜日と木曜日のお決まりの行事は早く再開してほしい
(その後の再開はどうやら16日かららしい)

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理解の及ぶ範囲内での理解(それは本質的な理解か?)

2021年09月12日 09時20分12秒 | あれこれ考えること

将棋の藤井聡太氏がとんでもなく才能にあふれて、可能性に満ちた活躍を続けているが
将棋をよく知らない人間は、将棋以外の面で楽しさを味わうしかない
例えば、解説する将棋の棋士には変わったキャラクターのいい人が多そうとか
昼ごはんは何を食べたとか、、
つまりは、自分が理解できる範囲、分野で彼を、あるいは将棋をわかった気になるしかない

これなどは当たり前のことと納得する人が多いだろうが
だが、この傾向を少し別の分野に当てはめると少し心配なことが出てくる

菅さんが首相になったとき、もてはやされたのが「令和おじさん」と「パンケーキ」だった
左党ではない菅さんは庶民的なパンケーキを食べる人として、その連想の赴くまま彼を評価する
彼の向いている方向性やら、行ってきたことで彼を理解したり判断するのではないのだ
流石にみんながみんなそういう訳ではないが、それでもわかりやすさのパワーは馬鹿にできず
全体の空気としては、この空気を醸し出した人たちには効果期な情報発信だったと思われる

人は残念ながら自分の理解の及ぶ範囲内での理解しかできない
この理解できる範囲というものが曲者で、物理的・科学的なものは最初からお手上げで
自分でもわかった気になっているだけなのは自覚する
だが、普通の日本語を用いてわかったような気にさせるものは、その分野の背景知識がないと
正当に評価できないことがある
今度の秋に行われる政治的な分野はその筆頭で、人にはいろんな考え方がある以前に
現状を理解することすらできていないのではないかとさえ思えてしまう

国に限らず地元においても、個人の理解できる範囲は肝心のポイントではなく(将棋本体ではなく)
他の関係ない分野(昼ご飯)に終止しているのではないだろうか

理解が進んでいないと思われる普通に存在する集団は、結果的に最悪を防ぐ力を持つものなのか、
それとも感情に煽られて芳しくない選択をしうるものなのか
オルテガでなくても心配な気持ちをつい覚えてしまう



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国家はなぜ衰退するのか

2021年09月11日 10時23分58秒 | 

読書感想文は後書きを読んで、それをまとめるのが要領のいいやり方だと
この宿題に取り組んだ人は心当たりがあるに違いない
そんなことを思い出したのがこの本「国家はなぜ衰退するのか」
(ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン)

昔のことを思い出したが、科学の論文は最初に要約の部分があって全体の内容はそれを見れば
だいたいのことがわかるようになっている
後に続く膨大な部分はその検証とか思考過程を示していて、後書きと似た役割を果たしている
それらは確かに無駄のないエッセンスの集まりで、前書きとか後書きを読むのは
本を(論文を)読んだ気になれるいい方法だ

本を読んで自分の感じ取ったことが部分的に過ぎないのではないかと気になることは少なくない
正直なところ、この本においても本質的なところ以外の要素として
ヨーロッパ人がアメリカ、南アメリカ、アフリカ、アジアにしてきたこと
(主に植民地政策として)のえげつなさには辟易とし、それが猛烈に印象に残ったのだが
今回は幸い後書きにあるような本質部分も記憶に残っている

この本では、本文でも後書きでも長期的な経済発展の成否を左右するもの最も重要な要因は
地理的・生態学的環境条件の違いでも、社会学的要因、文化の違いでも、
いわんや人々の間の生物学的・遺伝的差異でもなく、経済的制度の違いであるとしている

この制度の違いというのが、包括的な政治制度ーその極限が自由民主主義ーと
包括的な経済制度ー自由な(開放的で公平な)市場経済との相互依存(好循環)
それと裏腹の収奪的な政治制ー奴隷制、農奴制、中央司令型計画経済等ーとの
相互依存(悪循環)というメカニズムが存在する

何やら難しい表現だが簡単に言ってしまえば、悪循環の方は少数者の権力者の
自分たちにとってのみ都合のいい社会システムで、
好循環が人の倫理感や正義感に基づく社会システムのことを表している
アフリカも南米の国も、その他の国もヨーロッパから産業革命の影響を受けて
機械などを導入し発展するチャンスはあった
しかしそれが実現されなかったのは、少数の支配者が自分たちの立場、利益を守るためだけに
行動したことが大きな理由としている
そしてこの例から、結局のところ一部の特権階級の人たちの利益のみを守ろうとするのは
結局は国家の衰退につながると想像させるように書かれている

これを架空の出来事ではなく、我が国のことを念頭において考えると
例えば、科学的な遅れ(コロナ禍のデジタル技術のお些末さはショックだった)とか
肩を並べていたと思っていた国にいろんな経済的数字で(全体ではなく個別計算したときの)
置いてけぼりにされつつあるのを見ると、日本は衰退気味と感じざるを得ないのだが
それはこの国の実質的な支配層と思われる人々が、全体の利益よりも自分たちにとっての利益にのみ
興味があるような考え方や行動(収奪的な政治制度)に起因しているのではないかと想像できる

ならば実際に衰退を感じた時、多くの人は何をすれば良いのか、、
が問題となるのだが、それは当事者である人々が自覚して行動するしかないのかもしれない
フランス革命が結局のところ良いものか悪いものかは(その後の混乱とか恐怖政治等で)
微妙とされる考えもあるが、一つ大いに参考になるのは、庶民の力で王政から自ら
民主主義を手にしたという点だ
何かを得るには当事者が頑張るしかない
当事者が頑張ったあとは貴族的な精神の持ち主(ノブリス・オブリージュが身についている人)が
中心になる方が現実的・効率的となると思われるが、ここが欠点の多い人のなすことで
良い人間がずっといい人のままでいることの保証はない

結局のところ欠点の多い人間(という生物)のつくりだす社会という生き物は
あるところで偶然に左右されて、一時期うまくいくことはあって
それを持続可能なように一般化しようとしても、そこには常に当事者同士の利益の奪い合いがあって
なかなかうまくいくとは限らないかのようだ

つまりは永遠の未完しかないのかもしれない
でも、多分、あるべきものを(理想)求め続けること、諦めないこと、自分ができる範囲で頑張ること
そうしたことが大事だと、まだ諦めが支配するメンタリティになっていない今は思う

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行政訴訟のニュース

2021年09月09日 09時38分25秒 | 養鶏所騒動

昨日のNHKテレビのローカルニュース

“土地購入で損害” 住民が愛知 新城市を提訴
          ↓↓
https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20210908/3000018281.html
(そのうちに見られなくなるかもしれない)

今朝(9月9日)の中日新聞朝刊の記事


2つとも同じ内容を扱っている
それぞれの媒体の特徴を生かした、片方はわかりやすく
もう片方はも少し詳細に伝えているが、地元民にはあまり喜ばしくない話だ

この件は、話を聞けば直ぐに「なんで?」との疑問が間髪をおかず出てくる不思議な手順で進められていた
記事にあるように、養鶏所として使われていた土地を市が購入する事になった
その購入金額の算出根拠が不動産鑑定になるのだが、その不動産鑑定の参考にした4箇所の場所のうち
3箇所が地元の新城市ではなく豊川市だったのだ

新城市の物件なのに、なぜ豊川市?
これは早い時点から表に出て(議会で明らかにされた)いて不思議だったが
気分的にもやもやしたまま時間が過ぎていった
ところが、ほとんど偶然なのか、しばらくの後この土地のすぐ近くの土地を国が買うことになった
そこで国は購入金額を算定するために不動産鑑定を行った
すると、その金額はすぐ隣同士の土地だったにもかかわらず市の算出した金額の八分の一だった

そこで考えつくのは、そもそもの市が支払った金額は、実勢価格を反映していない
つまり国の方の数字のほうが一般的で、えらく高い金額で購入したのではないのかという疑問だ

これは訴訟の争点となるのだろうが、国と市が不動産鑑定をしたのでは
その地目は少し違っていて(国は山林、市は雑種地)一概に比較はできない、、という理屈と
その業界の一般的な常識、記載された地目ではなく現況で判断して
仮に地目が異なっていたとしても、ある係数をかけて近似値を求めることができる
そしてその結果は、国の算出した数字より僅かに高いもので市の数字はそれでも高すぎる
とする理屈のどちらに金額算出の正当性があるのか、、が戦われるような気がする(素人には)

これらは、机上の戦いになるのだろうが、もう一つ現状把握として肝心なのは
裁判でそれが左右されるかどうかはわかないが、この案件は妙に急いで進められていった事実がある

土地購入の承認は、議会に下駄を預ける
議会は年4回の定例会があるのだが、この件は急遽臨時議会が開かれて
あっという間に財源(財政調整基金)の不的確さも、不動産鑑定の企業の選択の曖昧さも残したまま
購入が決定されて、契約に至ってしまった

このような物騒な裁判沙汰が起きるのは好ましいことではない
だが、そうでもしないと、知らないところで奇妙なことが進められてしまって
庶民にはわからない場合がある
特に今回の不動産に関することなどは、専門的な知識がないと、素人目には変だなと思いつつも
その変な部分の説明ができない
専門知識のある人がいないと、「いつも反対ばかりしている」と思う人が出てきてしまう
(明らかにおかしな進め方、金額だとしても)
今回は原告にその道の専門家がいた

とりあえずテレビと新聞の報道によって、今まで知らなかった市民がこのことを知ることになるだろう
心配なのはそれが鶏の記憶(すぐ忘れてしまう)で終わってしまわないかということだ

その前に、テレビは見逃した人が多いだろうし、新聞も目につかないと思う人も多そう
大事なことでも多くの人に伝えるのは難しい
理解を得るもの難しい



コメント
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