パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

本能寺の変の当日、不幸な出来事の兆候が、、

2023年07月19日 09時22分55秒 | 徒然なるままに

藤井聡太くんは強いな!(棋聖戦3−1で防衛)
誰かが言ってたが、皆(対戦者・挑戦者)で彼を強くしているのかもしれない
将棋の藤井聡太、大リーグの大谷翔平は今はピークかもしれない
その時をリアルタイムで見ていられるのは幸せなことだろう
(ストイコビッチの良い時を目前で見られたのは本当に幸福だった)

囲碁将棋として一括りにされながら、「ヒカルの碁」ブームも終わって
最近は将棋に押され気味の囲碁は「どうする家康」絡みで
未来を暗示する囲碁のエピソードがあっても良かった
(次の回であるかもしれないが)

それは「本能寺の変」に関わることで、囲碁の勝負でめったに起こらない
「三劫」が信長が事件当日に観戦していた対局に現れたというのだ
三劫は将棋の千日手みたいなもので、勝負がつかない状態になることで
この出来事以来、三劫は不吉の兆候とされたようだ

ところで、話は変わるが「劫」というのは
インド人が思いついた素晴らしい時間の概念で
縦横高さが一キロの石(一里四方の説もある)があって
そこに100年に一度天女が降りてくる
石に座ると少しだけだが石がすり減る
この石がすり減ってなくなる時間が一劫というのだ
未来永劫というのは、一劫でもとんでもない時間だが
それが幾つもあるという気が遠くなる時間を表している

ところで戦国時代に武士は将棋をしていたのだろうか?
取られたものが今度は別の陣営で力を発揮したり
コマごとに役割が異なるのは、あまりにも現実に即していて
楽しむ気分になれない気がしたりするが、、、





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冷えピタを貼ったまま外出する人

2023年07月18日 08時32分06秒 | 徒然なるままに

自分の常識は違っていたのか?と思われることがあった
暑くて外出をためらわれる時間、夕食の材料と特売商品を購入のため
地元のスーパーに出かけた

入り口で衝撃的な女性を見かけた
現実が優先して見た目を気にしない年齢のふっくらした女性が
額に冷えピタ(熱さまシート)をして歩いていた

これって家の中で使うものではないのか?
風邪をひいたときとか熱が出た時おでこに貼って一時しのぎをするもの
そういうものだと思っていた

ところが彼女は正々堂々と自信をもって歩いている
それは当たり前のことのようで
どことなく違和感をもって見ているこちらの方が
悪いことをしているかのようだ

それでも、なんだか恥ずかしいな、、
と思えてしまうのは常識に囚われているから仕方ない

ところが、今朝の新聞の社会面に災害級の暑さを伝える記事と写真があったが
その写真に冷えピタをおでこに貼っている女性が写っていた
昨日と同じだ、、自分にとってはちょいと控えめにしたい行為は
今は市民権をもって堂々となされるものなのか、、、

実際のところ、どうなんだろう
赤信号、みんなで渡れば怖くない、、の例と同じく
見られたくない格好でも数が多くなれば、、平気でいられるようになるのだろうか

それにしても暑い!
2階からはそろそろ逃げ出す時間になってきた


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海の思い出

2023年07月17日 08時42分00秒 | 徒然なるままに

海の日の今日は災害級の暑さだとか
子供の頃はこんなに暑かっただろうか?
といつも思う

夏は海のイメージだが、長いこと海を見ていなくて
久しぶりに海の近くに来た時
「うわーっ、水がいっぱいある」と驚いたものだった
(北杜夫も同じような感想を述べてたのがあったような記憶が)

先日の「チコちゃんに叱られる」では
「海の水はなぜ底に沁みていかないのか?」の問があった
海の底はとんでもない圧力がかかっているので、
底(土)はカチカチに固まって沁みていくどころではない
というのが答えだった
これは答えが出る前に想像ができて、1人でほくそ笑んでいた

海には一つ強烈な思い出がある
夏になると埼玉に嫁いだ妹が姪と甥を連れて帰省していた
甥はあせもが酷くて皮膚はただれていた
どこかに連れて行くのが運転できる自分の役割で
その年は伊良湖へ海水浴に行った

海に入ると「しょっぱい!」
といつものように当たり前の事実に驚く
だが本当に驚いたのはあせもでひどい状態だった甥の皮膚のこと
帰るときだったが、寝る前に確認した時だったか忘れたが
彼の皮膚はすっかり良くなっていた

海水はこんな力があるのか!
薬よりも問題にならないくらいの力がある
なぜこんなに効果があるのか分からなかったが
この事実は強烈な思い出となっている

このことは自分はしっかり覚えているが
当事者の妹や甥は覚えているだろうか
(世の中はそんなもんだろうが)

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無人駅の対策

2023年07月16日 09時18分54秒 | 徒然なるままに

昨晩は中心街の交通を止めて歩行者天国の夜店が行われた
雨で中止になった7月1日分の代わりだ

先週8日の夜店は近所の子も出かけていて
「ケーブルテレビのインタビューを受けた」
と月曜の校門までのウオーキングタイムに自慢げに話していた
水曜日からその様子は放送されているようだが
ケーブルテレビは契約していないので、自分は見ることはできないが
かれは自分の姿を見たのだろうか

昨日はちょいと確かめたいことがあって、またもや夜店に足を運んだ
それは安心して大人がビールを飲める電車での交通手段についてで
無人駅の対策はどうなっているのだろう?ということだ

自分の家の近くは東新町駅、夜店会場は一駅先の新城駅付近だ
ただしどちらの駅も常に駅員さんがいる訳ではない
東新町駅は7時半から3時位まで、市から派遣された人がいる
新城駅も似たようなものか、もう少し長いこと駅員さんはいる

無人駅で切符はどうするのだろう
電車も最近はワンマンカーで車掌さんもいないし
いたところで一駅で降りるとなれば時間がなくてバタバタするし
新城駅も人がいないとなれば、、どうやって運賃を確保するのだろう
おせっかいなことに、この対応策を確かめるために出かけてみた

東新町駅には駅員さんはいなかった
乗車した電車には車掌さんがいたが、切符を買おうとしても違う車両に移動してしまった
新城駅に着く前に、運賃についての放送があった
昨晩は臨時に新城駅には駅員さんがいるので、そこで運賃の支払いをしてほしい
とのことだ
また、帰りの電車の切符も購入しておいてほしい、、とあった

これは思った通りだった
臨機応変の現実的な対応策が取られていた
新城駅の駅員さんに150円支払って、帰りの切符も買って夜店会場を一巡りした

昼にちょいと運動をしたのでその疲れが残っていて、調子が出てこず
夜店は楽しめる感じではなかった

7時25分の帰りの電車の乗客には子供(小学生前)連れの家族がいて
聞いてみると自分の降りる駅のもう一つ先の茶臼山駅だった
「自分は東新町」というと笑いが漏れた

「2時間は保たなかったね」
と大人たちは蚊を追いながら、おもちゃで遊ぶ子どもを見ていた
(いくらウキウキしても小さな子に2時間は無理だろう)

我々のように帰るために電車に乗る人がいれば
これから夜店を楽しむために降りる人がいる
ちょいと下車した人数を数えてみた
25人くらいで、暗くなってこれからが夜店の本番といったところか

ということで、夏の夜のひととき
枕草子では「夏は夜」がいとおかし、、となっている
ホタルが舞う様子が風情があると言うのだが
現代では夜店がおかし、という感じかもしれない

今朝、蝉の声が聞こえた
それにしても、夏はかなわないな、、
枕草子のように余裕をもって夏を受け入れられない

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海の日と今日15日の思い出

2023年07月15日 09時11分15秒 | 徒然なるままに

エンタメ業界ではよく「名古屋飛ばし」という言葉が使われた
人気タレントさんがドーム公演が行われても、名古屋は行われないのを揶揄した言葉だ
確かにポール・マッカートニーのドーム公演は東京と大阪はあったが
名古屋はパスされたこともあった

名古屋ですらこうなのだから、もっと小さな都市の豊橋とか田舎の新城などは
タレントさんが来ることは少ない
だからこそ先月新城文化会館で行われた大河ドラマ出演者によるトークショーは
タレントさん見たさで応募者が殺到したのかもしれない

東京では時々、どこかで見た人と出会うことがある
その誰かは実はテレビに出ている人で、自分とは接点がないのだが
なんだ思い出せない知人のひとりと思ってしまう

テレビに出ている人を見かけるのに意味はないが
その人物の語る内容を体験するのに大きな意味がある場合は
機会を逃さずに参加するのが良い

海の日の17日、豊橋向山の市民文化会館に統一教会の報道で著名な
鈴木エイト氏がやってくる


質問権を行使したものの、その先が見えない現政府の方針
いつの間にか、忘れっぽい日本人は幾多の悲惨な出来事すら
記憶から消えてしまうかもしれない(と不安を覚える)

忘れてはいけないことは、繰り返し情報をアップデートして
心に留めておかねばならない
統一教会のことはテレビや週刊誌の中の出来事ではなくて
実は自分たちに直接関わっている問題と思い続けること
まずはそれが肝心だ

ということで、妹の誕生日の17日は、ここで時間を費やすつもり

ところで、今日7月15日は、大好きな祖母の命日だった
今でも祖母のことを思い出したり、写真を見たりすると涙が出てくる
(祖父や祖母より先に逝った父が望んだように、自分は祖母にしてあげられただろうか)
妹は自分の誕生日が祖母の命日にならないで良かったと口にした

祖母を送る日、家の中にびっこの雀が入ってきた
まるで足の悪かった祖母に代わって最後の別れを告げるように
雀は「今までありがとう、そしてさようなら」
と言いに来たに違いない、、と確信をもったのだった

自分は祖母の孫で良かった!
と今でも思う




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「猿丸幻視行」と「水底の歌」

2023年07月14日 09時29分30秒 | 

少し前、親しくしている趣味の多い人が文庫本の「いろは歌の謎」を話しかけてきた
いろは歌は同じ文字を2回使うことなくちゃんとした意味ある内容となっている
それだけで驚くべきことだが、この歌を7文字づつ区切っていくと
下の文字が(沓の文字と言うらしい)が「と、か、な、く、て、し、す」
咎なくて死す、、と意味ある文章になって、そこには柿本人麻呂の秘密が
隠されている  という内容らしい
(7文字づつ区切るのは意味的には不自然のようだが、
   その様に書かれているものが存在しているらしい)

この話どこかで見かけたことがある!
と思い出したのが、昔読んだ井沢元彦の「猿丸幻視行」だった
江戸川乱歩賞を受賞したこの作品も、いろは歌の沓の文字列を並べると
咎なくて死すとなることを取り上げていた
昔のことなので大半の内容は忘れてしまったが「咎なくて死す」の
エピソードだけは覚えていた

そこで、この機会に読みなおそう!と図書館で借りてきたのが

単行本の「猿丸幻視行」だ
これはとても質の高いエンタメ作品で、百人一首の
「奥山に紅葉ふみわけなく鹿の声聞くときぞ秋はかなしき」
の作者である身元不明の猿丸が、実は柿本人麻呂ではないかとの
想像を繰り広げていく

その中には柿本人麻呂は石見で刑死したとする梅原猛の「水底の歌」
も紹介されていて、それに刺激を受けてすぐに文庫本を購入したものだった
でも残念ながら、覚えていることは少ないというか、ほとんど覚えていない

そこで、今が再読のタイミング!と一緒に借りてきたのが「水底の歌」
現在、「猿丸幻視行」は半分を読み終えているので
もう少しで「水底の歌」に移ることができる

それにしても同じ文字を2回使うことなく、ちゃんとした文にされたものは
「いろは歌」以外にも幾つかあるようで、人はこうしたちょいと難しそうなもの
にチャレンジしたがるようだ

例えば分野は違うが、バッハのフーガに対する技術的な試みとか
ベートーヴェンのソナタ形式とか晩年のピアノソナタの変奏曲の楽章とか
ダリの近くから見た絵と遠くから見た絵が全く違って見えるトリックとか
いわゆる技術を極限まで追求したい気持ちは、、それらの現れのように思える

ということで、毒にも薬にもならないお話
それにしても人の考えることはいろいろありすぎて
今更ながら驚きを覚えてしまう

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書き残しておいた文章の中から、今気になるものを幾つか

2023年07月13日 09時40分44秒 | あれこれ考えること

気になって書き残しておいた言葉の中には、読み返して考えさせら得るものがある
今日はその中からいくつかをピックアップ

エールリッヒフロムの自由からの逃走(129から130ページ)

どんな社会にあっても、その文化全体の精神は、その社会のもっとも強力な支配階級の精神によって決定される。その理由は、強力な支配階級が教育制度、学校、協会、新聞、劇場を支配する力をもち、それによって自分の思想を、すべての人間にあたえる力を持つからである。
さらにまた、これらの支配階級は、非常に多くの特権をもっており、下層階級はたんに彼らの価値を受け入れたり、まねたりしようとするだけでなく、彼らと心理的にも合一しようとする傾向を持っているからである。


トリエンナーレ「情の時代」コンセプト 津田大介から

我々の『感情』は、日々様々な手段で入手する情報によって揺り動かされる。視聴率や部数を稼ぐために不安を煽り、正義感を焚き付けるマスメディアから、対立相手を攻撃するためであれば誤情報を拡散することもいとわないソーシャルメディアまで、多くの情報が人々を動揺させることを目的として発信されている。
複雑な社会課題を熟議によって合意形成していくのではなく、1つのわかりやすい回答を提示する政治家に支持が集まる状況も同じである。近年、選挙に勝つことだけを目的にしたデータ至上主義の政治が台頭したことで、かつての人文主義的な教養や技芸と結びついた統治技術はすっかり廃れてしまった。
世界を対立軸で解釈する事はたやすい。「わからないこと」は人を不安にさせる。理解できないことに人は耐えることができない。苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望をもたらすことを知りつつ、その手段をとることを端から諦め、本来はグレーであるものをシロ・クロはっきり決めつけて処理したほうが合理的だと考える人々が増えた。



「主権者のいない国」白井聡から反知性主義について

反知性主義の定義
知的な生き方およびそれを代表されるという人々に対する憤りと疑惑

反知性主義とは積極的に攻撃的な原理であるということだ
それは知的な事柄に対して無関心であったり、知性が不在であったりするということ、言いかえれば、非知性的であることとは異なるのである
知的な事柄に対して単に無関心なのではなく、知性の本質的な意味での働きに対して侮蔑的で攻撃的な態度を取ることに反知性主義の核心は見出される。


反知性主義の類似物として「パンとサーカス」の標語に象徴される愚民化政策が古代からある。為政者が、大衆のもつ知性への憎悪を操作・利用して動員し、それをそれによって政敵を武装解除するというようなことは、歴史上無数に繰り返されてきたに違いない

この世の中には「知性の不平等」が常に存在し、この不平等は際的な富や権力の不平等に関連する。前近代的な身分制社会においては、この格差は「うまれながらのもの」として正当化され、低位に位置づけられた層は、納得しない少数の例外者を除いて「分を弁える」ことになる。これに対して、万人が同等の権利を持つ、したがって同等の発言権を持つという前提に立つ近代民主政においては、現実に存在する「知性の不平等」とそれに関連する「現実的不平等」は渡し難い不正として常に現れ、不満の種とならざるを得なくなる
そこに現れるのは、ルサンチマンの情念が猛威を奮う世界にほかならない。「〇〇が私より富んでいるのは。〇〇が不正を働いているからだ」という思考回路が強力なものとなる。
無論、これが現実に正しい場合もある。これがルサンチマンになるのは「〇〇が私よりも優れているから」という可能性があらかじめ排除されている場合である。現実にある差異を否認することによって、卓越者を悪党に仕上げてしまう。かかる思考回路の前景化こそ「自由で平等な人間」という近代原理の陰画であり、かつてニーチェやオルテガが大衆社会の悪夢として警鐘を鳴らした事態だった。
そして、富や社会的地位の場合と同様に、真正の知的精神や態度も、単なる気取りや見掛け倒しに過ぎないのではないかという疑惑から、決して逃れられなくなる。
「〇〇が私より知的に見えるのは、知的な振りをしているからである」という思考において、「〇〇が私より優れているから」という可能性があらかじめ排除する。そして客観的事実促されて「〇〇」の知的優位を「私」が認めざるを得なくなったとき、それでもなお「平等」を維持するためには「知的な事柄全体が本当は役に立たない余計なものに過ぎない」という発想が出てくる。これはまさに、反知性主義のテーゼである。

これらの言葉の一つひとつが現代社会の傾向としてリアリティをもって感じられるのは
きっと良いことでは無いだろう

結局のところ、一人ひとりが賢くなっていかないと駄目なのだが
歌にあるような「世界に一つだけの花」のように個を確立して
その上で人と違っていても独自の社会生活を実践していくのは
日本では難しそうな雰囲気と思えてならない

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2023年前半に読んだ本

2023年07月12日 09時18分43秒 | 

最近の記憶力の低下は致し方ないが、まだ読もうとする気力は衰えていないのを良しとするしか無い
今年の前半最後のページまでたどり着いた本たちの一覧

今年はなんといっても植物の不思議にとても刺激された
「植物は知性を持っている」に始まって「植物は未来を知っている」「植物はなぜ薬を作るのか」
「植物はそこまで知っているい」「面白くて眠れなくなる植物学」「マザーツリー」「超進化論」

何かを知ることは、当たり前としてきた前提をも疑うようになる
このことは独りよがりになりがちなのを未然に防いでくれる(?)

科学関係に関心が行ったので「時間」についての興味も湧いてきた
「時間とはなんだろう」の前半の時間に関する考え方は、ずっと自分が考えていたのと同じだった
だが、途中からはついていけなくなった
それでも知らないより知ってたほうが良さそうな気がしている
(現在は次元について別冊ニュートンを読み始めている)

難解なものにも挑戦したがっている自分がいて
お手軽な100分de名著のテキストで「精神現象学」と「存在と時間」で
わかったような気になりたかった
(昔トライした「存在と時間」はよくわからんが面白いと感じたのを覚えていた)

現在の問題を考えるには100分de名著のテキストで「ショック・ドクトリン」がためになった
(このもとになる上下2冊の本は読んでいて、解説本と同じ読後感がある)

ストーリーの無い本ばかりが続いたので、久しぶりに読んだ小説「業平」は
物語のありがたさを感じた、、と同時に、来年の大河ドラマの舞台となる
平安時代に興味が湧いてきた

いろいろ理由があって気楽に外出できない現在の状況では
ボケないためには、なにかに驚くことや教えられることが必要だ
本は、ありがたい、、、

「また本!」
アマゾンから届く度に同居人の呆れ声が聞こえるが
今年の書籍にかけた費用は28,170円
これが多いか妥当か、、、
彼女からすればもったいない、、との声が出そうだが、、、

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「第9回 町民学習会の講演会」に行ってきた

2023年07月11日 10時19分34秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

久しぶりに真面目な話

裁判は不完全な民主主義を補う制度だとしても経験しないで済む方が良いに違いない
弁護士によれば裁判は「勝ち負け」を争うものではなく「解決策」を感情的にならず
理性的に詰めていくものとの考えがある(講演会で聞いた話だが)

建前上、行政の予算等は議会の議決で承認される
この時、多数決で決められたとしても、どうにも住民が納得できない場合がある
近隣の自治体、東栄町でそのようなことがあった
東栄町では診療所、保険福祉センター、子育て支援センターが同居する複合施設
「東栄ひだまりプラザ」の建設に際し、町は国の交付金1億4227万円を当てる計画だった

ところが事態はそうはならなかった
予定していた頼りの交付金は補助対象にならないとされたのだ
(国の担当部署からは対象にならないことと、計画の訂正等を要求される内容の
メールが届いていた  裁判の証拠として明らかにされていた)
そこで行政は別枠の交付金(過疎債)に切り替えることにして
どうやら議会でも承認されたようだ

ところが東栄町の勇気ある有志は金が認められないを知っていたのに
結局は余分なお金を払うことになったこの事態に対し
「事前の県と国との協議が足りず町に損害を与えた」として、手続きを踏んで
町長に対し4268万円の返還(町への)を求めて行政裁判を起こした

この裁判は、何回か行われているうちに何故か国の交付金に急遽目途がついて
町が損したと思われる金額はクリアされることになった
こうして裁判上の争点が無くなったので原告はこれ以上裁判を継続する意味がないとして
訴えを取り下げた

この一連の顛末及び解説が、担当の弁護士を呼んで講習会(勉強会)という形で
7月9日(日曜日)行われた


学習会と名付けられたこのチラシは、販売店の判断で新聞折込はできなかった
ちなみに、折込ができたのは反対の立場の町議が発行したもの


自分も実感するが、田舎で長く住んでいる人々は争い事をなるべく避けるようになっている
裁判を起こした人々を先に有志としたのは、若干の混乱が生じるとしても
止むに止まれぬ思いで裁判という行動を起こしたからだ

この日の会場には新城市から6名が出かけ、大手メディアの方が1人
町民が20名くらいいたように思う(数えなかったのでアバウトだが)

地方自治法の中にある制度としての裁判、その意味等、そして今回の場合を
講師役の弁護士が公演した後、休憩を取った後質問タイムとなった

ここで驚いたのは、女性の質問が多かったことだ
裁判の原告代表も女性だった
田舎だから年寄りが多いと勝手に思っていたが、現役とまではいかないが
それでも十分若い人たちが、素朴な質問を繰り返していた
質問の質とかレベルとは関係なくどこか羨ましい思いを持つものだった

講師役の弁護士は、東栄町の有志たちの姿を見て「なんとか町を変えよう」
とするエネルギーを体感したという
そしてそれは宮城県で経験した住民たちのエネルギーとそっくりとも言う

物事が変わるにはちょっとした事柄や、少数の行動から始まるが
つい自分の住む新城市と東栄町の比較をしてしまった

東栄町の人口は2313名  会場に来た人は20人とすると 0.7%の人が関心をもっているとなる
これを新城市と比べると、新城市の人口は42336名だから 0.007をかけると296人となる

残念ながら新城市で進行中の行政訴訟について、関心のある人が296名
いるとはとても考えられないのが現実だ
(メンバー構成とか伝え方とか大いに反省する必要があるが)

女の人の力、勇気を持って行動に出ること、継続的に勉強することで
どんどん賢くなっていくこと
そうしたことが東栄町で行われていることは、とても刺激になる

新城市は新庁舎建設の騒動以後、いろんな問題が起きている
しかし、騒動と感じるのは一部の人に過ぎず
市民自治を標榜する割には行政お任せになっている

と言って、愚痴っても仕方ない
とりあえずは東栄町並の0.7%の人に関心を持ってもらうように
なにかを考え行動しなければ、、

ところで、交付金の対象以外だったものが急に支払われるようになったのは
なぜでしょう?
そこには政治的な力(自民党を主体とする)が働いたと容易に想像できるが
この事によって一部のひとは政治屋さんに借りができたことになり
次回の選挙の票を確保することになるだろう

選挙が民主主義と言われるが、選挙にはもっと別の力が働いている
補助金とか交付金というのは、なんだか与党の賄賂のような気さえする


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久しぶりの夜店

2023年07月10日 09時35分16秒 | 新城・地元に関すること

七夕の翌日、幸い雨に降られずに子どもたちが待ちに待った夜店が行われた

1週間前の7月1日は雨のせいで中止
子どもたちも関係者もがっかりといったところ

夜店とか花火とかいつもと違う空間と時間は、どこかふわふわした気分になる
具体的に何が楽しかったか覚えていなくても、楽しかった記憶だけは残るだろう

スタート時刻に現地に着いた(ウォーキングを兼ねて見物するために)
途中、会場に向かって歩いている子供連れ家族、中学生くらいの仲間が目に入る
浴衣姿は思ったよりも少ない
もう少し時間が経てば多くなるかもしれない
(女の子はこの夜店と納涼花火大会が浴衣を着る機会だ)

祭りの雰囲気はいいものだ
皆が嬉しそうだ
子どもは体全体に嬉しさが溢れているし
それを見ている大人も幸せそうな気持ちでいる
(そして、そう感じる自分もどこか幸せな気分になる)



電車で夜店に来た人も多いようだ(写真の奥は新城駅)
大人は安心してビールが飲めるし、車の運転できない子どもたちは
友たちを誘って来ている感じ

夜店の人出を見て多くの人が同じ感想を漏らす
新城のどこにこんなに子どもがいるのだろう、、と
本当に見かけることのないような子供の数だ

でも夜店を実施している人たちも大変だ
6時スタートだが、その準備はもっと前から始まる
この日は早くから夜店を実施する連絡はあったが、
準備している昼間は天候が怪しかった
蒸し暑い中の準備は疲れるだろうに

風船の中に当たりくじを入れて景品と交換しているが
子どもは楽しいだけだが、関係者は大変だ
(だが、案外楽しんでやっているかも)

夜の6時から9時までの3時間、車を止めて歩行者天国にして
準備片付けに時間をかけて、その僅かな時間を楽しむ

ずっと繰り返し行われてきたことだが、今年は4年ぶりにできた
今週末の15日は、1日に中止になった分のかわりとして
もう一度開催される予定になっている
晴れてほしいと心より思う

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