パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

反対の質問の調査をしても、同じ人が出てくる(かも)

2021年09月07日 09時25分32秒 | あれこれ考えること

新聞の週刊誌の広告は、なぜあんなに目立つのか
目立つと言うより関心をひくのか
それは「蜜の味っぽい」意地悪な人の気持ちを満足させるからなのか
人は人を悪く言うのは、避けられない傾向はあるようだ

今朝の女性誌の広告のある記事の見出しが興味深かった
「首相になってほしくない政治家は誰か?緊急アンケート」とあった
それは直近に日経グループが行った「誰が首相にふさわしいか?」
とまるっきり反対の視点だ

ところが、これが笑い話で済まされない可能性がある
それは芸能界タレントの調査と同じで、この手の調査は
良い方も悪い方も同じ人物が占めることが多いのだ

このようなアンケート(調査)は、物事の本質を問うものであるにも関わらず
実態は単に知名度が単に反映されているだけではないのかと思えてしまう

そして不安を覚えるのは、人が選択の判断を行う場合に、この調査結果が
影響を与えているのではないか、、と思えることで
人がなんの情報もない状態でシンプルに誰に投票するのと
こうした調査結果を頭に入れさせられた状態で投票するのでは
その調査結果の情報は、ある陣営にとっては極めて有利な力が働くのではないか

こうした危険性があるために、選挙前の情勢報道はしないとする国もあるようだ
だが、この効果を知っている人たちは(そして多数派は)その機会を逃さないようにしたいと考える

人は自分個人の判断で選んでいるようでも、実は何かに支配されている可能性は大で
そのことに全く気づかないひとの存在は、ある種の人々には都合の良い存在となる

ある時代のある国の専制君主が、自分たちの制度、身分を長く守るには
庶民が自ら考え、判断するといった知恵を持たさないことだ と
言わなくてもいいことをつい残したが、これなどは我々庶民が記憶にとどめておくべき
ことのように思われる

だが日本において、個人が個人であるということ(個の確立)の難しさを考えると
少し落ち込みそうになりそう

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安心感としての是、問題意識としての否

2021年09月06日 09時51分02秒 | あれこれ考えること

ジョン・レノンが後に妻となる小野ヨーコと初めて出会った時のことを
ドキュメンタリー映画の中で話していたシーンを思い出した
前衛芸術家としての個展にでかけた時のことで
作品の中にはまるで小学生のいたずらのような仕掛けのあるものがあった

正面には文字が書かれている
そこには「右を見て」とある
そこで右を見ると、そこには「左を見て」とある
同じように左を見ると、今度は「上を見て」と書いてある
促されるままに上を見ると、そこには「YES(是)」とあったのだそうだ
その時のジョン・レノンの気分に余程フィットしたのだろう
これで彼はノックアウトされたようだ
これが「NO(否)」であったなら、彼女との関係はなにもないままだった
と映画の中ではインタビューに答えている(自分の記憶の中では)

赤塚不二夫の「それで良いのだ!」に通じるような、
全肯定的(人生を肯定的に捉える)な雰囲気が、当時荒んでいた彼を救ったに違いない

穏やかな、問題提起をしないような肯定は、ニーチェを始めとして一部の物知りとされる人にはウケが悪い
彼らにとっては、物足りない態度としか思えないのかもしれない
だが、肯定は甘い考えや態度なのか

いろいろ文句を垂れることの多い自分だが、基本的には諦めも含めて肯定的な捉え方を好んでいる
モーツァルトの魔笛とかコシ・ファン・トゥッテとか、フィガロの結婚でも登場人物は
およそ人格的に問題のある人で騒ぎを起こす
でも、それで良いのだ、、と音楽の力を借りて、不完全なままの世界を肯定的に捉えている
(その倫理観の欠如にベートーヴェンは我慢いかなかったらしいが)

ヘッセのなかでも大好きな「シッダールタ」は、様々なしなくてもいい経験をした後
諦念の境地に達し、それらを全部受け入れる「是」の気分に落ち着く
(その場面は読んでいて思わず泣きそうになる)

ジョン・レノンの相棒ポール・マッカートニーは、この肯定的な傾向は大きいようで
批判的な棘がない分、軽いと思われている
しかし、彼のライブで最後に用いられるゴールデン・スランバーからジ・エンドまでの
歌詞を眺めてみれば、それは確かに人生を真面目に生きてきたひとの感じる実感が
肯定的に含まれている

だが、肯定的ばかりではいられない世界も間違いなく存在する
穏やかなために、あるいは声を挙げないために、結果的に見て見ぬ振りをすることになること
そしてそれがいつか自分の身にも降り掛かってくると思われること
それらは、少し気張って、現状の否定の気持ちを持たねばならないかもしれない

この秋、国も市も選挙が行われる
この場合は穏やかな全肯定よりも、「そもそもは」と最初から考えるほうが適切と思われるが
現実には市民一人ひとりにそれが可能かはとても不安
社会は、この程度の不完全さを前提にできているのか、、それで良いのか
これは個人的にはずっと考えどころ、、(知ったところでどうなるものでもないが)

例のごとく上手くまとまらなかったが、何かイライラしそうな毎日が続く




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選挙が近づいてきた

2021年09月05日 10時18分12秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

先日、地元の店に、この秋市長選に出馬する人のパンフレットが置いてあるので
「本人が来て置いていった?」と尋ねると
知り合いが持ってきて断ることもできず、おいておくことにしたとのこと
地元の店は選挙には慎重にならざるを得ない
表向きに誰々を応援すると表明しない企業は多く、それがその場所で生きていく秘訣かもしれない

次に「この人(出馬表明した人)のこと、どのくらい知ってる?」と尋ねると
パンフレットに書かれたことは僅かに知っておられたが、人柄や今までの判断してきたこと
(そのような仕事の人だったので)などは、全く知らないと答えた

次に「市議会議員はどのくらい知ってる?」と聞いてみた(市議会議員選挙もこの秋あるので)
「5〜6人くらいかな」(新城市議会は18人で構成)
「地元の〇〇と、△△と、それから  近くにポスターがある、なんて名前だったかな」

おそらく、この方は特別にこの手の情報に疎いのではなく、大半の市民は同じようなものと思われる
住民投票が行われる前の自分も議員の名前も顔も知らなかったので、このような現実は大して驚きもない

だが、いろんな話が集まるようなこの店の方は、悪い噂の市議会議員のことも知っているので
「市議会議員はなって欲しい人に立候補してもらえず、勘弁して欲しい人が出て、議員になってしまっている」
と巷でよく聞かれるフレーズを口にした

なって欲しい人が立候補しないのは何故か?
の大きな理由の一つは、家族の賛同が得られないからのようだ
現にその例を数人知っている
もちろん、それだけでなくもっと根本的なところで、エイヤッと出られない何かがあるのだろう

いずれにしても、市議会(市政)のゴタゴタとか、いろいろ現実を見てきたものとしての印象は
市議会議員や首長は、選挙前に表明される勇ましいマニフェストや考え方よりは
数段低いところで日常の行動をしていると実感する

人が得意でなさそうな、しかし多くの人が選ぶという点で最悪の事態は避けられるとされる代表性民主主義だが
人が人を選んで、その人に任せるという行為が、本当に現実的かは少し不安がついてまわる
それは国を見ていてもつぶさに感じることで、能力のある人、共感力のある人、人間的な人として選ばれた人が
その面を発揮することなく、勝ち馬とか多数決の原理を都合よく解釈、利用して自らの立場を守っている

人が人を選ぶ時、その一番の根拠となるのは何だろう
一番間違いがなさそうなのは、選ぶ人が選ばれる人の人柄や傾向をよく知っていることだろう
だが現実には広くそれが可能になることはない
すると、次は信頼できる知り合いから勧められるということがあるかもしれない
「あの人のいうことなら信用できる」
として、判断を他人に委ねるという手だ

一般的に選挙では王道とされるマニフェストの良し悪しは、果たして本当に選択の基準となるのだろうか
マニフェストは対立候補もそれなりのものを出してくるので、それぞれ良いことが提案される
その良いことの優劣の判断を人は果たしてできるのだろうか
(そもそも庶民には必要な背景知識がない場合が多いのではないか)

実態として、より良いものを目指すとして制度は存在する
その制度を利用する庶民は、数年に一度、とりあえずしなければならない行為としての投票を行う
だが現実はそれで一旦終了だ

世の中に政治的なことに関連していないことはない
と諭されても、やはり面倒くさいと感じる庶民の気持ちもよく分かる

と、困ることの多い現実だが、この秋は市長・市議会議員選挙だ
なにかしら、運を天に任せるしかないような気分になりつつあるが
それじゃイカンと!と考えて、庶民は何をすべきなのだろう
困った(あの議員じゃ本当に困るという人がいるので)

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金額の正当性は手続きによって確保されるか?

2021年09月04日 09時58分06秒 | 養鶏所騒動

土曜日らしくなく、しかも面白そうでもないが、ずっと気になっていることなので個人的な備忘録として
(多少抽象的な)

それはある自治体のある契約を見た機会があったときに、その項目別の金額に少し違和感を感じたので
少しばかり調べる事になったことだ
その項目の金額は一般常識的には高いと思われるものだった
何でも批判的に見て、無条件に反対したいというのではなく、ネットで他の同様なものを検索してみると
それほどの数字にはいかないもので、経済効率からすれば固定費にそれほどの金額をあらかじめ計上するのには
違和感を覚えるものだった

行政はよく「適切に」という言葉を使う
多くの場合その内容についての判断ではなく、然るべき手順を踏んで判断したことを示すことが多いようだ

その然るべき手順とは何か
地方自治体の事業は税金から使われるので、その使用については効率的、公平であることが望まれる
それを確保するために、ある金額以上のものについては競争入札という手段をとる
総額はもちろんだが、そのときにも項目別の金額明細は示されるようだ
この項目別の金額は入札する企業の事情(得意分野とか在庫があるとか)によってかなり違いがあるようで
その一つ一つが高い安いとは言えないようだ
だから行政は総額を判断根拠とする
このあたりには抵抗感はないし、そうだろうなと理解する

だが随意契約となるとこれが不安定で、適切かどうかが疑われるものが出てくる可能性がある
契約には基本的にはいくら以上のものは競争入札すべしと法にあるようだが
規定金額を超えたものでも、特別な理由がある場合は随意契約でも良しとされる
今回自分が目にしたのはこの随意契約のもので、競争入札ではなくて随意契約にした理由は
納得したとしても、その(項目ごとの)金額の正当性はどのように確保されるのだろうと考えた

随意契約でも行政は相場の金額を調べておくのか、それとも委託企業の数字を信じるしかないのか
は部外者のなのでわからないが、仮に後者としたならば、その金額は批判に耐えうるものなのだろうか
行政は全ての分野のプロではないので、細かなことはわからないので相場の金額もわからないのは理解できる
行政のスタッフの中には、なんとか類似の例を探して数字の正当性を確保しようとするか、
そんな面倒なことはやめて粛々と相手側の提出した数字で進めていくタイプに分かれるようだが
後者の進め方の責任回避の理由としては、チェック機関の数の多さが挙げられる
契約を結ぶにはいくつもの印鑑が押される
金額が大きくなれば印鑑を押す人も増えてくる
その人達は、契約書の項目別の金額も見ているはずなので、おかしいと思わるものがあれば気づくはずで
印鑑が最後まで押されたならば、問題ないと判断される
しかし、手続き論はここで終わらない
実際にはこの先に議会による議決の承認で完全なお墨付きを得る
更には、会計監査のチェックも入るのでこうした手続を踏んでいれば、間違いを起こす可能性はないとされる

だが、この進め方は一種の机上の理屈に終止している可能性がある
第一に、議会はこの契約についての明細をちゃんと調べているかが大いに疑問で
議会は予算案としてまとめられた一括のものを議決するだけで
注意深い一部の議員を除いて、割合安易に予算案(結果的には契約書に)賛意を示すことになる
また、常識が判断基準の重要な点とされる会計監査においても、奇妙な点が見つかったとしても
会計監査員は契約の無効までの法的な力はなくて、単に注意喚起くらいしかできないようだ

つまりは手続きを踏んでも、かなり不安定なところがあるということだ
もう一つの問題は、現実の社会生活の人間である職員は、四角四面に効率を考えた予算の執行を
末端のところから個々で考えられるのか、、との問題ができてくる
公務員は、業務上の上司の指示に従わなければならないという条例があって
もしかしたら個人考えたならば、賛成できないと思われた件も、上司からの指示となれば
従わざるを得ないのかもしれない
個々で末端の人が悶々と悩むのは可愛そうだが、そういう人が存在するとすれば(市民にとっては)多少救いがある気がする
だが、よくあるパターンは、ちょっと考えるとおかしなことがあっても
前からそうだった、、といった悪い意味での前例主義で、たいして考えることなく進められてしまうのではないか

一番あってほしくない出来事は、腐敗だ(あるいは、なあなあの関係の世界だ)
誘惑の多い地位にいるおエライサンが、命令あるいは忖度を暗示させるような仕方で部下に物事を伝えたならば
どういうことになるか

実はこの問題ではないが、(これを彷彿とさせる)これに似たような件で、近々ある出来事が起こる
それはある組織に客観的にどちらの言い分に分があるか、、を決めてもらう手続きのことで
それはニュースになって地元に伝えられるか、それともスルーされて無視されるか、、
いずれにしても、そのうち分かることだ
滅多に怒らない(?)方だと自分では思っているが、この件は腹が立ったのでその意志をはっきり示すことにした


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重要なニュースは、果たしてそれだけか?

2021年09月03日 14時38分00秒 | あれこれ考えること

菅さんが総裁選に不出馬のニュースが突然出てきて、昼のワイドショーはその話ばっかりになっている
残念ながら現在のところ日本の首相は実質的にはこの自民党の総裁選びで決まる
それで良いのか、、という問題はさておき、この手の権力闘争の話が大好きな人たちは存在する
先日、ワイドショーのコメンテーターの一人が、周りにはこの話で嬉々として盛り上がっている人たちが
存在することと、この手の話に全く興味がない人たちが同数程いることを合わせて紹介していた

現在の優先順位は権力闘争ではなくて、緊急を要する課題にどのように向かっていくかとすべきで
騙し合いのような権力闘争には嫌悪感を持つ気持ちはわかるし、自分もそのような感じ方をする

ところが、権力闘争は勝ち負けがはっきりするので、それ故に当事者はもちろんだが
外野の人間も奇妙に燃えることがあるようだ
その中に、選挙好きと言われる人たちがいる
昔は選挙事務所でお酒を飲ませることもあったので、飲兵衛は酒さえ飲めれば対立候補の事務所でも
平気で赤い顔をしてることがあった(子供の頃の記憶)
だが飲兵衛以外の人でも熱くなるのは(自分の商売に関係する人は仕方ないとしても)
思うに勝負ごとのせいではないだろうか
この勝負ごとが好きというのは、人が持っている習性のようなもので、どうしようもないかもしれない
(子どもは何でも勝つのが好きだ)

自分はそうではないが、戦国時代の好きな人はいる
マニアになれば専門家に劣らず、人間関係や勢力の背景などを理解して、その時の戦国大名の判断を批評する
そしてそれが正しかったのか、、と考える
ところが、そこにあるのは「生き延びるための方法」で、仮に天下をとったならどのような社会を作り出そうと
しているかといったヴィジョンに賛同しているわけでもなさそうだ

つまりは、どの時代も大きな社会ヴィジョンを求めるよりは、誰と誰が戦えばどちらが勝つといった
単純化されたものに、より血が騒ぐものらしい

問題は勝負ごとに血が騒ぐことは認めるとしても、果たしてその勝負の結末に終止するようなメディアの伝え方は
今の時代、今の状況下で正しいのだろうかということだ

メディアの果たす役割は大きい
それ故に、どうしても期待を込めてあるべき姿を求めてしまう
だが現在のこの国のメディアは、大丈夫なのか
これがずっと気になって仕方ない
首相会見の記者クラブの質問の体たらくとか
「誰々がこう言った」とよく考えずに伝えるだけのニュースは、時に怒りを覚える

ということで、今後のニュースの方向性は権力闘争、、つまりは戦国時代の勝ち残りは誰か
という視点でしか伝えられないような気がする
これが不安 それで良いのだろうか



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ワールドカップアジア予選  オマーン戦

2021年09月03日 09時17分28秒 | サッカー

テレビ局がいいところを無理やり探そうとしても、プレイした当人の吉田は
「負けるべくして負けた」とインタビューに答えた
ワールドカップアジア最終予選の初戦 オマーン戦は終了間際に失点で0−1の敗戦
試合を見ていて引きわけの勝点1で喜べるのはオマーンより日本の方だった
そのくらい日本は良くなかった

前半戦で微妙なPKシーンがあった
相手の蹴ったボールが長友の手に当たったとして審判はPKを指し示したが
VR判定で危うく逃れることはできた
長友は腕を体側にピタッと付けていたのでハンドを取られなかったようだ

これがPKで決まってしまったならば、昨日の流れでは同点に持っていくのは
大変だと思えたし、そこで決まってしまうのかもしれないと予想した
PKにならなかったのはラッキーだったが、昨日の出来をサッカーの神様は許してくれなかった

最初からずっとオマーンのほうが推進力も迫力もあった
シュート数がホームの日本より勝っていた
選手のコンディションも連携も、この日のために一ヶ月以上練習をしてきて
更に日本での練習も万全だったチームに、試合の数日前に集まったばかりのチームが戦うのは
少しきつかったようだ

試合前の個人的な不安は右の伊東と左の原口のスタメンだった
実績とか最近の成長を見ての抜擢だったかもしれないが、たしかに伊東は速い
だがそれは右サイドを駆け上がるときで、それ以外は数人で器用にパス交換をして
崩していけるタイプではない
原口も豊富な運動量で献身的であってもチームとして機能するかは疑問のところがある
その二人に鎌田が上手く絡めるかと不安だったが、そのとおりになった
頼みの大迫もイマイチだった
マークされているとテレビは彼をかばったが、試合慣れしていない感じがもろに見えた

試合はミスも多かった
横のパスは何回か簡単に相手に取られたし、クロスはポイントが合わないだけでなく
相手DFにぶつけてしまう場面もちょくちょくあった

つまりは、上手くいかなかったということだが
物事は準備で決まる、、という母の言葉を、オマーンの準備で思い出す

それにしても、また実感するのは日本はストライカーが育たない国だ
1番先にいる選手は、ポストプレー、前からの守備、チャンスメーク
その他いろいろな役割を要求される
それはゴン中山とか岡崎慎司のひたむきな姿の影響が大きい
とにかく戦う姿勢を見せるところが日本人の感情を刺激する
ところが、前目の選手の仕事は点を取ることだ
FWは何回ミスっても、たった一度上手く行けばヒーローになれる
そういうものだが、それだけをする選手を日本人は
心情的に許せないのではないかと思えてしまう
(一生懸命と見える姿を見るの好きなのだと思う)

メッシがアルゼンチン代表でワールドカップで戦っていた時、彼は歩いていた
自分には関係ないといった素振りで、近くにあるボールを追いかけようともしなかった
だが、チャンスが来ると、彼は相手の嫌がる決定的なプレーをした

メッシだからそれは許される、、との言い分がありそうだが
そればっかりではない気がする
エネルギーは肝心な時のために取っておくのは必要なことだ

ドイツでは数人集まるとシュートの練習をして、オランダはパスの練習をする
と国民性を表す例として挙げられたことがあった

そこで日本を考えると、きっとシュート練習は少ないだろうと想像する
ボール回し、相手の崩し方、数人での守り方、、そういった方面に時間を費やしそう
だが、お隣の韓国はシュート練習は多そうな気がする(気がするだけだが)
結局はお国柄なのだろうが、そこには改めて考え直さねばならない問題がある気がする

ところで堂安、古橋、久保の選手交代は、自分でもそうしたいと考えたものだった
(そこは少し自慢なのだが)
彼らに交代して少しパス交換が増えて可能性が僅かに感じられたが
代表選手は合わせる時間が短いので、相性というものが割合重要なのではないか
その選手同士の相性を見極めるのも監督の重要な仕事だろう

それにしても前の人材がいない、、、
自分で自分のシュートチャンスを作り、シュートを決める力のある選手がいたら、、
とつくづく思う
それを思うと、釜本とかカズが得点が多いのは、他人だよりばかりではなく
自分で持っていける力があったから思えてしまう


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書かれていないことを守る

2021年09月02日 10時27分37秒 | あれこれ考えること

言葉のやり取りは、それが冷静だったり、言葉の定義がしっかりなされているとしても
不毛に感じることは少なくない
どんな時も「ああ言えばこう言う」的に逃れる方法は見つけ出せると思えてならない

野党は国会を開かないのは憲法違反と訴えている
憲法53条には
内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。
いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

野党とすれば、既に数として議院の四分の一以上は確保しているので、開かないのは憲法違反だという理屈だ
ところが、ここからがこうした文章の曖昧なところで、憲法には招集する期間が明記されていない
いつまでに開かなければならないと書いてないので、今は開かないだけでいつか開く予定ということで
済まされてしまう

本来ならば法の意味するところを理解して常識的に速やかに、、と判断すべきを
あくまでも書かれていないので、法に背いているわけでなないとしているのだ

こういう時、そもそも法はどのような人間性を前提として出来上がっているのか
法はどこまで詳しく書き込むのか、、が問題となるようで
確かに個別にあまり詳しく書き込むと煩雑になりそうで、ある程度のところは
運用する人たちの常識等を信じて形にするしかないと思われる

つまりは国会議員のような正しい判断を要求される人々は、
あれこれ書き込まなくても常識的な判断ができるはず、、としているのではないか

ところが、最近は書かれたもののみを過剰に解釈し、その意図するものは蔑ろにされることがい多い
法律ではないが、この時期の会食は5人以内にして欲しい、、と通達が出た時
あるおエライサンたちは4人で会食したから、違反はしていないと開き直ったことがあった
5人なら駄目で4人ならオーケーという理屈だ
だが、本来の会食は自粛して欲しいというのは、数を守って欲しいというものではない

法のバグを利用するような、一見賢そうな理屈は、実は少しも賢いものではなくて
人としての才能の欠如を表すものではないのか、、と心配になってしまう
(この傾向はトランプさん登場以後は加速しているとか)

ところで自民党は以前、憲法改正の案を作成した際(野党時代?)
この53条には期間を盛り込んだらしい(そしてそれは割合短い期間だったような記憶がある)
つまりは常識的には、速やかにと解釈すべきなのはとっくに理解しているのだ
だが、法は解釈が多様な方が使い勝手が良いらしく、多数派を維持した今は
この便利な条文を法の意味するところよりは、書かれたことのみを解釈するようにしている

最近読んでいるこの本


まだ途中なので言い切る事はできないが、国家が衰退するのは
ある人(団体)が自分たちの都合の良いように搾取(収奪)するのが
大きな理由としている
そしてそれ(少数者の支配)を可能としているのが政治システムで
政治システムはよく検証していかないと、危険だと思わせているかのようだ

近いうちに行われる国会議員選挙、市議会議員選挙、市長選挙においては
書かれていないことを守る常識的な、人間性を持った人物と判断するにはどうすれば良いのだろう
(そういう人が立候補すればいいが、しない場合は人はどう対応すればいいのだろう)








 

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